つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 14-15.

特集:生物多様性

神奈川県植物誌2001 ―博物館における生物多様性の研究・教育の事例―

木場 英久 (神奈川県立生命の星・地球博物館)

● はじめに

 一昨年の夏、『神奈川県植物誌2001』([1];以下、『植物誌2001』と略します)が刊行されました(図1:神奈川 県植物誌2001)。自然史博物館で学芸員をしている私はこの本を出版するための野外調査や、執筆、編集などに参加 しました。そのときの経験を、生物多様性の研究・教育の事例として紹介します。

図1

● 神奈川県植物誌の特長

 ある地域に生育している植物の全種のあつまりを植物相といい、それを記した本を植物誌といいます。植物誌は、その地域の植物の名前を調べるのに役立つほか、生物地理学的な研究や、生物多様性の保護のための基礎的な学術資料となります。神奈川県は全国的にみて、植物相がもっともよく調べられている地域です。県内全域を対象にした植物誌に限っても、『植物誌2001』で5冊目が出たことになります[2,3,4,5]。  この本について多くの雑誌に書評が載せられました。「地方の植物誌としては、これ以上のものは望めないだろう」 という評価をいただき[6]、書評としてはこれ以上のものは望めないなあと、ありがたく思いました。高い評価を得たのは、証拠標本が博物館などの施設に保存されたことや、調査に地域住民が参加したこと、種を見分けるのに役立つ線画や検索表、ほぼ全種の分布図を載せていることなどによると思われます。しかし、この「全種の分布図」を実現するのは大変な作業なのです。

● どうやって分布図を描いたか

 『植物誌2001』では、県内に野生する維管束植物の分布状況を把握するために、県内を111個の調査区画に分けて、 各調査区画で全種をリストアップすることにしました。この分布図の分布点は、植物標本が採集された場所を表しています(図2:タイトゴメの分布図.海岸線沿いに分布しているのがわかる.)。白丸は1987年以前に、黒丸は1988 年以降採集された標本を示しています。全種の分布図を載せることにしたので、植物誌に掲載された分布図は約3千枚あり、それは約24万5千点の標本にもとづいています。これだけ多くの分布図を、もしも手で描くとしたらたいへんな手間がかかります。そこで、機械に描かせるために標本ラベルのデータ(採集日、採集地、採集者、種名、標本番号)をデータベース化する必要がありました。採集地はコンピュータで扱いやすい形式にするために、国土基本3次メッシュ[7]のコード(8桁の数字)も入力することにしました。国土基本3次メッシュとは、2万5千分の1の地形図をさらに縦横に10等分した長方形で、一辺の長さは約1kmです。  このデータベースさえあれば、国土地理院発行の数値地図のデータを使って白地図画像ファイルをつくり、それに種ごとに標本の採集地点をプロットするプログラムを作れば、3千種の分布図であっても機械に作らせることができます。しかし、この24万5千点の標本データを入力するのは、やはり大変な作業です。  知らない方もいらっしゃるかもしれませんが、筑波大学には国際的に位置付けられた植物標本庫があり、維管束植物だけでも5万点を越す標本が収蔵されています[8]。機会があったら見学に行ってみるとよいでしょう。このおよそ5倍の点数の標本のデータベースを構築するといえば、どれほどたいへんな作業であるかイメージが湧くと思います。

図2

● どうやってデータベースを入力したか

 今回の植物誌に引用した植物標本は、7つの施設(平塚市博物館、横須賀市自然・人文博物館、横浜市こども植物 園、川崎市青少年科学館、厚木市郷土資料館、相模原市立博物館、神奈川県立生命の星・地球博物館)に収蔵され ています。各施設によって違いはありますが、多くは自作の入力プログラムを使って、ボランティアによって入力 が行われました。入力と同時に標本ラベルが印刷されるようにして、なるべく余分な仕事を増やさずに入力を進めたり、入力作業の速さと正確さを両立させるために数々の工夫をしました。

● どうやって標本を採集したか

 このデータベースに入力される標本は、もともと7つの施設が持っていたものだけでは足りません。野外を隈な く歩いて採集をする必要があります。この野外調査を中心になって行ったのは神奈川県植物誌調査会です。この会 は『植物誌1988』[5]を作るために、博物館が新聞などを通じて市民に調査への参加を呼びかけたのが始まりで、県 内のおもだった植物の研究者のほか、教員や主婦など、植物に興味のある人々で構成されている団体です。会員の 希望を募って、111の調査区画に調査員を割り振りました。各調査区画に生育するすべての種の標本が、最低1点は 作られるように採集を進めてもらいました。

● 調査員のサポート

 調査員の中には、アマチュアながら私など足元にも及ばないほど植物に詳しい方もいらっしゃいましたが、同定 が苦手な分類群があるほうが、むしろふつうです。7つの施設では、標本の整理・保管をするだけでなく、勉強会や標本同定会、合同野外調査などを開いて、調査員のレベルアップを図りました。私の博物館では、イネ科や、カヤ ツリグサ科、シダの仲間など、いかにも分類・同定が難しそうな分類群の講座や観察会を開催しました。  また、とくに催し物があるとき以外でも、標本を持って博物館のバックヤードに勉強に来られる方はたくさんいました。博物館は研究とともに教育を行う機関なので、こういう場面には純粋な研究施設よりも適しているといえ ます[9]。  さらに、調査の過程で見つかった神奈川県新産植物の情報や、分類の難しい種の検索表などについて、ニュースレター『FLORA KANAGAWA』を発行して調査員に伝えました(図3:FLORA KANAGAWA)。  調査の初めと終盤に差し掛かった時期には、標本データベースを種名と調査区画でクロス集計して一覧表を作り、近隣の地域メッシュと比較して、採集もれの種がなくなるように情報を調査員にフィードバックしました。

図3

● 植物誌の成果

 このようにして作られた植物誌ですが、調査の過程でいくつもの新事実が明らかになりました。過去に神奈川県で記録があり、『植物誌1988』[5]の調査では採集することができなかったもののうち、61種が再発見されました。約百年ぶりに再発見された植物もあります。また、植物調査が行き届いた神奈川県ですが、今回の調査で初めて記録された在来植物も66種ありました。日本新産帰化植物も60種以上発見されました。また、とかく老練な植物学者の経験に基づいて進められることが多かった植物地理の議論も、標本データにもとづいた定量的な解析が試みられています [10]。

● 植物誌の副産物

 上記のような植物学的な成果のほかに、とても大事なものが得られました。  調査の過程で調査員の皆さんは着実にレベルアップを遂げました。例をあげれば、私の専門はイネ科なのですが、形態を表すのに苞穎だの護穎だのという特有の用語があります。調査員の皆さんの間にいつのまにかこういう用語が 浸透していて、用語を用いた正確なコミュニケーションが取れるようになっていました。そして、イネ科であっても、身近な種ならば見分けられるようになった方が多いので、生易しい観察会を開くと退屈されてしまうほどです。  調査が終わってからも、会の活動は続いています。気軽に博物館の研究室に来てくれる人もたくさんいて、いまでも新しいことがみつかると博物館に情報が集まるようになっています。  先日も3人の方をとおして、見慣れないイネ科植物があったという情報が寄せられました [11]。こうした目の肥えた人々に神奈川県の植物は監視されているのです。いわば、帰化植物や絶滅危惧種のモニタリングが続けられているようなものです。この体制は博物館にとって、どちらが副産物かわからないほどの宝物です。

● まとめにかえて

 上記のように地方植物誌作りは、長期的な視点に立って、実物資料を集積して、多人数がかかわって行われる研究です。市民が参加するのであれば、教育する機能も要求されます。こういったことをおこなうのに博物館は最適な教育・研究機関であると考えられます。

参考文献

  1. 神奈川県植物誌調査会編:神奈川県植物誌2001. 1582pp. 神奈川県立生命の星・地球博物館,小田原.(2001);http://nh.kanagawa-museum.jp/wnew/plant/index.html
  2. 松野重太郎編:神奈川県植物目録. 5+111+23pp. 神奈川県博物調査会, 横浜. (1933).
  3. 神奈川県博物館協会編:神奈川県植物誌. 4+257pp. 神奈川県博物館協会, 横浜(1958).
  4. 宮代周輔:神奈川植物目録. 4+112+41pp.(自費出版)(1958).
  5. 神奈川県植物誌調査会編:神奈川県植物誌1988. 1442pp. 神奈川県植物誌調査会, 横浜. (1988).
  6. 山崎敬:(新刊書評)植物研究雑誌, 76:304.(2001).
  7. 国土交通省HP、国土数値情報、メッシュデータについて:http://nlftp.mlit.go.jp/ksj/mesh.html
  8. Index Herbariorum, New York Botanical Garden;http://www.nybg.org/bsci/ih/searchih.html.
  9. 浜口哲一:放課後博物館へようこそ−地域と市民を結ぶ博物館−. 240pp. 地人書館, 東京. (2000).
  10. 田中徳久:維管束植物標本データに基づく神奈川県の植物地理. 神奈川県立博物館研究報告,(投稿中).
  11. 木場英久:帰化植物がたくさん見つかるわけ. 神奈川県立生命の星・地球博物館友の会通信, 6(3): 1. (2002);http://village.infoweb.ne.jp/%7Efwgk9770/fwgk9770/newpage146.htm

Communicated by Isao Inouye, Received December 23 2002, Accepted December 28 2002.

©2003 筑波大学生物学類