つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3, XX   (C)2004 筑波大学生物学類

カイコガ嗅覚系一次中枢における匂い情報の空間コーディングに関する神経生理学的研究

並木 重宏 (筑波大学 生物学類 4年)  指導教官: 神崎 亮平 (筑波大学 生物科学系)



導入:
 脳において情報処理が行われ,生物の合目的的な行動を解発する司令情報が出力されるためには,異なるモダリティをもつ外界の感覚情報が演算可能な程度に類似の形式にコーディング(符号化)されなければならない。嗅覚系におけるコーディングは,感覚器官から高次中枢の間に一層の神経集団を介して行われる。他の感覚系に対する情報処理の相対的な単純さ,種間の広い普遍性をもって嗅覚系は脳研究におけるモデルシステムとして注目されている。哺乳類における感覚野では感覚情報の特徴量を表現する領域が空間的に連続して配置されている。嗅覚系においては情報の特徴量が明確でないが、嗅覚系における情報コーディングの空間的な表現を調べることによって、嗅覚情報の特徴量を知ることができると考えられる。今回、電気生理学の古典的な手法である微小電極による細胞内記録および染色法を用いて,雄カイコガの嗅覚系一次中枢である触角葉において,システムの要素である個々の単一神経細胞の応答特性とその構造を調べ、入力領域の同定を行い、触角葉における機能地図の作成をめざした。触角葉における情報の空間的な表現については詳細を知るに至らなかったが、単一神経細胞の性質から、匂い情報のコーディングのダイナミクスについていくつかの示唆を得た。

材料と方法:
 カイコガ(Bombyx mori)の雄をプラスチック製の台に固定し,解剖し,脳を露出させた。蛍光色素Lucifer Yellowを充填したガラス微小電極を,マイクロマニピュレータを操作することにより脳に刺入していき,神経細胞に刺さったところで匂い刺激を行った。匂い物質としてCis-3-Hexen-1-ol,Trans-2-Hexenal,Linalool,Citral,Bombykolを用いた。生理応答は前置増幅器,内蔵アンプによって電気的に増幅し,オシロスコープによって観察し,DATレコーダに記録した。応答を記録した後,陰極性電流を印加し,Lucifer Yellowを細胞内に電気泳動的に注入することにより,神経を蛍光標識した。その後固定、脱水、透徹を行い、共焦点レーザ走査型顕微鏡によって三次元構造を観察した。出力神経についてはtetramethylrhodamineを用いて直接組織染色を行い,分枝する糸球体の同定を行った。

結果と考察:
 今回触角葉内に分枝をもつ3種の神経群のうち、1例の嗅受容神経、9例の局所介在神経、26例の出力神経について染色像が得られた(図1)。触角葉内における出力神経の分枝パタンは単一糸球体、主として一つの糸球体と付加的に他の糸球体、複数の糸球体に分枝するものの3種類が観察された。単一糸球体内における出力神経の分枝パタンは全域に分枝するタイプ、局所的に分枝するタイプの2種類が観察された。これは糸球体の内部においてより小規模の機能的領域が存在することを示唆する。同一糸球体に分枝をもつ出力神経間で異なる情報を高次中枢に伝達する可能性がある。
 染色像が得られた神経のうち、1例の嗅受容神経、2例の局所介在神経、7例の出力神経において生理応答の計測に成功した。嗅受容神経は3種の匂い物質に対して比較的長い興奮性の応答を示した。局所介在神経はほとんどの匂いに対して興奮性あるいは抑制性の応答を示した(図2)。出力神経は4例について匂い特異的な興奮性あるいは抑制性の応答を示し、3例については応答を示さなかった。先行研究で報告されているように、嗅受容神経の匂い物質への応答スペクトラは比較的幅広く、局所介在神経の修飾作用によって出力神経の応答スペクトラはチューニングされている可能性がある。応答が観察されなかった神経についても今回使用しなかった匂い物質に対して特異的に応答するものと思われる。またいくつかの例において、匂い物質によって応答が起こるタイミングが異なっていたり、抑制-興奮-抑制の時間パタンをもつ応答が観察された。これは神経間の相互作用の様式が複数種存在することを示唆する。また今回、1例においてLinalool特異的にバースト発火を起こす出力神経の分枝する糸球体について同定を行い、触角葉における匂いの機能地図作成のための基礎的な手法を提示することができた。

展望:
 より安定した電気生理学的計測法を確立し、今回目標とした匂い情報の空間的なコーディング、さらに時間的なコーディング、履歴依存的なコーディング様式の変化に関する研究を行う。イメージング法を用いて神経集団全体としてのダイナミクスを計測し、電気生理学的手法による要素レベルの知見と合わせ、生物の神経回路網一般に適用可能な新しい概念を探す。