つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200501200100730

ヒト統合失調症遺伝子によるショウジョウバエ学習行動の阻害

安藤 徹也(筑波大学 生物学類 4年)  指導教員: 古久保ー徳永 克男(筑波大学 生物科学系)

<背景・目的>
統合失調症は妄想や幻覚などの症状を示す精神疾患で、発症率は世界総人口の約1%と頻度の高い病気である。 統合失調症の研究から、全体的にみられる認知障害の中でも特に記憶障害が特徴的であることが示された。 統合失調症は、脳の機能の障害が原因で起こる多遺伝子性の病気でドーパミン伝達の異常が関与していると考えられている。 発症には遺伝要因と環境要因の両方が関与しているとされているが詳しい原因は未だ不明である。
統合失調症の原因遺伝子の候補として見つかった遺伝子としてDISC1Disrupted In Schizophrenia 1)がある。 DISC1は統合失調症が多く発症するスコットランドの大家系の研究で見つかった遺伝子である。 この家系では、統合失調症の発症に1番染色体と11番染色体間での転座が関与していると考えられており、 転座によりDISC1遺伝子のC末端の257個のアミノ酸を欠いた短い遺伝子産物ができる。 DISC1遺伝子産物の正常な機能と短く切断されたDISC1変異型の作用の仕方については現在研究が行われており、 培養系では、DISC1遺伝子産物が神経突起伸長や神経細胞の遊走に必要であること等が報告されているが、 生体内での作用機序は全くわかっていない。
本研究ではDISC1遺伝子を導入したショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の幼虫を用い、 DISC1が嗅覚学習記憶に与える影響について解析した。 ショウジョウバエは遺伝学的知見や技術が蓄積されており、生活周期が10日間と短く、単純な構造の神経系を持つという利点をもつ。 また、アルツハイマー病などのヒト精神疾患の原因遺伝子解析のモデル動物としても用いられている。 さらに、ショウジョウバエの幼虫の脳は、成虫の脳よりも細胞数が少なく構造が単純なため解析が容易である。 また、ショウジョウバエでは、嗅覚学習記憶について脳の中のキノコ体という神経構造が関与しており、 生化学的にはcAMP経路が働いていることがこれまでの研究で明らかにされてきた。
本研究ではDISC1遺伝子をショウジョウバエ脳のキノコ体で発現させて、 正常なDISC1遺伝子とDISC1変異型遺伝子が幼虫の学習記憶にどのような役割を果たすか、 嗅覚学習行動実験系を用いて解析した。

<材料・方法>
・GAL4-UASシステム
GAL4-UASシステムは、酵母の転写因子GAL4とその標的配列であるUASを使った転写調節機構で、 導入遺伝子を特定の部位で発現させることができる。
本研究では、脳のキノコ体で発現する201Y-GAL4エンハンサートラップ系統を用いて、 野生型DISC1(DISC1 full)及び変異型DISC1(DISC1 truncate)を脳のキノコ体で発現させたハエを使った。 嗅覚学習行動実験に用いたのは以下の系統と野生型(Canton-S)の3齢幼虫である。 
UAS-DISC1 truncate /201Y-GAL4、UAS-DISC1 full /201Y-GAL4、
UAS-DISC1 truncate、UAS-DISC1 full、201Y- GAL4

・嗅覚学習行動実験
古典的条件付けによる連合学習実験系として条件刺激(CS)に匂い物質(リナノール)、 非条件刺激(US)に1Mスクロース溶液を用い、匂い物質に対する幼虫の走化性の変化を測定した。 条件付けでは、まず2.5%アガープレート上に1Mスクロース溶液もしくはDW(コントロール)を1ml滴下し、隅まで行き渡らせた。 200から500匹程度の幼虫をゲル上に移してすぐ、プレートの蓋の裏側に貼り付けたろ紙に匂い物質(リナロール)を10μl滴下し 蓋を閉めて30分静置し、条件付けを行った。
テストでは、まず条件付けした50−100匹の幼虫を内径8.5cm、2.5%アガープレートの中心に置き、 プレートの両端に置いたろ紙片の片方に2.5μlリナロールを滴下した後プレートの蓋を閉めて幼虫を自由に行動させた。 そして3分後にそれぞれのろ紙から半径3cmの円弧内に移動した幼虫の個体数を数えた。
匂い物質に対する走化性の反応を示す指標としてResponse Index(RI)を用いた。 RIは匂い物質を滴下した側の円弧内に移動した個体数をNs、コントロールのろ紙側の円弧内に移動した個体数をNcとした時、
RI=(Ns-Nc)/(Ns+Nc)
として計算される。 全ての個体が匂い物質側円弧に移動した時に1、全ての個体がコントロール側円弧内に移動した時−1となる。 匂い物質に対するRIが正の場合は正の走化性、負の場合は負の走化性があると考えられる。

<結果・考察>
野生型(Canton-S)を用いた実験では、測定したRIについてスクロースとコントロールとで有意差が見られた。
このことから、幼虫を用いた嗅覚学習行動の再現性を確認した。
一方、UAS-DISC1 truncate /201Y-GAL4を用いた実験では、測定したRIについてスクロースによる条件付けとコントロールとで 有意差が見られず、学習が成立しなかった。
このことから、変異型DISC1の遺伝子産物がキノコ体での学習記憶に働く経路に作用して、学習行動を阻害したのではないかと考えられる。


©2005 筑波大学生物学類