つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 20-21.

特集:生物多様性

まぼろしの「博物学雑誌」  ―明治、大正、昭和初期の茗渓博物学の情熱・筑波大学生物科学の源流―

井上 勲 (筑波大学 生物科学系)

 このオンラインジャーナル「つくば生物ジャーナル」の刊行が、案から計画へ移行した頃、頼まれて恩師の千原光雄先生に二編の原稿の執筆をお願いした。一つは、初代生物学類長としてジャーナルの創刊号への寄稿、もう一つは、筑波大学開学30周年記念行事の一つとして進められている、筑波大学創基130年の歴史のなかで名を馳せた先人のお一人についての列伝の執筆である。快諾していただいたが、しばらくして、図書館で資料を何点か集める よう依頼があった。その一つが筑波大学中央図書館所蔵の博物学雑誌から数編の記事を探し出すことだった。

 博物学雑誌とは、筑波大学の前身の東京高等師範学校・東京文理科大学の時代に、私たちの大先輩が博物学会(または東京博物学会)という学会を興し、その会誌として発行していたものだという。確かに引用文献で博物学雑誌 というのはたまに見ることがあるが、うかつにも私は、千原先生に指摘されるまでこのような来歴の雑誌であることを全く知らなかった。明治36年(1903年)の創刊であることを、後で調べて知った。ちょうど100年前のことである。この雑誌は、日本の生物学の黎明期から現在の生物科学のいろいろな分野が発展した昭和初期にかけて、私 たちの先輩たちが生物学に情熱を注ぎ、志に燃えて生物学を切り開いてきたことを示す証なのである。私より若い世代のほとんどはおそらくこの雑誌を知らないだろう。しかし、筑波大学生物科学の源流である「まぼろしの博物学雑誌」は、筑波大学生物科学系、生物学類に関わる者なら知っておくべき雑誌だと思う。

博物学雑誌の表紙

発行者(左:表紙と、右:巻末)

 中央図書館に行って本の所在を訪ねたら、本学関係資料室にあるという。本館2階のリファレンスデスクの裏に大学新聞などが保管されている小さな部屋があり、書棚の一角に、確かにB5判ほどのサイズの古ぼけた本が並んでいる。よく見ると、背表紙に消えかかった博物学雑誌という文字が見える。コピーを依頼された記事の正確な発行年や巻・号が不明で、1冊ずつ手にとって見つけだす必要があった。試しに何冊か手にとってみる。表紙には博物学雑誌の誌名があり、発行者として博物学会(東京高等師範学校)、あるいは東京博物学会(東京高等師範学校・東京文理科大学)とある。古文書を発掘する興奮が走った。ぱらぱらとページをめくって眺めていくと、あちこちの号の目次に、あの丘浅次郎(おか・あさじろう)の名前が見える。この雑誌は確かに茗渓そのものだ。丘浅次郎 は現在の生物科学系の動物分野の創始者といっていい人物である。丘は、一般には「進化論講話」や「生物学講話」 などの著作(いずれも現在でも講談社学術文庫で入手可能。生物学講話は「生物学的人生観」と改題、今の若者に意外と受けるかもしれない。)で知られ、近代日本史、思想史に名を残す人物である。科学を超えた斬新な思想であっ た進化論を紹介した「進化論講話」は落陽の紙価を高らかしめたと評され、好評を博したらしい。進化論講話は明治37年(1904年)に初版が発行されたので、来年で100年を迎えることになる。研究面ではホヤやヒルのなかまの比較形態を開始し、無脊椎動物のいわゆる茗渓の一派をなした。生物学類の標本室には、丘が採集したホヤ類の標本がおよそ300点ほどあり、そのなかには正基準標本(ホロタイプ、タイプともいう。新たに発見された生物に学名をつけるもとになった標本、永久に保管することが国際的な約束である。)も20点ほど含まれている。伊豆の下田臨海実験センターは日本のホヤ学発祥の地で、今でも多くのホヤ研究者が訪れている。丘は優れた教育者でもあ り、海産無脊椎動物を中心とする生理学や発生学の研究者を輩出した。丘が興した海産無脊椎動物の研究は現在でも筑波大学の生物科学に受け継がれているのである。

(左)茗渓の一派をなした丘浅次郎 (右)こんな宣伝も載っている

 丘浅次郎の他にも、そうそうたる先人の名前がここにもそこにも見られる。博物学雑誌総目録(1-50号、明治 36年-昭和8年)から独断で挙げてみると、高倉卯三麿(文理大動物学教室初代教授)、高槻俊一(同三代教授)、下 泉重吉(東京教育大学教授、生物教育、自然保護の草分け)、八木誠政(昆虫、生態学)、駒井卓(東京高師卒、京 都大学教授、東京大学教授、遺伝学)、山内繁雄(高等師範学校教授)、斉田功太郎(同)、矢部吉禎(文理大植物学 教室初代教授)、山羽儀兵(同二代教授)、草野俊助(同三代教授)、三輪知雄(筑波大学初代学長)など枚挙にいと まがない。いずれも筑波大学生物科学の特色の礎を築いた先人である。

 掲載されているのは論文に限らない。さすがにそこは東京高等師範で、教育に関係する論説も多い。タイトルを いくつか拾ってみる。「博物科教師の自修法」「博物研究の心得を述べてその形式上の価値に及ぶ」「狭きにすぎるな」 (以上、丘浅次郎)、「理科教育の根本問題」(下泉重吉)。もちろん学術誌であり、生物学に関する論文や論説が中心になっている。「進化を説明する一新学説」「雑種形成と植物の進化」「最近の遺伝の研究よりみたる進化の学説」など、国際的に知られた藻類学者である山内繁雄の論説も多くみられる。動物、植物、藻類、菌類、原生動物など、あらゆる生物の分類群がこれでもかと出てくる。あの日本の生物学の黎明の時代に、これだけの多様な生物群に目を向け、研究対象とすることができたのは、おそらく日本で茗渓の一派だけだったのではないか。東京博物学会が大いに気を吐いていたのである。それぞれの記事や論文から日本の生物学はわれわれが作り上げるのだという意気込みが伝わってくる。博物学だけではない。動物の分類群がちがえば、神経のはたらきや生理や発生はどのようにちがうのだろう、植物のリズム、屈曲運動のしくみは、という具合に、研究分野は多様な生物を対象として、生化学、 細胞、生理、発生学へと展開していく。そんな兆しを示す論文、論説も多く掲載されており、博物学を基礎とした生物学の諸分野への展開の息吹がうかがえる。現在の筑波大学生物科学系の研究分野と研究者の多様さを思うと、その歴史的必然と連綿とつながる伝統の力を感じざるをえない。

 臨海実習や採集会などの記事も楽しい。私が教育大植物学科の2年次までは、まだ伊藤洋先生とお弟子さんの院生が率いる月1回の採集会が残っていた。先生と先輩の後をついて歩く武蔵野の採集会は植物の多様性への関心を大いに深めるきっかけになり、感謝している。

 この雑誌を見ていると、筑波大学の生物科学の教育と研究は、こうした多くの先人たちのさまざまな生物への好奇心と探求心が基礎になっていることを思い知らされる。明治から昭和初期に、私たちの大先輩たちは博物学を武器に生物学の諸分野を開拓したのである。今日の生物科学は、すでに一様性や普遍性の生物科学の次に来るものを視野にいれなければならない状況にある。まぼろしの博物学雑誌を掘り起こし光をあてる意味がここにある。千原先生の指摘を受け、これはうかつだったと反省した次第である。筑波大学生物科学系に籍を置き、生物学類を担当する立場として、この雑誌を知らないではすまされない。

 残念ながら、図書館では、この貴重な雑誌のかなりの巻が欠けている。理由はわからないが、大正12年に文理大の建物が焼けたという記録があり、その時に失われたのではないかと勝手に想像している。博物学雑誌が廃刊になった経緯はなかなかわからなかったが、東京文理科大学廃学記念誌(昭和37年発行)の中に伊藤洋先生(東京教育大学教授)が次のように書いておられる。東京博物学会の活動は「戦争中はほとんど散会同様に衰微し、戦後も残念ながら復興を見るに至らなかった。」現在、18-39、45-72巻が中央図書館の本学関係資料室に所蔵されている。

参考文献

  1. 近代日本生物学者小伝 木原均・篠遠喜人・磯野直秀監修 平河出版社
  2. 東京文理科大学閉学記念誌 東京文理科大学

Contributed by Isao Inouye, Received January 10 2003.

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