つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200601200200791

mtDNA変異ががん転移性に与える影響

山口 綾 (筑波大学 生物学類 4年)  指導教員:林 純一 (筑波大学 生命環境科学研究科)

背景・目的
 ミトコンドリアは核外ゲノムを持つ唯一の細胞小器官であり、酸化的リン酸化によってエネルギー産生を行うという生体にとって重要な働きを担っている。哺乳類のミトコンドリアDNA(mtDNA)は16.5kbpの環状2本鎖でATP合成に関与するタンパクをコードしており、一細胞あたり数千コピー存在するが、酸化的リン酸化に伴って発生する活性酸素種(ROS)に常にさらされるという環境にある。さらに、mtDNAはDNAを保護する役目を持つヒストンなどのタンパク質を持たず、修復機構も不十分であるため、核DNAと比べて突然変異が蓄積しやすいとされている。さらに、化学発癌物質に対する親和性が高いこともあり、mtDNAの変異が蓄積することで細胞のがん化が起こるという「がんミトコンドリア原因説」が提唱されている。事実、ヒト大腸がんや乳がんなどにおいて、mtDNA突然変異の蓄積が認められる症例が数多く報告されており、mtDNAが造腫瘍性の発現あるいはがんの悪性化に関与する可能性が疑われてきた。しかし、いずれの報告も状況証拠に過ぎず、直接的な証拠は得られていない。また、以下のようなことからも、mtDNAとがんの因果関係については疑問視される。 @mtDNAにコードされている遺伝子は全て呼吸鎖酵素複合体に関与しており、病原性のmtDNA突然変異はミトコンドリア呼吸機能の低下を呈するが、腫瘍組織において検出されるmtDNA突然変異はミトコンドリア呼吸機能には影響を及ぼさない。 A哺乳類のmtDNAは完全な母性遺伝をするが、現在までに母性遺伝するがんの報告例はない。 mtDNAが造腫瘍性の発現の制御に関与するか否かを検証するため、本研究室の先行研究において、がん細胞のmtDNAと正常細胞のmtDNA を完全に置換した細胞の作製が行われた。それらについて造腫瘍性の発現の有無を評価した結果、がん細胞由来の核DNAと正常細胞由来のmtDNAを有する細胞は造腫瘍性を発現したが、逆に正常細胞由来の核DNAとがん細胞由来のmtDNAを有する細胞は造腫瘍性を発現しなかったことから、造腫瘍性の発現は核DNA単独で制御されており、mtDNAは関係しないことが証明された。
 しかしながら、転移性などがんの悪性度にmtDNAが影響を与える可能性は否定できない。そこで、本研究ではマウスがん細胞から樹立された低転移性の細胞株および高転移性の細胞株について、mtDNAの変異ががんの転移性に与える影響について検証することを目的とする。
結果・考察
 転移能の制御には、次の3つの可能性が考えられる。@核DNA単独による制御、AmtDNA単独による制御、B核DNAとmtDNAの相互作用による制御。そこで、今回も先行研究と同様に低転移性株のmtDNAと高転移性株のmtDNAを完全に置換した細胞を作製し、それらについて転移能の評価を行っていく。細胞は次の方法で作製する。まず、薬剤処理によりmtDNAを全く持たない細胞(ρ0細胞)を作製し、そこにもう一方の細胞の核を除いた細胞質体を導入する。現在作製中である。また、転移能の評価法を確立するため、元の細胞株である低転移性株と高転移性株において、尾静脈を介した肺への転移率の比較を行った。すると、両細胞株において形成された転移結節の数に明らかな差がみられた。
 従って今後の展望としては、高転移性株と低転移性株それぞれのmtDNAを置換した細胞が作製できしだい、転移率の比較を行い、mtDNA の関与を検証していく。


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