つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200601200200725

雄カイコガフェロモン源探索行動における匂い環境依存的閾値調節に関する行動学的研究

岩渕 智(筑波大学 生物学類 4年)  指導教員:山岸 宏 (筑波大学 生命環境科学研究科)

<背景と目的>
 匂いは自然界において生物が生き残るうえで非常に重要な情報であり、えさや天敵の存在を感知するためだけでなく、アリの警報フェロモンやガの性フェロモンなど個体間コミュニケーションなどにも利用されている。雄カイコガはフェロモンを触角で受容すると、羽ばたきを伴った、直進歩行、ジグザグターン、回転からなるフェロモン源探索行動を行い雌(フェロモン源)に定位する。この行動発現に関する脳の嗅覚系神経回路については、神崎らによって、神経行動学的な解析が詳細に進められてきた(Kanzaki, 1998;Wada and Kanzaki, 2005)。近年、この定型行動の発現の閾値が、サーカディアンリズムや神経伝達・修飾物質であるセロトニン、一酸化窒素(NO)などの脳への投与などにより変化することが明らかにされてきた(Gatellier et al.,2004)。また、フェロモンの繰り返し刺激により、行動発現の閾値が上昇し、慣れを起こすことも明らかになった。しかし、より高次の機能である記憶や連合学習の存在については全く知られていない。これは、雄カイコガがフェロモン以外の感覚情報に対して明確な行動を示さず、記憶や連合学習に関する行動実験が困難であったためである。
 一方、他種のガではフェロモンに宿主植物の匂いを混ぜると探索行動が増強されることが行動学的に示されている(Yang et al.,2004)。カイコガでは、このような行動学的知見はないが、カイコガ脳の嗅覚系神経には、フェロモン以外の匂い(一般臭)に対して応答する神経が多数観察されており、一般臭の受容と識別は行われていると考えられる。このような知見に基づき、定型行動を引き起こすフェロモンに一般臭を混合することで定型行動の変化を示すことができれば、これら一般臭を条件刺激として連合学習系を確立することが可能となると考えられる。
 そこで本研究では、カイコガで連合学習系を確立するための第一段階として、一般臭がフェロモン源探索行動にどのような影響を及ぼすかを行動学的に明らかにすることを目的とした。
<材料と方法>
 材料には成虫の雄カイコガ(Bombyx mori )を用いた。カイコガは、明・暗サイクル16・8時間、温度約26 ℃のインキュベータ内で、人工飼料により飼育した。実験には羽化2〜7日後のものを用いた。
 行動実験はアクリル製の風洞(20×9×5 cm)を、中央で縦に長さ8 cmアクリル板で仕切ったもので行った。フェロモン刺激はフェロモンの主成分であるボンビコールを用い、濃度は100 ngとした。一般臭は桑の葉に含まれるシトラールとヘキセノール(Cis-3-Hexen-1-ol)を用い、量は100 nlとした。これらの匂い物質はろ紙(1×2 cm)に滴下し、これをガラス管に装てんしたカートリッジを作成し使用した。匂いはフェロモンのみ(P)、フェロモン+シトラール(P+C)、フェロモン+ヘキセノール(P+H)の3種類を用意した。用意した匂いのうち2種類を仕切りの左右からそれぞれを同時に流し、カイコガを仕切り板の延長線上に置き,左右のどちらに定位するかを観察した。実験は3通り(P:P+C (N = 29)、P:P+H (N = 35)、P+C:P+H (N = 27))行った。どちらの匂いにも同じ確率で定位するという帰無仮説のもとで、二項検定法を行った。有意水準は5 %とした。
<結果と考察>
1)装置の妥当性を示すためにコントロールとして、P:Pをおこなったが左右のそれぞれに定位した個体数(左N=9:右N=7)に有意差はみられなかった。
2)P:P+Cにおいて、それぞれに定位した個体数(P ,N=15:P+C ,N=14)に有意差はみられなかった。
3)P:P+Hにおいて、P+Hに定位した個体数(N=23)はPに定位した個体数(N=12)に比べて有意に多かった(p < 0.05)。
4)P+C:P+Hにおいて、P+Hに定位した個体数(N=19)はP+Cに定位した個体数(N=8)に比べて有意に多かった(p < 0.05)。
 1)、2)、3)の結果から、一般臭であるヘキセノールもカイコガによって感知され、フェロモン源探索行動に影響を与えることが示された。さらに、4)の結果から、このフェロモン源探索行動に対する影響は匂いの種類に依存していること、つまり背景の匂い環境によって影響を受けることが示された。
 カイコガではフェロモン源探索行動は放出されるフェロモン濃度が高いほど増強され、定位の成功率は増加する。したがって、3)において定位した個体数に有意な差が観察されたことは、ヘキセノールがフェロモンの濃度を上げるのと同等の効果を持つことによると考えられる。
 これまでカイコガではフェロモン以外の一般臭は感知されず、行動への影響はないといわれてきたが、本研究により、一般臭も感知され、カイコガの行動に明瞭な影響を与えることを初めて示した。これはフェロモンにより起こる定型的行動であっても、背景の匂い環境により行動が修飾されること、さらにその修飾は匂いの種類により異なる可能性を示すものである。
<展望>
 今後は、まず混合する一般臭の種類によるフェロモン源探索行動の閾値や強度に対する影響の違いを調べ、一般臭の種類による嗜好性の違いを明らかにする。また、このような一般臭による効果がフェロモン受容体レベルで起こっていないことも確認する必要がある。
 これらの実験結果を受けて、一般臭を条件刺激、罰(電気刺激)を無条件刺激として条件付けをすることにより、混合する一般臭の種類に対する嗜好性を逆転させるというような連合学習系を確立していく。


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