つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 338-339.

生物学類の方々へ

中道 徹 (弁護士 1983年生物学類卒業)

 やや散漫になりますが、自分のことや考えていることを1つの事例として紹介します。先輩後輩なんてのは時代の産物でしかなく、しかも既に古びた概念であり、今更効用のないものだと思いますが、「ブレードランナー」で、レプリカントにも誰かに伝えたいものがあったように、私も、自分の見たことを誰かに話したい気がするので。

 今でも同じだと思いますが、私の頃も、大学の卒業式では、生物学類の卒業生が集まって、芝生の上で集合写真を撮りました。多分、その日は晴天で、うららかな卒業式日和だったと思います。写真屋のおじさんが合図をし、社会人としてはまだまだ青さの抜けない我々は、それでも精一杯の一丁前なポーズをとり、フラッシュが焚かれました。その残光が薄れぬうちに、我々は三々五々散り散りになって、それから20年過ぎました。あのとき、芝生の上で集まったのを最後に、我々は二度と全員が集まることはありませんでした。卒業とは、そういうことです。

 皆さんは、大学を卒業して20年経つということはどういうことか、想像できるでしょうか?たとえば、私もそうですが、卒業したとき就いた仕事と全く違う仕事をしている人がいます。中には同級生と結婚した人がいます。中には高校生の娘がいる人がいると思えば、今まさに最初の子供を授かろうとしている人もいます。中には海外に居を構えて、日本にはめったに帰ってこない人もいるし、これから留学しようとしている人もいます。中には既に鬼籍に入った人もいます。

 こないだ大学に行って、随分大学が汚くなっていて、大変結構なことだと思いました。私は、高校まで東京にいて、大学というのは模擬試験の会場としてしか縁がなかったのですが、模試に行く大学行く大学どこも汚くて、大学というのは汚いところで、自分もそういった汚いところで4年間過ごせるのだと、なんとなく思っていました。だから、実際に入学したときは、筑波大学はちょっときれいすぎて、困りました。大学というより、予備校とか会社のようなきれいさを感じました。今では、汚くて大学らしくなりうらやましいです。

 私は、確かに生物学類で勉強したのですが、余り生物学は得意ではありませんでした。高校の生物の教科書に書いてある遺伝とか代謝とかの理屈は面白かったのですが、実験というのをそれまで余りやったことがなく、大学に行って私が実験をすると、すぐに色々爆発したりして、これは向いてないなと思いました。それで、大江健三郎とか蓮實重彦とか柄谷行人とかの本を読み、ポリスやボブマリー等を聴き、バイトをしていたら、4年が過ぎました。だから、大学でこう学ぶべきなんてことは、私には何も言えません。ただ、大学で、結構ややこしい本を好んで読んだので、後で、理屈の多い分野に興味を持ったときに、本を読めなくて困るということはありませんでした。一方、英語はさぼっていたので、留学に行きたくなったときに、ロースクールに行くための最低点を取るのにすごく苦労しました。英語は、やっておくべきです。

 卒業して、私は、高校の生物の教員になりました。今でも、私は、教員の仕事を懐かしく感じていて、機会があれば、定期的に教壇に立ってみたいと思っています。また、学校というのは、中にいると判らないでしょうが、世の中にないことが沢山あるところです。たとえば、アレキサンダー大王や鴨長明のことは、学校を離れて社会人をやっていると全く聴かなくなります。何年か前も、そば屋に韃靼そばというのがあったので、安西冬衛の「春」のことに触れたら、誰も知りませんでした。「韃靼疾風録」も知らないかもしれません。社会というのは、そういった薄っぺらさがあります。それでも、世間知らずなどと言って、社会ズレしていない人を非難します。まあ、確かに、社会ズレしていない籠もった人も困りますが、世間は知っていても、韃靼を知らなくてはだめです。かくいう私も、先日、ダイエーの和田の投げたボールをスピードガンで計測する原理を知らずに笑われました。

 高校の教員をやっていた頃、秋葉原でMacintoshを見て感動しました。それで、私は、システムエンジニアになることにして、教員を辞めました。1990年頃です。CとかC++とかいう構造化されたプログラム言語を学んだり、Macで自分の作ったアプリケーションを走らせたりしたのは楽しい思い出です。今は、ワープロとか表計算ソフトの操作や、OSの設定を変えることがコンピュータを使うことと思っている人もいるようですが、私にとって、コンピュータとはプログラミングをして使うものです。ですから、最近プログラミングをしなくなったので、コンピュータは、私にとって、洗濯機と同じになってしまいました。

 コンピュータの世界にそのまま居れば、ネットバブルに乗って大金持ちになっていたかもしれませんが、バイオの世界も懐かしくなったので、ファルマシアバイオテクという外国の会社(現在のアマシャムバイオサイエンス)に入り、システムの面倒をみたり、画像解析ソフトを売ったりしました。1993年の暮れです。会社は、多国籍企業ですが、その当時は規模が手頃だったので、社長等の経営陣から、ビジネスがどういう形をしているかを直接教わることができました。その社長は、今では東大で薬学とビジネスを架橋する講座の先生をしています。

 ビジネスに興味を持った私は、それを支えているものの一つとして法律に興味を持ちました。正直言って債権とは何かとか六法とは何かもよく知らなかったのです。そのころ、司法試験が最初の3年間は入りやすいという話を聞いたので、では一度受けてみようと勉強しました。1995年頃です。既に結婚しており子供もいたので、勉強はもっぱら電車の中とか、朝会社に行く前にマックに寄って本を読みました。聴くところによれば、今の大学では、試験前に先生から補講を受けることもあるようですが、私は、人の話を聞くのが苦手で、高校でも世界史の時間は英語の自習をし、英語の時間は世界史の自習をしていました。思弁的な問題は与えられれば解決するので(ベルグソン)、問題の生成に係わる方が高尚だと思いますが、補講だと先生が問題提起をしてしまうので、聴く側は問題の消費者にはなるけど生産者になる機会が乏しいような気がします。さて、司法試験のことです。最初受けたときはやっぱり途中で落ちてしまい、悔しかったので、もう一度受けることにして、2度目は合格したので、弁護士になりました。弁護士登録は2000年です。

 計画的に生きてこなかったので、40歳を過ぎてもまだ駆け出しです。上述のように、留学に行きたくなったので、最近も、ヘッドフォンを付けてTOEFLの試験を受けました。ちょっと、寂しかったです。同級生は、自分の研究室を持って立派になっているのに困ったものです。家内からは、よくそのことで羽交い締めにされます。でも、計画的では全然ありませんが、10年前と較べて、理系と法律の接点は増え続けています。たとえば、週に1度は経済新聞の一面に乗る特許権を中心とした知的財産権の問題は、法律と理系の知識が両方要求される分野です。知財立国等というかけ声も聴かれます。また、ネットコマースとかネット犯罪というように、知的財産だけではなく、技術と法律の問題は、日々増加しているように思います。

 弁護士の仕事は、教員と同じくらい面白い仕事です。会社の合併、特許のライセンス等のビジネスの問題や、離婚や相続などの個人の問題、多重債務者などの社会問題、そして、刑事事件という日常生活ではあまり縁のない分野も扱います。修習のときは、検察で取調べを手伝ったり、裁判所で判決書の書き方を学んだり、弁護修習で色々な相談を聴いたり、中には死体解剖の立ち合いや、刑務所の見学もありました。はじめから法律家になろうとしていた人にとっては当然のことなのかもしれませんが、40歳近くまで、そういったことに縁のなかった私にとっては、まさに未知との遭遇で、自分が判ったような顔をして生きてきたのが恥ずかしくなるような、知らない世界との出会いを体験できました。最近は、知的財産関係の訴訟に多く係わっていますが、技術を財産として権利行使できるようにするには、どのような苦労があるかをまざまざと見ており、大変貴重な体験をしていると思っています。

 現在は、研究者が、自分の発明がどのように人類に貢献するかを、単にロングタームだけではなく、ショートタームでも考えなければならない時代になっています。その為には、それを権利化するための特許法という法律や、特許庁への出願手続についても、全く無知でよいというわけにはいきません。世間には、明細書(特許出願の際の書類)を自分で書くことのできる研究者が大勢いますから、折角よい発明をしたのに、権利化に失敗して収益が全く上がらなかったということにならないためにも、事務的で面倒だと感じても、発明を法律から捉えることにアレルギーを持ってはならないのです。逆にいえば、理系の学問に係わっている人は、単に研究して発明をするだけではなく、その発明を権利にすることにむしろ重点をおいた人生設計もありうるということです(私と同じく実験が苦手な人には朗報でしょう)。私は、何の計画性もなく、たまたまこういう仕事をしていますが、これからは、最初から知的財産の分野で活躍をしようという志をもった理系の学生も沢山現れるようになると感じています。

 もちろん、どの学問分野も、マスコミで騒がれているのはおいしいところがばかりですが、実際の現場では、もっと地道な作業が繰り返されているものです。知的財産の分野でも、日常は、判例研究、法律解釈、技術情報の収集等の砂を噛むような仕事の繰り返しです。私自身、華やかな看板につられて、失敗したことがないとは言えないので、余り強いことは言えませんが、しっかりと法律の分野をやってみようと考える人がいれば、先輩(やな言葉です)として、情報提供いたしますので、ご連絡下さい。

 今までも十分オヤジ臭い内容でしたが、最後にもっとオヤジ臭いことを書きます。最近、ホームレスの人を襲撃する若い人がいて、私は、そういうニュースを聞くたびに疑問に思っていることがあります。それは、弱者に対する思いやりといった良い子ちゃん的なものとはちょっと違います。仕事に疲れて、帰宅の途中で地下鉄の長い階段をとぼとぼ上っていると、もう足を動かすのもいやになって、階段の途中でその場に座って休みたくなることがあります。そして、もしその場で休んでしまうと、改めて動くのが面倒になり、結局そこに居ついてしまって、何年も日が過ぎ、ホームレスの人のような生活をはじめる始めることになるかもしれないと感じることがあります。自分の人生を振り返っても、彼らとどこが違っていたのかよく判らなく、単に運不運とか、偶然とかが重なって、私は、階段を今日もとぼとぼ上り、彼らは、そこに止まっているだけではないのかという気がします。しかし、襲撃する人は、きっと、彼らと自分たちが全く別の世界に住んでいると感じているのではないでしょうか。そういった自信というか、決してあっちの世界には行かないという思い込みは、私には理解できません。そのような感覚が、オヤジになったから芽生えたのか、若い頃から持っていたのか、今ではよく判らなくなっています。ただ、結局タンパク質とかDNAとかの集合体でしかないという点で、人間に何ら変わりがないことは、いかに不真面目な学生であった私でも、大学から教えてもらったことであり、そういった生物の勉強は、単に科学的な知識に止まらず、大仰に言えば、人権とかヒューマニズムといった思想が歴史的に生じる為の一つの支えにもなっているような気がします。この点でも、人権の擁護と社会正義の実現を本分とする弁護士稼業と生物学は通底しているのかもしれません。

 以上、私の経歴はでたらめで、なかなかしっかりしてきませんが、それでも何とかなるし自己満足も得られます。だから、皆さんも安心して、好きなことをやって下さい(配偶者から羽交い締めにされることは覚悟してください)。また、現代においていかに輝かしい経歴をもって持っていても、所詮、我々はアレキサンダー大王にはかなわないのですし。

Contributed by Toru Nakamichi, Received Nobember 7, 2003.

©2003 筑波大学生物学類