つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200505NT1.

科学ジャーナリズム講座T

サイエンスコミュニケーターという職業

武原信正(日本メディカルライター協会評議員/JPOP 実行委員長/ライフサイエンス出版取締役編集長)

 皆さんは,落語の三題噺と言うのを,実際に聞かれたことがあるだろうか。まだラジオが娯楽の中心だった昭和30年頃,これが時々流れて来ては,われわれを楽しませてくれた。噺家が客から3つの題をもらい,それを織り込みながら即興話にまとめるのだが,最後にどんな落ちが付くか,けっこう真剣に聞き入ったものである。

 話は今年の正月に飛ぶ。この2月に急逝した友人(高城忠東京学芸大学教授)を介し,つくば生物ジャーナル(TJB)から投稿の依頼を受けた。「サイエンスライターと言う題で,文章をまとめてほしい。その際,予め2,3本の論文に目を通し,その内容を踏まえた上で物を言ってもらいたい」という条件まで付いた。思いがけぬ場所で,三題噺を振られたのである。

 1つ目の論文というのは,TJB創刊号に載った林純一氏(第二学群長・前TJB編集委員長)の「オンラインジャーナル創刊の経緯」である。この中で林氏は,「21世紀は生物学ビッグバンの時代と言われ,様々な社会問題の中核に生物学がある」ことを念頭におき,「大学の活動をいかに社会に還元すべきかを考え,産業構造が大きく変化する中で,時代の要請を先取りし,的確に対応出来る教育体制への変革を行なうべきである」と主張している。まったくもって同感である。

 2つ目は,2004年12月号にストーン睦美氏(科学ジャーナリスト・カザフスタン在住)が書いた「筑波で科学ジャーナリストの培養を」と言う提言だった。生命現象の伝道者として編集者の道を選んだストーン氏の話は,「日本には科学ジャーナリストを育成する機関がどこにもない。これでも科学先進国と言えるのか。子どもたちの科学離れを嘆く前に,多様な科学メディエーターを育ててほしい。筑波大学に,日本初の科学ジャーナリズム講座を設置してほしい!」という熱いアジテーションであった。おっしゃるとおりだ。アカデミズムへの道などは,大学入学早々にギブアップし,40年間編集者稼業に明け暮れてきた自分としては,思わず膝を叩きたくなるようなコメントである。彼女のこの主張こそ,私たちの団体が4年前,“日本メディカルライター協会”という,医学・科学のコミュニケーター支援を目的に産学協同機構を立上げた理由であり,更に昨年,市民に向けて正しい(科学的根拠に基づいた)医療情報を発信する,専門家とメディアによる集団Japan Public Outreach Program(JPOP) をスタートさせた動機だったのである。

■サイエンスコミュニケーターとは何か

 最初に言葉の問題をはっきりさせておきたい。科学ジャーナリズムの世界には,情報伝達に関する似通った言葉がたくさん登場する。サイエンスライター,メディカルライター,サイエンスジャーナリスト,サイエンスコミュニケーター,ヘルスコミュニケーター,メディカルトランスレーター等々,ある程度用語上の約束を交わしておかないと,議論がすれ違ってしまう。ストーン氏の話の中には“サイエンスメディエーター”という言葉が出て来る。この呼称には科学情報の媒介者としての多種類の職種が含まれ,よく使われる“サイエンスライター”よりもずっと広範な概念である。しかし最近の欧米でのやりとりや教科書などを見ると,同じ広範な概念を表す言葉としては,むしろ“サイエンスコミュニケーター”の方が多く使われているような気がする。サイエンスコミュニケーションの1分野である,ヘルスコミュニケーションの場合で見てみよう。

 ヘルスコミュニケーターと呼ばれる人の主な仕事は,出版物,インターネット,テレビ・新聞などのマスメディア,医療機関や企業の広報,医療現場用の説明資料などの制作を通じ,市民に医療情報を提供することだが,時には医療面接を行なう医療スタッフなどが含まれることもある。

 彼らの仕事を情報の種類別に見ると,市民向けの啓発情報,書籍や雑誌記事,映像や音声情報,医療機関や学会の広報,患者教育,患者の意思決定支援,臨床試験への市民参加支援,医療者間の専門情報などがあり,コミュニケーターの守備範囲が単なるライターのそれを超えた,幅広いものであることがお分かりいただけるだろう。

 そんな訳で今回は,この“サイエンスコミュニケーション/コミュニケーター”という言葉をベースに話を進めたいのだが,取り上げる事例は,自分にとって比較的馴染みのあるヘルスコミュニケーション領域から主に引用させていただこうと思う。サイエンスコミュニケーションではあまりに対象が広く,知識や経験が遠く及ばないからである。

■サイエンスコミュニケーションは,なぜ必要か?

 この問いに対して納得のいく答えを出すには,多少の議論を要するが,“サイエンスコミュニケーションが必要である”こと自体に異を唱える人は,あまりいないだろう。

 2003年に文科省が公表した“科学知識に関する国民の意識調査”は,「日本人の科学技術に関する理解度は,欧米先進国に比べてかなり低い。国民は信頼性の高い医療情報を求めているのに,的確な情報は数少ない」とした上で,「日本が今後とも科学技術の向上を目指し,国民が豊かな生活を享受するためには,社会レベルにおいても個人レベルにおいても,科学コミュニケーションの活性化をはかることが不可欠である」と結んでいる。

 話は変わるが,“ノースカレリア計画”と言うのを耳にされたことがあるだろうか。ミステリー小説の題名ではない。北欧の国フィンランドは,美しい自然とは裏腹に,虚血性心疾患による死亡者が多いことでも知られていた。国際的な共同研究の結果,多くの国民が喫煙や食生活に由来するリスクファクターを抱え,高血圧や高脂血症などの発症率が高いことが分かると,人々は問題の解決を強く国に要請した。そして1972年,フィンランド政府は,血管病変による死亡者を減らすための国家戦略として,ノースカレリア地方の住民の生活環境に介入する5ヵ年計画を始めた。これがノースカレリア計画である。計画の実施方法は徹底していた。行政機関の関係者,大学関係者,地域の医師や保健師,地元住民,主婦の団体などが総動員されたほか,メディアや食品業界も全面的に計画に参加し,盛んなキャンペーンを繰り広げた。地域住民の意識たるや,半端ではなかった。例えば食料品店でバターを購入しようとした主婦が,レジの人から健康のためにはマーガリンに代えるべきだと勧告され,素直にこれに従う様子など,ごく日常的に見られたそうである。プロジェクトはいまも続いている。

 国民が一丸となって努力した結果,食生活は驚くほど変化し,介入の成果は目覚しいものとなって現れた。リスクファクターは減少し,1990年の虚血性心疾患による死亡率は,計画開始前に比べ男性で53%,女性で60%減少したのである。この国家プロジェクトが,何故これほどの成果をあげたかについて語る際,忘れてならないことがある。メディアと,それを支えた優秀なヘルスコミュニケーターの存在である。彼らの精力的な活動が無ければ,プロジェクトの結末は随分と違ったものになっていただろうとさえ言われている。

 ノースカレリア計画は,われわれにも多くの教訓を残してくれた。日本には今後進めなければならない国民参加型の研究が数多くあるが,それを始める前に,まず一般市民の理解増進をはからなくてはならないこと。更にその前提として,社会全体のサイエンスコミュニケーション能力を向上させなければならないことなど,数え上げればきりが無い。

 厚生省が国の医療費総額を圧縮するために,これまでの成人病を生活習慣病と言い換え,大々的な啓発活動を開始したのは,1996年のことだった。「あなた方の生活習慣の悪さから起こるような病気の治療費まで,国は面倒を見ないからね」とばかり呼び名を変え,高額支出を伴う治療から,費用対効果の良い予防へと戦略をシフトしたものの,医療費の上昇は一向に止む気配が無い。こうした医療費削減や疾患の予防目的とも絡んで,近年evidence-based medicine (EBM) と言う言葉が盛んに使われているのはご承知のとおりである。しかし,EBMの考え方に沿って,個々人に合った合理的な治療や疾患予防が行なえるようになるには,その前提として,日本人の疫学面でのエビデンスが明らかにされなくてはならない。そしてそのためには,国民ひとりひとりが事の大切さを理解し,子孫のために,疫学研究や臨床試験に積極参加すべきなのだが,これが思うように進まない。なぜか。ノースカレリアのケースと比べてみると,その背景の違いが浮かび上がってくる。日本社会におけるヘルスコミュニケーション能力の脆弱さは,この際無視できない要因であろう。行政機関,教育者,研究者はもとより,ヘルスコミュニケーターとメディアが一体となって,“利他的行動”の必要性を事あるごとに発信し,国民の理解増進をはかることが必要なのである。

 もうひとつ,一見華やかに見える先端医療の世界を覗いてみよう。大学やバイオベンチャー企業が,長年かかって臨床応用にまでこぎ付けた技術的成果も,“遺伝子治療”と言う説明がなされただけで社会的な拒絶に会い,それ以上の研究が頓挫してしまうことがある。大いなる損失と言うべきであろう。遺伝子とか原子力といった言葉に過剰反応する社会に向かって,時には教育的スタンスで,時には市民自らが意思決定をはかれるように,信頼性の高い情報を送り続けることが求められている。この活動こそサイエンスコミュニケーターの仕事であり,科学技術立国を目指す日本が必要とする,社会的コンセンサス作りの基本と考えるがいかがであろうか。

■サイエンスコミュニケーターに求められるもの

 世界保健機関 (WHO) は,公衆衛生の専門家向けに,長文からなるヘルスコミュニケーションの定義を定めている。その詳細は別の機会にゆずり,ここでは健康情報学が専門の京都大学中山健夫氏に,ポイントと思われる部分をまとめてもらう。それによると,ヘルスコミュニケーターとは“医療情報を作る専門家と情報を使う市民の間に立って,双方向的に情報を伝える専門職”と言うことになる。“医療”を“科学技術”に置き換えれば,この定義は,サイエンスコミュニケーターにも敷衍することが出来よう。

 拙文を読んでくださっている諸兄の中には,市民向けの啓発文章など朝飯前でこなせるだけの文才に恵まれた方も少なくないだろう。しかしコミュニケーターに求められる資質が,単なる文章センスの問題で無いことは言うまでもない。

 ゴールデンウィーク初日にあたる今年の4月29日,毎日新聞朝刊の社会面に,センセーショナルな見出しと共に次のような記事が載った。「イレッサ副作用 死者607人に! 肺がん治療薬“ゲフィニチブ(商品名イレッサ)” について,間質性肺炎や急性肺障害の副作用があったとして国に報告された患者数は1555人,うち死者数は607人に上っていることが明らかになった。副作用報告数が公表されたのは,1月に開いた検討会以来で,死者数は19人増えた」

 「厚労省は,なぜこれほど危険な薬を放置しているのか」この記事を読んだ多くの読者は,そう感じたに違いない。しかしこの記事を「どこかおかしい!」と感じた人は,コミュニケーターとしての基本センスを備えた方だ。この記事はどこを探しても死亡者数だけで,治療を受けた患者総数への言及が無い。2000人に投与された結果なのか,2万人に投与された結果なのか。また投与された患者のうち,有効な治療成績を示した人はどれぐらいいたのか。自然科学を学ぶものにとってはごく当たり前の統計学的な見方が,どこにも示されてないのだ。こうした基本情報を示さずに,有害事象の数だけを強調するのでは,扇動を目的とした低次元の記事と言われても仕方が無い。薬が諸刃の剣であることは誰でも知っている。イレッサの使用をめぐっては,専門家の間でも侃侃諤諤の議論が続いている。しかし肺がんの予後を,限られた治療オプションの可能性に賭ける患者や医師にとって,この薬は時として選択の余地がない命綱にもなるのである。科学的な妥当性を欠くメディア情報によって世論が高まり,行政が恣意的とも思える製造承認の取り消しに動いた結果,惜しまれながら臨床の場から消えていった薬は,過去にいくつもある。ヘルスコミュニケーター不足の社会が招く,不幸な出来事と言わねばならない。

 では,ヘルスコミュニケーターには何が求められているのか。米国南カリフォルニア大学医学部で,マスメディアとヘルスコミュニケーションの関係を研究する別府文隆氏は,これまで一貫して,市民向け医療情報のあり方を模索し,同時にメディアの制作現場にも参加して来た数少ない行動派研究者である。別府氏は,自らをコミュニケーションの世界に駆り立てる動機について,こう語る。

 「医療者側が抱える膨大な情報と,一般市民・患者が入手出来る,限られた情報との間には,質・量の両面において,大きなギャップがある。日本が今後,患者中心の医療を推し進めるためには,誰かがこのギャップを埋める努力をしなくてはならない。医療の世界で,ヘルスコミュニケーターを中心とする開かれた情報インフラが稼動するよう,研究者として出来る限り力を尽くしたい。」

 いま日本の社会が必要とする物のひとつに,信頼性の高い科学技術情報があげられる。高度な社会水準を自認する日本で,なぜこれに応える仕組みがないのか。次章では,この点について考えてみたい。

Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received May 8, 2005. Revised version received May 25, 2005.

©2005 筑波大学生物学類