つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200601200200759

交尾中のアジアイトトンボにおける雄から雌への精子移送過程

田島 裕介(筑波大学 生物学類 4年)  指導教員:渡辺 守(筑波大学 生命環境科学研究科)

はじめに
 アジアイトトンボ(Ischnura asiatica)は池や水田などに生息する小型のイトトンボである。同属のアオモンイトトンボ(I. senegalensis)やマンシュウイトトンボ(I. elegans)は、野外調査や室内実験に用いられ、現在までに精子競争や繁殖戦略に対する多くの知見が得られてきたが、本種については、日周行動と雌の交尾拒否行動に関する観察があるのみで、生活史や繁殖戦略に関する詳細な情報は乏しい。本研究では、アジアイトトンボの繁殖戦略の解明の一環として、交尾中断実験を行なうことで、雄から雌への精子の移送過程について観察した。

方法
 筑波大学構内の兵太郎池で採集した性的に未成熟な個体を室内飼育したり、採卵して、孵化幼虫を飼育・羽化させた成熟個体を交尾中断実験に用いた。野外で交尾が見られる5:00〜11:00の時間帯に雌雄を網室(30p×30p×30p)の中へ1頭ずつ入れた。アジアイトトンボの交尾は一般のイトトンボ科の種と同様、雄が雌の前胸部を尾端の把握器でつかんで連結し、その後、雌が腹部を前方に曲げ、雄の副生殖器と結合して開始される。この交尾行動は、普通、雄の腹部の動きによって3段階のステージに分けられる。すなわち、上下に揺れるようなピストン運動の段階(ステージT)と、ステージTとは異なったやや緩やかなピストン運動の段階(ステージU)、動きのない静止した段階(ステージV)である。各ステージで交尾を中断させ(ステージTでは開始10,30分後,ステージUでは開始直後と1,2,3,4分後,ステージVでは開始直後と2,4,6,8分後)、直ちに雌を解剖して、腹部から交尾嚢と受精嚢を摘出した。これらは別々に生理食塩水(ステージTでは0.3ml,ステージUでは0.5ml,ステージVでは1ml)に入れてホモジナイザーですりつぶし、トーマ氏血球計算盤を用いて、実体顕微鏡下(75倍)で精子を数えた。

結果と考察
 ステージTの継続時間は75.8±8.8分(±S.E.,n=45)、ステージUは6.4±0.3分(±S.E.,n=30)、ステージVは15.8±0.9分(±S.E.,n=12)であった。
 交尾中断実験により、ステージTでは雄から雌への精子の移送が行なわれていないことがわかった。同属のイトトンボでは、このステージにおいて雄が交尾器の末端にある角のような付属構造を用いて、交尾嚢や受精嚢に貯められていた精子を掻きだすと報告されている。本種の雄も交尾器末端に角のような付属構造をもつため、ステージTにおいて精子の掻きだしを行なっている可能性が高い。
 交尾終了直後の雌は、交尾嚢に64,500±4,425本(±S.E.,n=4)、受精嚢に43,143±6,397本(±S.E.,n=4)の精子をもっていたので、1回の交尾で約100,000本の精子が雄から雌へ移送されたといえる。そのうち約60%の精子がステージUで、残りの約40%がステージVで移送されていた。同属のイトトンボの研究では、ステージUのピストン運動で雌に精子は移送され、ステージVは交尾後ガードの一種と考えられていた。それに対し、本種ではステージVにおいても精子が移送されていたので、精子の移送には腹部のピストン運動に加え、別の機構も関与していると考えられる。
 今後は雄の精子置換率や雌の交尾頻度に焦点を当てて研究していく予定である。


図1.アジアイトトンボの雄(左)と雌(右)の交尾器の形態.
図2.ステージU(左)とステージV(右)における交尾嚢(上)と受精嚢(下)内の精子数.

©2006 筑波大学生物学類