つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200606HH.

特集:筑波大学植物発生生理学研究室の歩み

研究グループの胚形成期

原田  宏 (元 筑波大学 生物科学系)

 1974年9月初め、私は期待と不安の交錯する気持ちを抱いて、土浦駅のホームに降り立った。自分の職業生活後半の20年余りを筑波大学で過ごすべく、多くの思い出をフランスに残したまま帰国して、その日が仕事の第1日目だったからだ。研究学園都市というアカデミックな名称から想像されるイメージとは少し違う人々、特に早朝の仕事を終えて東京方面から戻って来た「カラス部隊」などと呼ばれていた農家の女性たちに混じって改札口に向かう。古びた木造の駅舎は戦時中に予科練の従兄に面会に来た時と余り変わってはいないように思えた。とにかく大学行きのバスを見つけなければと、慣れない私は気ばかり焦っていたせいか、その日の天候も周囲の状況も殆ど記憶にない。運よくその朝赴任してきた一人の事務部長さんを迎えに来ていた公用車に便乗させてもらう。土ぼこりをもうもうと上げつつ、車は赤茶けた裸の道を走り、半時間余りで松林の中に聳える黒い異様な姿の体芸棟前に着いた。キャンパスになるべきところには他に建物らしいものは殆ど見当たらず、やや手前で何棟かの学生宿舎が目に入ったのみであった。

 覚悟はしていたものの、パリ郊外のシャトーの庭に広がる美しい研究所群を見慣れていた目には、かなり暗い光景に写った。そしてそれはその後、相当長い間続いた「長靴と懐中電灯」が必需品の、泥んこ道で、外灯もないキャンパスでの厳しい大学生活のはじまりだった。

 国際学会などで短時日旅行者気分で日本に滞在した以外は20年振りの帰国だったので、聞くこと、見ることを理解し、吸収し、消化するのにはかなりの時間と努力を要した。当時はまだ筑波への移転賛成派と反対派の抗争の後遺症が相当影を落としていたように感じられた。最初の生物学類長の千原先生のご配慮で、新学年の始まる迄の約半年間を講義等、様々の準備期間にして頂けたのは有難かった。その他にも、右も左もよくわからない私が筑波の生活にスムーズに溶け込めるようにと、多くの先生方や事務の方々が示して下さったご厚意は忘れ難い。建物の暫定利用計画による実験室や研究室の学内移転を度々強いられて、1977年1月に図らずもパリのユネスコ本部に赴任することになるまでは、落ち着いて仕事をするには余りにも困難な期間であった。それでもまずは鎌田氏が最初の博士課程の院生として、続いて谷本氏や今村氏が加わってきてくれて、後日の大きな研究グループの核を作ることができたのは誠に幸運であった。上記3君の、最も苦しかった時代の奮闘には小生は本当に頭が上がらない気持ちだ。最初の頃、頻繁に大塚の東京教育大・理学部の一室を借りて、鎌田氏と2人だけで向いあってのセミナーをしたのも今から思えば懐かしい。偶々その折に2人で読んだ仏語のモノグラフはDr.Manigault著のCrown Gallについてのもので、著者自身からフランスを去るに当たって頂いたものだったが、その後のこの分野の発展を暗示していたかのように思える。

 上記3君を残してユネスコ本部に赴任しなければならなくなったのは、本当に心苦しい限りであったが、当時の文部次官の依頼では小生としてはどうしようもなかった。私の留守の間も上記の3君は本当によく頑張ってくれた。自分としてはフランス時代の研究を続けたかったこともあり、鎌田氏には主にニンジンを材料としての不定胚形成を、谷本氏にはトレニアの茎切片やアサガオの頂芽を使用しての不定器官や花芽分化を、今村氏にはタバコの未熟花粉(microspore)を用いての半数性細胞や個体の分化・形成の問題の解析を夫々お願いした。その後3人共博士の学位を取得して、鎌田氏は研究室に残り、今村氏はスイス・バーゼルのDr.Potrykusの研究室に、谷本氏は佐賀大学へと進んで行った。谷本氏は、我々グループの実験には不可欠な培養室を器用に手造りして、学内移転の度に一端組み立てたものを分解しては運び、又組み立てるという作業を繰り返してくれたりして、誠に貴重な存在であった。

 ユネスコでは、開発途上国の発展のための教育・研究援助等の責任を負わされていたので、アフリカ、中東、南米、東南アジア等の多くの国々を何回となく巡らされたが、なんとか理由を見つけては日本に立ち寄り、筑波にも足を運んだ。そのような折に偶々、鈴木恕先生とジャンケンで勝ったほうが生農D301か2D320のどちらかの実験室を選ぶということになり、私が勝って、藤伊先生のアドバイスもあって2D320の方を選んだ。そのLaboはその後、長い間我々の主要な実験室となり、多くの業績と思い出を残した。研究グループの名称も最初、私は「植物発育生理学」としようと思ったが、どうも「植物発生生理学」の方が良いという者の方が多かったので、後者にすることにした。その後の我々の研究グループの発展の歴史と想い出話は、藤伊先生や鎌田氏をはじめ後輩諸氏に委ねることにしたい。

 最後に20年余の長い間、小生の至らぬ点を我慢し、忍耐強くカバーし続け、蔭で支えてくれた研究室の代々の懐かしい皆さんに深くお礼申し上げる次第である。又、この機会に、筑波大学への赴任を強く薦めて下さった初代の故三輪知雄学長に深甚の謝意を表させて頂く。

(筑波大学名誉教授、1996年退官)

Contributed by Hiroshi Harada, Received June 12, 2006. Revised version received July 7, 2006.

©2006 筑波大学生物学類