脳の生命と脳の死

  960823 大高誠二               指導教官 Darryl Macer

 

導入

 知るということは区別する事であり操作する事である。近年、人間の生死もまたこの例にもれず、理解の変化にさらされている。この研究は日本語と英語の文献をもとに、脳の生死に関する考察を行ったものである。

人間の死は昔は一つであったといっていい。制御不能な死の過程が、雪崩のように連続で起こったからである。ところが現代では、医療技術の進歩によって、この過程を様々な段階で止める事が可能となり、生物学的な生命と、人としての生命との間に齟齬を生じるようになってきた。そこで、人の命を再定義する指標として脳機能が注目されるようになってきたのである。

一方、同様の変化が人の命の始まりを議論する文脈でも起こってきた。人間の胚を研究する必要からである。元々、キリスト教世界には、受精の瞬間からそれは人であるという認識が根強く、人工妊娠中絶に対する反対が強い。ゆえに胚研究もまた、このような反発を引き起こすのである。そこで、脳死論議の影響のもと、胎児の脳の発達に応じた許容基準を作ってはどうか、という提案がなされるようになったのである。

 

結果

脳死論議で問題となるのは人間の生命とは何かという点である。脳には大きく分けると2つの機能がある。精神を司る機能と、肉体の維持を司る機能である。(肉体の維持は精神の維持も含んでいる、なぜなら脳もまた肉体だからである。)ここで、肉体より精神が優先すると結論するのは早計である。脳死をどう定義するかについて、イギリスを除くほとんどの国で全脳死を採っているものの、その基準は脳の肉体維持機能を重視しているのである。(イギリスでは、脳幹の死をもって人の死とする。)

 問題をもっと複雑にしているのは他人にとっての患者の死の問題である。他人にとっては、患者とは患者が表現するもの全てである。肉体もまた、患者がそこにいることを示しているのである。ところが、脳死は目に見えないのである。そこでは、死の表現が極端に不足している。多くの論者によって、家族による死の受容の問題が論じられている。

 人間の胚の研究において問題となるのは、その胚は保護すべき価値をもっているのか、という点である。これには大きく分けて3つの論点がある。1つは、ある機能を持つ事を、人間として権利を持つ上で価値あることと定め、そこまで発達したらその胚は保護されるべきだというものである。2つ目は、特定の完成度へ発達する可能性がはっきりしたら、その胚には保護する価値があるというもの。3つ目は、機能とは無関係に、ある特徴の表れを象徴的な出来事として重視する立場である。

 3つ目に関連して、キリスト教やイスラム教神学の文脈ではensoulmentということが言われる。これは、神による人間としての魂の注入という意味である。魂の存在はまた、人間が神聖である事の根拠でもあるのだから、ensoulmentを経た胚は保護されなければならないということになる。“神聖さ”ということは、こういった宗教の信徒とってばかり重要なわけではない。我々は、魂の存在など信じていなくとも、人間の胚を他の物と同じようにぞんざいには扱わないからである。

 

考察

 何に価値があるのか、それを前提にしていなければ、科学的な検証は全て無意味となってしまう。科学的事実は価値を語れないからである。しかし一方で、科学の発達は価値観を相対化し、社会は新たな価値観を求める。そうであるならば、科学の発達と共に、新たな価値の創造を行わなければならないということになろう。 

ただし、脳は過去において、まったく無視されていたわけではない。アリストテレスは脳を体温調節器官と考えていたようだが、ガレノスは脳の意味を見抜いていた。科学の進歩が脳に再び光を当てたのである。

脳と、人間の価値を結び付けようとする試みが、このように紛糾するのは、そのおおもととなる価値観が、それぞれで異なっているためである。しかし、政策において、全ての価値観を認めるというわけにはいかないのであるから、個人にどれだけの自由を与えられるかということが倫理上のディレンマとなるのである。