つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200501200100750

雄カイコガの配偶行動における行動スイッチングの神経行動学的研究

吉川 美都子(筑波大学 生物学類 4年)  指導教員: 山岸 宏(筑波大学 生命環境科学研究科) 神崎 亮平(東京大学大学院情報理工学系研究科)

<目的>
 一般に生物の配偶行動は複数の順序だった行動パターンから構成される。この行動は、ある行動パターンを発現しているときに受けた鍵刺激によって次の行動パターンに切り替わる(スイッチング)ことが連鎖的に起こることにより進行することが知られている。 カイコガは、配偶行動の他はほとんど行動を示さない。雄は、雌の尾部のフェロモン腺から放出される性フェロモンによって雌に定位する配偶行動を発現する。この配偶行動は、中枢神経系にプログラム化された行動であり、その行動発現の神経機構は所属研究室のこれまでの研究によって詳しく調べられている。一方、交尾中の雄カイコガは、フェロモン刺激を与えても配偶行動を発現しないことが行動学的に報告されている。雄カイコガは雌に定位すると、腹部を曲げて雌の交尾器を探りあて、交尾に至る。しかし、交尾状態にある雄は、交尾前と同様のフェロモン存在下におかれても配偶行動を示さないのである(小原、1982,山崎 寿、1954)。この配偶行動の抑制は明瞭で、行動スイッチングのよいモデルと考えられる。しかし、配偶行動の神経基盤は明らかにされているものの、このような行動のスイッチングに関する知見は少なく、行動学的な観察にとどまっている。そこで本研究では、カイコガの交尾による配偶行動抑制の神経機構を行動学的、神経生理学的に明らかにするために、その基礎として、行動実験により交尾による配偶行動抑制の特徴と行動抑制の引き金となる鍵刺激を調べ、その情報の伝達経路について考察した。

<材料と方法>
 実験昆虫には、カイコガ成虫(Bombyx mori)を用いた。カイコガは、明・暗サイクル16・8時間、温度約25度のインキュベータ内で、人工飼料により飼育した。実験に用いた雄と雌は、それぞれ羽化2〜4日後、羽化1〜3日後のものを用いた。実験の開始の約1時間前に、雄をインキュベータから取り出しておき、静止状態になることを確認したのち、実験に使用した。行動実験は、黒画用紙を底面に敷き、蓋を開いたアクリルケース(29.5×22×5cm)内で行った。不要なフェロモンを排出するため、アクリルケースは、ドラフト内に設置した。ドラフト内の照度は592lxであった。行動は、すべてデジタルビデオカメラ(30フレーム/秒)で撮影し、後に分析した。
実験1:配偶行動の抑制効果と鍵刺激の特定
 ケース内に雌を置き、その後雄を入れて交尾させた。雄と雌の尾部が結合し、静止状態になってから30分、および60分後に、雄の前方1cmに性フェロモンを放出している別の雌を置き、雄のフェロモンに対する行動発現の有無を観察した。実験前に、雄はその雌のフェロモンに対して配偶行動を示すことを確認した。次に、尾部の結合を手で引き離した後、雄のフェロモンに対する行動発現の有無と、行動開始(羽ばたき開始)までの時間をビデオ撮影から計測した。また、コントロールとして、交尾していない雄を、フェロモンを放出している雌の後方に置いて反応を観察した。
実験2:行動抑制情報の伝達経路
 デンタルワックスで作ったチャンバー上に交尾開始後30分以上経過した雄と雌を、結合したまま雌と共に腹側を上にしてインセクトピンで固定して、雄の腹部を解剖し、腹髄神経索を露出させた。腹部末端神経節と第三腹部神経節間で腹髄神経索を眼科用バサミで注意深く切断したあと、チャンバーから外して、フェロモン放出中の雌を雄の前方に置き、配偶行動発現の有無を観察した。

<結果と考察>
実験1 交尾中の雄は、フェロモンを放出している雌を前方に置いても、配偶行動の特徴である翅の羽ばたき・歩行を示さないことを確認した。交尾後30分経過してから、交尾を中断させると、フェロモン刺激後、3.36±0.62(平均±SD、n=3)秒後に羽ばたき始め、すべての雄が配偶行動を示した。また、60分経過した雄では、6.96±2.88秒 (n=3)で羽ばたき始め、すべての雄が配偶行動を示した。コントロールでは、雄は雌の後方に置いた直後から0.38±0.14(n=10)で羽ばたき始め、すべての雄が雌探索行動を示した。
 尾部結合を離すと行動の抑制が解除され、行動を発現したことから、交尾による尾部結合が行動抑制の鍵刺激となることが考えられる。さらに、交尾の持続時間にかかわらず、すべての雄が尾部結合解除後に配偶行動を発現したことから、行動が抑制されるには、常に尾部結合による刺激の入力が必要であると考えられる。一方、交尾時間によって尾部結合解除から行動開始までの時間は、有意差はみられなかったが遅延する傾向が観察された。これについては,さらに多くの個体数を用いて検証し、神経による情報伝達のほかにホルモンのような液性による持続的な行動抑制の可能性についても検討する必要がある。
実験2 雄カイコガの腹部末端神経節と第三腹部神経節間で腹髄神経索を切断すると、雌と結合したまま羽ばたき、配偶行動を示した(N=3)。このことから、交尾による尾部結合の刺激(例えば機械感覚)が、腹髄神経索を介して上位中枢(脳または胸部神経節)へ伝達されて、配偶行動の抑制が起こることが示唆された。

<展望>
 本研究では行動学的手法と解剖学的手法を用いて、配偶行動の抑制にかかわる感覚情報と、その伝達経路を推定した。今後は神経生理学的手法を用いて、この抑制機構を神経レベルで明らかにする予定である。そのために、まず、この配偶行動の抑制が、胸部神経節もしくは脳のどちらで行われているのかを知る必要がある。そこで、脳からの配偶行動指令情報を反映する頸運動神経からの細胞外記録を行い、交尾による尾部結合がこの行動指令情報を変化させるか調べる予定である。


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