つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200604KT.

特集:入学

遺伝子の大きさ

谷本 啓司 (筑波大学 生命環境科学研究科)

 皆さん、筑波大学生物学類、ご入学おめでとうございます。

 生物学類ジャーナルから、新入生である皆さんのために原稿を依頼されました。残念ながら、私自身もまだまだ発展途上です。経験多き教育者ではありませんので、気の利いた故事格言を引用して皆さんを啓蒙できるような立派な文章は書けません。そこで一人の研究者として、私の研究について綴ってみたいと思います。何かを感じ取ってもらえれば幸いです。

 オリエンテーションの際にも紹介しましたが、私の研究対象は「遺伝子の転写制御」です。ご存知のように、我々の体を構成する一つ一つの細胞の中にはゲノムDNAが存在します。このDNAを鋳型としてRNAが合成される過程が転写です。転写されたRNAのうち、mRNAはその後翻訳されタンパク質となり、rRNAやtRNAは他の分子と複合体を作り、あるいは修飾を受けて、生物機能の発現に携わっています。さて、合成されたタンパク質やRNA分子が我々の体の中で滞り無くその機能を発揮するためには、個々の細胞の中で、その細胞の性質に合致した分子が適当な時期に、適当な場所で適当な量、作られる必要があります。実はこれらを規定する情報もゲノムDNA上に記録されており、その場所(転写制御領域)やそこで何が起こっているのか(転写制御因子が働いている)を明らかにするのが転写制御研究です。

 私は、90年代の後半の5年間、博士研究員(いわゆるポスドク)として、アメリカ合衆国のNorthwestern大学に留学しました。ある時、「遺伝子の大きさ」について研究室で話題になりました。「遺伝子」がその「アイデンティティー(広辞苑によると、ある人の一貫性が時間的・空間的に成り立ち、それが他者や共同体からも認められること、と説明されています)を保持するために必要な情報量(DNAの範囲)はどれくらいなのだろうか?という疑問です。もう少し砕けた表現をすると、本来の仕事をこなすのに必要なDNAの大きさは? ということになります。例えば、私の研究対象の一つである、βグロビン遺伝子について考えてみましょう。同遺伝子は赤血球で転写・翻訳され、酸素運搬という機能を担います。同遺伝子は3つのエクソンからできています。遺伝子というのは、ゲノムの中でタンパク質を作る能力がある部分を指すようですので、βグロビン遺伝子といえば、この3つのエクソンを思い浮かべるのが自然かもしれません。しかしながら、βグロビン遺伝子のアイデンティティーはこの領域内にすべて保持されているわけではありません。なぜなら、βグロビンがいつ、どこで、どれだけ作られるべきなのかという情報が欠けているからです。つまり、これらの「転写制御情報」も、その遺伝子のアイデンティティーを規定する重要な要件なのです。

 主にプラスミドDNAと培養細胞を実験系として用いた転写制御研究の歴史から、転写制御情報は多くの場合、遺伝子の近傍=数千塩基対 (base pair; bp) 以内に見つかっています。βグロビン遺伝子もこの例にもれず、転写開始点から数百塩基対以内に赤血球での転写を指令する転写制御配列が高密度に存在します。転写制御領域が遺伝子の近傍に多数見つかってきた理由の一つは技術的な制限にありました。ヒト・ゲノムのサイズは約30億塩基対でここに約2万数千個の遺伝子が存在すると見積もられていますから、遺伝子間の距離は平均して約100,000塩基対 (100kbp) 程度になります。我々が一般的に分子生物学研究に用いるプラスミド・ベクターは、せいぜい20kbpのサイズのDNA断片しか保持できないため、広い領域を研究対象とすることは非常に困難だったのです。

 私は遺伝子の活性をより生体に近い環境で解析するために、マウスの染色体にDNAを組み込んでその活性を調べるという、いわゆる遺伝子導入マウス (トランスジェニックマウス) を実験系として用いています。過去の実験で、βグロビン遺伝子近傍領域のみを含むDNA断片を用いて、遺伝子導入マウスが作製されました。その結果、導入された遺伝子は赤血球でのみ転写されました。これは、転写場所の情報が遺伝子の近傍にコードされていたことを意味します。ところが、転写量と時期に関しては本来あるべきパターンを再現できませんでした。転写量は限りなく低く、後述するように、本来成人だけで転写されるはずのβグロビン遺伝子が発生段階のすべての時期(胚や胎児の時期)に転写されるようになりました。遺伝子近傍領域のみでは明らかに何かが不足していたのです。

 ヒトのβグロビン遺伝子は進化上、重複により生じてきました。このため、εとγという塩基配列がβ遺伝子と非常によく似た遺伝子が存在し、これらはごく近傍にまとまってクラスターを作っています。実際には5’上流側からε、2つのγ、およびβ遺伝子が約50kbの範囲にわたり配置されており、これらをまとめてβグロビン遺伝子座 (locus) と呼んでいます。非常に興味深いことに、これらの遺伝子は発生段階に応じてこの並びの順番通りに胚、胎児、成人で転写されます。すなわち、最も上流側のε遺伝子は胎児期の初期 (胚期;embryonic days) に、その下流にある二つのγ遺伝子は妊娠後期の胎児期 (fetal days) に、β遺伝子は成人期 (adult) にのみ転写されるのです。さて、ヒスパニック・サラセミアと呼ばれる遺伝病があります。この患者さんではε、γ、βすべての遺伝子の発現が極度に低下しています。このため、赤血球細胞が酸素をうまく運搬することができず、貧血になります。ところがDNA配列解析の結果、これらの遺伝子近傍に変異等は認められませんでした。無傷だったのです。その後の詳細な解析の結果、ε遺伝子のさらに5’上流側に位置するDNA領域 (現在、遺伝子座制御領域 (LCR) と呼ばれています) が欠損していることが分かりました。つまり、遺伝子自体が無傷でも、そこから約50kb (LCRとβ遺伝子間の距離) も離れたDNA領域が壊れると、遺伝子座内のすべての遺伝子の転写がおかしくなってしまうことが分かったのです。これは、遺伝子の本体から非常に離れた位置に、その遺伝子のアイデンティティー(転写量)に影響を与えるゲノム情報が存在する事を示す例です。

 LCRの発見後、当然のようにLCR DNA断片をβグロビン遺伝子に連結して、遺伝子導入マウスが作製されました。遺伝子発現解析の結果、転写量は予想通り正常になりました。やはり、LCRはβ遺伝子のアイデンティティー形成の一部を担っていたのです。ところが驚いたことに、時期に関しては正常な転写を再現できませんでした。成人期のみに転写されるはずのβ遺伝子がすべての発生段階を通して転写されたのです。では、この転写時期を決定しているものは何なのでしょうか?ここでは紙面の都合もありますので詳細は省きますが、その答えは遺伝子座内のε、γ、β遺伝子の位置関係にありました。このことを決定的に示した私自身の研究結果を紹介します。βグロビン遺伝子座は全長70kbpを超えるため、プラスミドを使って解析を行うことは困難です。そこで私は酵母人工染色体 (YAC) といわれるベクターを実験に用いています。YACは酵母の中で、本物の染色体のように振る舞うことができ、数百kbから数Mbにもわたる巨大なDNAを保持することができます。私はYAC上にクローン化したヒト・βグロビン遺伝子座を用いて遺伝子導入マウスを作製しました。このとき、LCRに対するそれぞれの遺伝子の相対的な位置関係を逆転しておきました。つまり、LCRに近い方から、β、γ、ε遺伝子の順番に並べ替えたのです。さて、何が起きたでしょう?本来、胚の時期に転写されるはずのε遺伝子は転写されなくなり、代わりに成人になってから転写されるはずのβ遺伝子が胚の時期に発現し始めたのです。この結果は、遺伝子同士の相対的な位置関係が個々の遺伝子のアイデンティティー(転写時期)に影響を及ぼすことを示しています。ほとんどすべての哺乳動物のβグロビン遺伝子座で、胚の時期に転写される遺伝子が常にLCRのすぐ近傍に位置しているのは、その必然性があるからなのかもしれません。

 さて、私は初めに転写制御研究の一つの目的は、ある遺伝子が適当な場所で、適当な時期に、適当な量、転写されるメカニズムを理解することであると述べました。βグロビン遺伝子に関して言えば、場所は主に遺伝子近傍領域で規定されていますが、時期(相対的な位置関係による)や量(LCRによる)は、一般的に考えられている遺伝子の範囲には収まりきらない程大きなDNA領域によって制御されていることが分かっています。最近では、数百kbも離れた場所から遺伝子の転写を制御するゲノム情報の例や、なんと他の染色体から制御している例も報告されています。たった一つの遺伝子だけを取り出して研究しても見えてこない相互作用が、実際には存在しているのです。

 留学先のボスの部屋で「遺伝子の大きさ」について、たわいもない雑談をしながら、日本から遠く離れて研究の世界に身を置く自分、日本の家族や友人、アメリカでのこれまでとは大きく変わった環境に思いを巡らしていました。まずは、確固たる自分を見いだしましょう。


ヒトβグロビン遺伝子座の構造


留学先のアメリカの研究室から望むミシガン湖。手前はキャンパス内のサッカーグラウンド。

Contributed by Keiji Tanimoto, Received April 17, 2006.

©2006 筑波大学生物学類