つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 116.

特集:生物学類の国際交流事業

その窓の向こうがわ ―2000年度交換留学プログラム参加―

渡辺 芳武 (筑波大学 生命環境科学研究科 1年)

 夏の終わりは、空気の匂いの変化と共にある日突然やってくる。殺人的な湿度を含んだうだるような熱気が、ある境界でパタリとひんやりした空気に置き換わるとき、ぼくは時間の流れをそこに感じる。季節の変わり目はいつだってそうだ、吸い込んだ大気がぼくに何かを訴える。何かを思い出させようとする。その時、なぜか胸が一杯に なる。おそらく、過ぎ去ってしまった時間をいとおしむのと、新しい季節のかすかな希望がそうさせるのだとおもう。

 この日もそうだった。早朝、アルバイトに出たぼくは最初の一呼吸がぼくの胸を揺さぶる何か、を含んでいた。記憶のどこかにあるこの匂いが、ざわざわとしたものを運んできた。目の前に広がっている記憶の光景が、焦点をあわせることが出来ずにぼやけたままぼくの内部に澱み始めた。必死に思い出そうとした。喉元に引っかかっている記憶の断片を引っ張り出そうともがきつづけていた。

 それは、冴え渡る青空と、緑のまぶしい芝生を有した昼間の光景だった。その当たり前の風景と、朝の一呼吸が外部刺激として働いた。インパルスが走り、全ての回路が同時につながった。そうだ、あの光景だった。

 屋根裏部屋のような一室から、ぼくは窓の外を眺めていた。午後8時だというのに、外にはまだ青空が広がっていた。ベッドの上にはスーツケースが投げ出されており、机の上には一枚の書類が置かれていた。想像していたのと全く違う、かわいらしい昔ながらの石造りの家は、これが大学の宿舎とは思えないほどのアンティークぶりで、敷き詰められた絨毯と、小さな部屋に不釣合いなほどの大きめのソファーはとても心地が良く、白熱灯の下で優しく佇んでいた。真夏のはずなのに半袖では寒いくらいの異国の地の空気はいっぱいの希望と点在する不安に満たされていた。そう、この風景だったんだ。きりっと乾いた空気とさわやかな風ははじめてマンチェスターで過ごした、あの、夏休みの間に泊まっていた宿舎を思い出させる。

 新学期が始まってぼくは宿舎を移った。前もって予約しておいた安い宿舎は夏休みの間は入ることが全く出来なかったために、その間ちょっと高めの、けれども、いかにも絵本にこれがイギリスの家です、と紹介されていそうな小洒落た宿舎に滞在していたのだ。毎日のように通った研究室ではエンドウマメの幼根にあるstarch branching enzymeの活性を測定し、授業は外国人生徒向けの語学授業と、生物の専門授業をいくつか受講していた。元来自ら積極的に会話を作り出すことができない内向的な性格のぼくは、言葉の壁という世界を悲劇に沈み込ませているあの嘆きの壁に匹敵するほどの巨大な障害のせいもあり、なかなか積極性を獲得できないままの状況に甘んじていた。 アングロサクソン系の体格は男性はもちろん女性でもぼくよりも大きい人が多く、それが二重にぼくの中から積極性を奪っていったのかもしれない。ぼくは自分の限界をひしひしと感じながら、新しい生活を始めていった。

 授業に対する先生方の態度は、日本のそれよりも残念ながら非常に熱心で、全てを理解することは出来なくてもその面白さにのめりこんだ。研究室の人たちはみんなとても良い人たちばかりで、もじもじしているぼくに笑顔を投げかけつづけてくれた。社会全体が日本よりも格段にオープンだからこそ、悪意ある疎外を感じることは無かったし、誰もが質問には好意的に応えてくれた。見るもの全てが新しくって感動の連続だったし、その感動をすぐに伝えたくってぼくは日本の友だちにひっきりなしにメールを送りつづけた。見知らぬ地で寂しさを感じなかったといえば嘘になる。日本語を求めていたし、話相手を探していた。メールを送るということはぼくがどこかとつながっていると言うことを確認するための手段だったのかもしれない。けれども、それ以上に毎日が発見の日々だったし(例えばスーパーに行けば日本には売っていない野菜や缶詰やパンがあり、その奇妙さは一度は試さずにはいられないものであった。電車に乗るのに改札がないことも、コインランドリーでの洗濯にはお湯が使われることも、 お菓子には毒々しいまでの着色料が使われているのも、トヨタや日産の自動車が街中を走っているのも、そういう全てが刺激的だった)、頻発するアクシデントにはただ自分で笑うしかなかった。日本から送った荷物は紛失してしまい、銀行の口座を開こうとしたら何度も断られ、ようやく開けた口座のカードすら郵便で誤送されて手元に届かなかったり、運良く始めることができたアルバイト先ではハプニング続きで最後には小火騒ぎをだしてしまうし、休暇中に行った旅行先では宿の予約がことごとく取れていなかったり、電車はストライキを起こし立ち往生したり、少額とはいえお金を騙し取られたり。そういうことをぼくは毎日のように東経0度の地から東経135度へ発信しつづけた。  ぼくはメールを書きながら気づいた。身の回りの出来事を(残念ながら英語ではなく日本語でだったのだが)送信しながら、今更ながらわかった気がする。人生って案外面白いものだったのだ、ということを。

 一方で、ぼくは焦燥感にかられていた。こつこつと実験データを取りつづけながら、きちんと毎回授業に出て復習と宿題をこなしながら、けれどもぼくは常に焦りつづけていた。留学を志願したほかの数人から彼らの留学のチャ ンスを奪い、高い渡航費を払って、多くの人たちに迷惑をかけてきた。果たしてそれでぼくは何かを得たのだろうか?彼らの犠牲の上にぼくは成り立っている。考えない日は一日も無かった。その犠牲に見合うだけのものをぼくは手にしているのだろうか、と。そのプレッシャーは次第にぼくを圧迫してゆき、しばしぼくを無力感に陥れた。何とかしなきゃ。広がる焦燥感はさらにぼくを自分の殻に閉じ込めさせていった。英語は相変わらずちぐはぐだったし、どれだけの知識が増えたのかいまいちわからない。研究テクニックが飛躍的に伸びたわけでもないし、友だちもフラットメイトをいれても数えるほどしかいない。自分の進歩が見えないから、帰るのが怖かった。どの面を下げて日本に帰国すればいいのか、ぼくには全くわからなかった。

 じわりと汗の噴出す亜熱帯日本の地に再び降り立ってから、もう1年と数ヶ月が経った。ぼくは無事に進級し、余計なことをやっては周りに迷惑をかけながらも贅沢な日々を過ごしている。将来のこととか、自分の性格のこととか問題は山積みのままだけれど、それでも笑ったり落ち込んだりしながら、貴重な一日をこうやって過ごしている。 そして時折、ふと振り返る。立ち止まって、今まで来た道をトレースすることがある。あれから、あの小さな窓から晴れ渡る異国の庭を眺めたあの日から、果たしてぼくは「シンカ」したのだろうか。目を細めながらぼくは追想する。

 今ならはっきりと言える。

 あの留学経験は貴重な経験だったと。プラスもマイナスも含め、ぼくには握り取ったものが確実に存在していると。

 英語での会話は相も変わらずしどろもどろだし、生物の知識もまだまだ全然足りないままだ。向うで身に付けた 実験テクニックは結局初歩的なものでしかなかったし、聴いた授業の中身も日に日に埃を被り始めている。お前それでも留学してきたのかよ、という辛辣な言葉に返す言葉は見つからないし、一方で適切な場面で適切な日本語の単語がぱっと出てこないもどかしさには辟易している。けれども、だ。けれども、後悔なんて全くしていない。北緯53°で過ごした経験は、ぼくに新たなモノの見方と態度と可能性を供与してくれた。自分で動かなければ何も始まらないということ、自らの主張はしっかりと主張しなくてはならないということ、コミュニケーションは常に通じないという危機意識をもちつづけるということ、そして何よりも自分の人生を制限する要因は自分以外にこの世界には何も無いということだ。そんなこと当たり前だ、と嘲笑されるかもしれない。以前のぼくがあまりにも幼稚すぎただけなのかもしれない。あるいは、それは真実ではない、と批判されるかもしれない。けれどもぼくはそれらのことを向うでの1年間で痛いほど感じた。本当に痛いことも沢山あった。それゆえに、おそらく身体で覚えた 痛みは忘れることが無いだろうと思う。薄まることはあっても、絶対に忘れたくない。経験が人を作っていくものだとぼくは信じているし、苦い記憶もきっと優しさに通じるはずだ。頭でわかっていることだけでは、本当にわかっていることにはなりはしない。いや、このぼくも、本当に自分で言っているこれらことをしっかりと理解しているのかどうか疑わしいものだ。もしかしたら解ったつもりになっているだけなのかもしれない。偉そうなことを言っていて、本当は何一つ身についていないのかもしれない。それでも、前に進んだと思う。何も知らなかった昔から比べれば、それは確実にぼくにとっては進歩と言えるものであると思う。

 もちろん、留学だけが選択肢ではない。経験は日常でも嫌というほど溢れている。積極的に敏感に世界に関わってゆくことができるならば、なにも無理に浪費に投じることはない。しかし、もしもあなたがぼくのように生きることに対して鈍感で、狭量な世界観に構築された空間の片隅に安住していて、それでも自分の新たな可能性を見つけたいと切望するのであれば、留学という経験は決して無駄にはならないと思う。感じることが個々人で違うとはいえ、多くの何かを失うリスクを抱えているかもしれないとはいえ、それらのデメリットをどんなに考慮しても、それでもなおチャンスに飛び乗る価値は存在しつづけると思うし、自分への投資はどこか近い将来で確実に回収できると確信する。がんばって一歩踏み出してごらん。きっと、今まで見えてこなかったものが見えてくるはずだから。 これは、これからの自分に対しての助言でもある。

Communicated by Yoshihiro Shiraiwa, Received October 10, 2002.

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