つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200601200200736

心理心因疾患としての顎関節症のバイオマーカー検索
−血中セロトニン、神経ペプチド、神経栄養因子の定量−

金丸 千沙子 (筑波大学 生物学類 4年)  指導教員:成田 正明 (筑波大学 人間総合科学研究科)

<導入と目的>
 顎関節症(Temporomandibular disorders:TMD)は、顎関節や咀嚼筋部の疼痛、開口障害、関節雑音を主症状とする慢性疾患で、多くは疼痛を主訴に来院し、TMD患者の中でも10%の人は深刻な筋疼痛症状を呈する(muscular type TMDと呼ばれる)。顎関節症はまた、ストレスの多い環境では増悪すること、患者に神経質な人や緊張しやすい人が多いことなどから、その発症に心理的要因が関与することが多く、またそのためうつ病や不安障害との合併も多いことが知られている。
 近年Functional Somatic Syndromes(FSS)と称される概念が提唱されてきた(Sharpe M et al, Treatment of functional somatic symptoms. Oxford: Oxford University Press, 1995)。これは、これまで独立した疾患であると考えられてきた、慢性疲労症候群(Chronic Fatigue Syndrome:CFS)、線維性筋痛症 (fibromyalgia, FM)、過敏性腸炎、そしてmuscular type TMDなど心因が大きく関わる身体性の慢性疾患のグループの間にその症状の移行や重複が多く見られることから、これらを症候群としてその病態を捉えようとするものである。FSSの病態に深く関わる因子としては、脳内の神経伝達物質であり、不安や疼痛、睡眠、食欲や呼吸などさまざまな身体機能を司るセロトニンとの関与が示唆されている。セロトニントランスポーター遺伝子の転写活性調節領域であるプロモーター領域(5HTTLPR遺伝子)には繰り返し配列の数により、短いS、長いL、そして稀ではあるがより長いXLの三つの多型が存在し、本研究室でも以前5HTTLPR遺伝子多型解析が行われ、顎関節症患者や慢性疲労症候群患者において正常コントロール群と比較してLアリルが多いという有意な差がみとめられている。しかしながら、顎関節症をはじめとするFSSの診断基準は未だ曖昧で、症状から消去法で病名を決めることも珍しくないといわれている。
 以上の背景を踏まえ本研究では、セロトニンと顎関節症との関連を明らかにするとともに、顎関節症をはじめとするFSSのバイオマーカーを検索するため、血中セロトニン濃度の測定を行い、さらにBDNF、NT-4、そしてストレス関連ペプチドと考えられる新規神経ペプチド(マンセリン)の血中濃度の測定を行って病状ごとの比較を行うことを目的とした。

<方法>
 muscular type TMD患者53人(平均年齢 45.7+/-33.5才、男6人女47人)に書面によるインフォームドコンセントを得た上で静脈血を採取し遠心分離した血清を検体として用いた。血清セロトニン濃度はHPLC法にて測定し、マンセリンは特異抗体を用いた競合ELISA法により、NT-4、BDNFについては市販測定キット(ELISA法)により測定した。実験の安定性を保つため、何回かに分けて測定する場合は、毎回同一の濃度既知の検体も測定し、日によって値にばらつきがないことを確認した。
 また正常コントロールとして健康人検体も測定した。得られたデータはカイ二乗検定を用いて統計学的処理を行った。 本研究は筑波大学医の倫理特別委員会の承認のもとに行った。

<結果>
 血清セロトニン値は正常コントロール群で105.8 +/- 56.2 ng/ml (mean +/- SD, n=26) であったのに対しTMD患者群では52.9 +/- 41.1 ng/ml(mean +/- SD, n=53)と有意に低下していた(p=0.00012)。
 一方、血清マンセリン値、BDNF値、NT-4値は、TMD患者群と正常コントロール群で有意な差は見られなかった。

<考察>
 TMD患者で血中セロトニン値が低値を示したことは、本症発症にセロトニン系の異常が関与することを示唆させる。本研究室では以前TMDとセロトニン関連遺伝子の異常を見出しており、現在その分子機構を解明中であるが、遺伝的因子に加え、血清因子でもセロトニン値の異常を呈したことは本症発症におけるセロトニンの関与を強く示唆するものである。
 ストレス関連ペプチドと考えられる新規神経ペプチドマンセリンの血中濃度は正常コントロール群とTMD患者群で差は見られなかった。TMDはストレスや心理状態によって寛解と増悪を繰り返すことが知られており、今後他のストレス関連マーカーも含めストレスとの関連を明らかにしていきたい。




©2006 筑波大学生物学類