つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 126-127.

連載:高校の授業で取り上げて貰いたい「がん」

―その2 「がん」は遺伝子の病気か?―

本間 良夫 (埼玉県立がんセンター)

 最近の「がん」に関する書物では、遺伝子の損傷がもとになり細胞ががん化するという論調のものが多い。確かに一面の真理は突いているが、これは厳密に言うと正しくない。生物学の法則に必ずと言っていいほど、例外の事象が出てくるように、「がん」においてもそう単純に説明はつけられないのである。話題をまとめる方向に向かわせないで、さらに話の展開を拡大しようとする魂胆に編集者サイドは不快感を抱くだろうが、あえてこの話題を触れさせて頂きたい。「がん」を生物学的に理解しようとする上で極めて重要な点であると筆者は考えているからである。

 現在までに多くのがん遺伝子(がん化の原因となる遺伝子)が同定されているが、このがん遺伝子は正常遺伝子に点突然変異・部分欠損・他遺伝子との融合などの変化が起きて生ずる。その遺伝情報をコードしているDNAを正常細胞に導入するとがん細胞に変換することが出来る。この現象から考えると確かに「がんは遺伝子の病気」であると言える。しかし「がん」になるかならないかは、がん遺伝子とともにそれが発現する細胞の種類や状態による。つまり発生学で言うところの「場」が重要なのである。具体的な例をあげると、bcr-ablというがん遺伝子はヒトの慢性骨髄性白血病の原因遺伝子であると考えられている。この遺伝子を血液幹細胞に導入すると白血病細胞を生ずる。しかし繊維芽細胞に導入してもがん化は起こらないのである。動物レベルで検討しても同様である。bcr-ablの トランスジェニックマウスにおいて白血病は頻発するが他の腫瘍の発症は極めて少ない。全身の細胞の遺伝子タイ プは同等でしかも同等程度に発現しているのに造血器にのみ特異的に変化が認められるのである。 

 バーキットリンパ腫(リンパ球が腫瘍化した悪性リンパ腫の一種)の場合はもっと明らかである。たまたま血液系の細胞において8番と14番の染色体が相互転座を起こすと、その細胞は異常増殖を引き起こす。しかし他の細胞 においてこの遺伝子異常が起こっても何ごとも起こらない。これは14番染色体上に免疫グロブリンをコードしている遺伝子がありリンパ性細胞においてはその発現が盛んに行なわれている。一方8番染色体には増殖促進に関わる遺伝子mycがあるが、これは細胞周期にきちんと連動して発現が制御されている。相互転座の結果、myc遺伝子が免疫グロブリン遺伝子の支配下に組み込まれる結果となる。もしリンパ球にこの変化が起これば、盛んにmyc遺伝子が発現するようになる。一方、リンパ球以外の細胞においては免疫グロブリンの遺伝子は活性化されていないのでmyc遺伝子の異常活性化は起こらない。つまり、がん遺伝子とともにその発現を引き出しうる細胞が揃ってはじめてがん化が起こるのである。 

 さらに「がん化」に細胞が重要であることを紹介しよう。がん細胞は正常細胞として挙動することもあるし、逆に正常細胞ががん細胞として振る舞う事もあるのである。正常の初期胚を子宮内から取り出し、睾丸に移植すると奇形腫が出来てくる、これを腹腔内に移植し続けることが出来る。もちろん移植されたマウスはがん死する。まぎれもなく悪性細胞である。しかし皮下に移植すると、いろいろな組織に分化した像を呈する。正常細胞といっても初期胚の細胞であるが、本来存在するべき場所でないところに移す事により異常な行動をとるようになってしまい「がん細胞」として挙動してしまったのである。同様の現象は、奇形腫に限らない。マウス胎児の胃粘膜を外耳道の皮下に移植すると癌に似た異形腺管に、また胎児の腎組織を成熟したマウスの腎皮膜下に移植すると小児の腎でみられるウイルムス腫瘍に類似の腫瘍になることも報告されている。逆に、がん細胞といえども、分化誘導物質を処理することで正常細胞に変換することも出来る。また、初期発生のしかるべき時期と場所に「がん細胞」を移植することにより正常細胞のごとく成熟させることも可能である。

 以上の実験結果から、1)発癌物質などにより遺伝子に異常が起きて、がん遺伝子が出来る、2)がん遺伝子がうまく発現する状態にある細胞内でこの変化が起きるという組み合わせが必要なのである。細胞を異常な行動に走 らせるには、がん遺伝子によらなくとも細胞が本来あるべき場所でない所においても可能である。通常は、胎児の細胞が成人の身体に入り込むことはないので、ヒトのがんの大部分は、遺伝子の異常が原因で起こる。したがって、「がんは遺伝子の病気」と見なせるが、生物学的(普遍的)に似みると「がんは遺伝子の病気というより細胞の病気」 というほうがより正しいと筆者には思える。

 「がん」の本質は生命体の根源的なものに起因していると考えるので、その本質を真に理解できるのは生物学者であって医学者ではないと私は思っている。それ故に医学のみならず生物学を目指す多くの優秀な若い人達に「がん」の奥深いところを知って頂きたいのである。がん細胞が正常細胞に分化することに関しては、拙者達の総説がある ので参照していただければ幸いである。最近はがん細胞の分化を治療戦略に用いる可能性をもっぱら書き、生物学を学ぶ人たち向けに書いていないので文献が少し古くて恐縮である。

参考文献
  1. 本間良夫、穂積本男:がん(腫瘍)細胞、現代生物学大系11b 発生と分化B(沼野井春雄 監修)pp193-201 (1980)
  2. 本間良夫、穂積本男:細胞分化に影響を与える物質−骨髄性白血病細胞の分化を例にして−、代謝17、1119-1127 (1980)
  3. 本間良夫:白血病細胞の分化誘導とその作用機序、細胞工学6、922-928 (1987)
Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received Augast 17, 2002.

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