つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200606HK.

特集:筑波大学植物発生生理学研究室の歩み

研究室の発足から現在に至る長い足跡

鎌田  博 (筑波大学 生命環境科学研究科)

原田宏先生との出会い

 思い起こせば30年ほど前(1974年)、私が東京教育大学大学院修士課程農学研究科の2年生の秋、修士課程(当時農学部には修士課程しかなかった)を修了してから就職しようと県の公務員試験や高校の教員試験を受験し、最終結果を待っていた時、私の所属していた研究室(植物育種学研究室)の教授(細田友雄先生)を訪問されたスポーツ刈りの研究者(原田宏先生)がいた。その後、細田先生と話をした際、この先生は世界的にも大変有名な植物組織培養の大家で、フランスで長い間研究をされてきたが、筑波大学発足に当たり、帰国されて筑波大学で新しい研究室を立ち上げるとのことであった。修士論文研究(ブラシカ属植物の種間雑種胚の発生)で簡単な植物組織培養(子房培養や胚珠培養)実験も手がけていた私に、何かのおりに、この先生と一度会ってみないかと細田先生に声をかけられ、原田先生に実際にお会いすることになった。お会いしていろいろな話を伺い、筑波大学の博士課程に進学し、この先生の下で研究をしてもいいかなと思うようになった。何が何でも就職しようと思っていたわけでもなく、かといって博士課程でしたいことが決まっていたわけではなかったが、何となく原田先生の下で研究しようと思い、結局、翌年4月からは筑波大学博士課程生物科学研究科(当時は5年一貫性であった)3年次に進学(編入)し、原田先生の下で研究を始めることとなった。これが原田研(後に研究室の名称を「植物発生生理学研究室」と名乗ることになる)の始まりであった。

発足当時の研究室の思い出

 原田先生の下で研究を始めると言っても、当時はつくばの地に研究ができる環境は全く整っておらず(原田先生が書かれている稿に当時の様子が描かれている)、東京茗荷谷にあった東京教育大学理学部W館の1室(東京教育大学理学部植物学教室の遺伝学研究室の方(現在熊本大学の教授をしておられる吉玉国二郎先生)が入っていた研究室)の一角に間借りさせてもらうこととなった。原田先生の研究室に進学したのは私と糸山登志子さん(東京教育大学理学部植物学教室の修士を修了して進学してきた方)で、W館でずっと研究をしてきた糸山さんに教わりながらあちこちの研究室にある設備や試薬を使わせてもらい、糸山さんお手製の培養室を一緒に使わせてもらい、ようやく実験を始めることができた。

 原田先生からは実験の具体的な課題や内容の指示はなく、手当たり次第いろいろな材料を使って植物の細胞・組織培養を試みた。時々は、原田先生からおもしろい論文がありますよと言って論文を手渡され、それを読んでその実験を実際にやってみるということを繰り返すうちに、トレニアを使った不定芽形成・不定根形成とニンジンを使った不定胚形成の実験がおもしろくなり、結局その実験で博士号を取ることになった。当時の最も鮮明な思い出は、原田先生と私の2人だけのセミナーである。フランスを中心に外国で20年以上生活をしてきた原田先生は正確な日本語に自信がないとおっしゃり、私が第2外国語としてほんの少しかじったフランス語で書かれた専門書や論文を読むことになった。仏和辞典にかぶりついて単語を調べ、原田先生の前で日本語に訳しながら説明したが、正しい訳かどうかは結局分からなかった。しかし、その当時に読んだ多数の本や論文はその後いろいろな研究に役立ち、特に、植物の形質転換に必須な根頭癌腫(クラウンゴール)病菌のことは現在でも私の研究の主要な1課題となっており、図らずも植物発生生理学研究室のその後の方向や発展の大きな基盤となったことは、偶然とは言え運命的な出来事であったと感じている。

研究室の発足と原田先生の不在

 原田研が発足した後、谷本静史氏(現、佐賀大学教授)が技官として着任し、翌年には、横浜市立大学から来た今村順氏(現、玉川大学教授)が大学院生として加わり、徐々に研究室のメンバーが増えていった。ただ、私自身は相変わらず東京教育大学で実験をしており、今村氏や谷本氏はつくばの地で実験を開始したこともあり、1つの研究室で皆が一緒に実験をするようになるにはさらに時間がかかった。筑波の地では、筑波大学の建物が順次できあがり、その都度毎年のように実験室・研究室の学内移転があったようであるが、私自身はほとんど東京で実験をしていたため、その当時の学内移転の苦労は全く知らない。

 当時、今村氏は週に1度は東京に来て原田先生と3人でセミナーをし、私も週に1度は筑波に出向いて実験をするようになったが、東京と筑波の往復は時間がかかり、真夜中あるいは明け方になって車を飛ばして実家のある埼玉に帰ったことは懐かしい思い出である。

 ところで、筑波大学発足当時、植物生理学分野では原田先生以外に、新潟大学から相見霊三先生が着任され、相見先生と一緒に新潟大学から鈴木隆氏が私と同じ大学院3年次に編入してきた。鈴木氏の独特なキャラクターは私にとっては大変印象的で、その後長い間同期生としておつきあいさせていただくこととなった。因みに、相見先生の研究室ではその後小幡徹氏(現、慈恵会医科大学)が技官として着任され、フィトクロームタンパク質の精製に汗を流されていたことが思い出される。

 さて、そうこうしているうちに、原田先生が当時の文部省の依頼を受けてUNESCOのパリ本部に出向されることになり、私や谷本氏、今村氏は原田先生不在の中で何とか研究室をやりくりし、各自の研究を進めることとなった。また、原田先生が不在の間は、私と今村氏は、大学内での仮の指導教官として代謝生理学研究室の鈴木恕先生が指名され、また、セミナーについては東京大学理学部植物学教室の植物生理学研究室(当時主宰されていたのは下郡山正己教授)のセミナーに出入りできるように原田先生が手配をしてくださった。そこで、原田先生がフランスに出発された後は、毎週、東大に出かけて行って東大の学生・大学院生と一緒にセミナーをすることになった。そのセミナーでお会いしたのが、当時その研究室の助教授であった駒嶺穆先生と助手であった藤伊正先生、および、その当時大学院生であった藤村達人氏(現、筑波大学教授)、小関良宏氏(現、東京農工大学教授)、福田裕穂氏(現、東京大学教授)等であり、その後も現在に至るまで長いおつきあいをさせていただくこととなった。

 ここで、当時の藤伊先生のエピソードを1つご紹介しておこう。あるセミナーの時に藤伊先生が来週は風邪を引くからセミナーは休みますと告げられた。聴いていた私にとっては???であった。翌週になって確かに藤伊先生がセミナーに参加されなかったが、その後で聴いたところによると、スキーに行っていたとのこと、藤伊先生に対する印象が決まったことは言うまでもない。ところが、その後、藤伊先生が筑波大学の我々の研究室を訪問されたことがあり、しばらくしてから藤伊先生が筑波大学の教官として着任された。当時実験室は違っていたが、同じ建物内に実験室をもたれ、たびたび原田研にも顔を出され、実験の話や植物組織培養に関する藤伊先生のご意見を伺ったりしたが、東大時代の藤伊先生の印象が強く、距離を置いてお付き合いしたことはご理解いただけるだろう。

東京から筑波への研究室の移転

 さて、原田研が発足してから確か3年目だったと思う(4年目だったかもしれない)が、東京教育大学から筑波大学への移転が本格化し、いよいよ私自身も東京から筑波に研究室を引っ越すことになり、当時間借りしていた東京教育大学の研究室に残っていた古くからの多数の雑多なガラス器具類や試薬類等を何日もかけて整理し、その大部分をゴミとして廃棄したことも極めて印象的であり、研究室の歴史はこういうところにも現れるものだと妙に感心したものであった。引っ越しの当時、W館の同じ研究室に一緒に間借りしていたのが遺伝学研究室(当時の教授は柳澤嘉一郎先生で、その後が田仲可昌先生、現在は漆原秀子先生)で、研究室の全員が毎日毎日英語の論文を読んで来て、毎朝セミナーをやっていたことが今でも強く印象に残っている。当時の柳澤研のメンバーとは筑波に引っ越してきてからも交流が続き、当時の柳澤研の卒業生達があちこちで活躍している情報が今でもよく私の耳に聞こえてきて、その活躍ぶりが嬉しくなる。

 筑波への移転に際しては、原田先生と鈴木先生のジャンケンで移転先の研究室が決まったことは原田先生が書かれている稿を参照願いたい。当時パリに出向されていた原田先生は、機会ある毎に日本に帰国され、我々の研究の進展状況や今後のこと等を話し合い、日常生活のことにも気を配っていただいた。そんな中、ジャンケンで決まった研究室が第二学群棟にある2D320であった。2D320には、原田研ばかりでなく、藤伊先生のグループ(東京大学から藤伊先生と一緒に研究生としてやってきた堀秀隆氏(現、新潟大学教授)や相見先生が退官された後で藤伊先生に指導をしてもらっていた鈴木隆氏)も一緒に入ることになり、このことが縁で、その後原田研と藤伊研が一緒になって植物発生生理学研究室を名乗ることとなった。鈴木先生のグループは生物農林学系棟D301室に入り、その後、代謝生理学研究室(鈴木先生が退官後は猪川倫好先生が引き継がれ、現在は白岩善博先生)(途中で研究室の位置が変わり、現在は生農D302室を使っておられる)を名乗ることとなった。鈴木先生達のグループの筑波への移転は約1年後に行われ、長い歴史を誇る研究室だけに、猪川先生が移転時に大変苦労されていたことを覚えている。

研究室の発展期

 移転が完了し、研究室がやっと落ち着き始めた頃、私は博士論文研究の仕上げの時期で、実験と論文書きに追われることとなった。さらに、原田先生から、植物組織培養の専門書の一部を書くことを依頼されており、そのための論文調べ、原稿書きも同時並行となり、約2ヶ月間寝る間を惜しんで、毎日毎日原稿を書き、フランスにおられた原田先生に毎日国際郵便を出し続けた。当時は本当にできるのだろうかと大変苦しい思いをしたが、今となっては懐かしい思い出であると同時に、人間やる気になれば何とかなるものだということが今でも私の信念となっている。どんなに難しそうでも、チャレンジしましょう。最初から諦めたら何も残すことはできません。

 私事になりますが、この忙しかった時期に結婚することとなり、アルバイト以外に収入のない時代が1年半ほど続きましたが、家内のおかげで何とか生活をすることができました。おかげで今でも家内には頭が上がらない。いろいろありましたが、鈴木先生、柳澤先生、渡邉良雄先生をはじめ多くの先生方の励ましのおかげで無事に博士号を取ることができ、その後の身の振り方を考えていた時期に、原田先生が帰国され、原田研の技官(準研究員)として働くことになった。

 私事はさておき、上に述べたように、移転後、研究室は順調に立ち上がり、生物学類の1期生も卒研生として研究室に入ってくるようになり、また、他大学からも大学院生が多数入るようになり、研究室のメンバーがどんどん増えていった。藤伊先生の指導を仰ぐためにその当時に横浜市立大学から大学院に入ってきたのが佐藤忍氏(現、生物学類長)で、藤伊先生との丁々発止の会話は脇で見ていて大変おもしろいものだった。また、東洋大学の先生をしておられた加藤美恵子氏(現、東洋大学教授)が藤伊先生と一緒に研究するために研究室への出入り許可をもらって出入りしたり、筑波地区になる農林水産省研究所や国立環境研究所等から松岡信氏(現、名古屋大学教授)、近藤矩朗氏(現、帝京科学大学教授)、笠毛邦弘氏(故人)をはじめ多くの方達が研究室に出入りしていたのもこの時期で、多くの共同研究が行われた。当時の研究室は、午前中は皆一生懸命に実験をし、午後は誰からともなくテニスをしようと声がかかり、藤伊先生をはじめみんなでテニスをし、暗くなると今度は藤伊先生が言い出しっぺで卓球を始め、夜中になると今村氏を中心に酒を飲む日が多かったことが懐かしく思い出される。こんな日々を送ったが、当時の研究室のメンバーは独立心が旺盛で、自分の研究は自分で立案・実行し、研究室のメンバーの研究内容を全部把握して適切な指摘を与え、各自がいつの間にかきちんと実験データを出し、学会で発表し、論文を書いていた。今の学生達に是非見習って欲しいものです。

 ところで、その当時、アメリカ帰りの新進気鋭の若手研究者が講師として着任され、それが内宮博文先生(現、東京大学教授)でした。植物バイテクの専門家であった内宮先生は、当時欧米を中心に始まっていたプロトプラストや分子生物学的技術を使った研究法を研究室に持ち込み、原田研で遺伝子関係の研究が始まったのはこの時期だった。この時期には私も根頭癌腫病菌や毛根病菌を使った研究を宮城教育大学から大学院生としてやってきた石川恵子さん(現、(財)日本園芸生産研究所)と始めており、これがもとで高等植物における遺伝子組換え実験を日本で最初に始めることとなり、原田先生と共に日本における遺伝子組換え実験の規制(ガイドライン)作りや改訂に携わるきっかけになった。当時は、それ以外にも、今村氏の仕事を引き継いだ京正晴氏(現、香川大学教授)が単離花粉培養による半数性不定胚形成の実験系を確立し、また、当時東京大学の助手をしておられた加藤博之先生が内地留学で原田研に来られてその研究がもとでストレス不定胚誘導系が確立された。今思い起こせば、現在我々が使っている大切な実験系の多くがこの時期に作られたものである。

 いずれにしても、この時期には多くの学類生・大学院生が植物発生生理学研空室に所属し、さらに、民間企業からも多くの研究者が1〜2年の長期派遣で来られており、外国人研究者や留学生も多く、部屋の中に全員が収まりきらないような状況が続いた。この時期の学類生・大学院生・研究員には個性あふれる人が多く、その後研究室の伝説として長く伝えられることになる出来事がたくさん起こった。また、この時期の卒業生の多くは学類卒あるいは修士卒で(植物)バイテクに関連する企業に研究員として就職し、今でもそれぞれの企業で活躍されており、博士号取得後に県や国の公務員となって今でもバイテク関係の仕事に従事されている方がたくさんいる。

研究室の拡大期

 研究室のメンバーがあまりに多くなって研究室(2D320)に入りきらない状況が続いていた頃、筑波大学に遺伝子実験センターが新設されることとなり、私自身はちょうど技官としての5年間の任期が切れる時期だったこともあり、原田先生のご努力により、この新設の遺伝子実験センターの講師に着任することになった。着任したと言っても当時遺伝子実験センターの建物はまだできておらず、建物の設計から室の内装や機器の購入・設置までの全てに携わることになり、おかげで大学の施設部との交渉の仕方を学んだ。着任から約2年後に建物ができあがり、私ならびに私と一緒に研究をしていた学生達が遺伝子実験センターに引っ越すこととなり、この時から植物発生生理学研究室は2カ所の研究室に分かれて研究することになった。それでも当時は、原田先生、内宮先生、藤伊先生がおられ、セミナーや研究室の行事等は全員一緒に行っていたため、植物発生生理学研究室のメンバー全員が同じ研究室に所属しているという意識が強く、2D320と遺伝子実験センターのメンバー間の交流は頻繁に行われていた。この時期になると、筑波地区には農林水産省、経済産業省、環境庁等の研究所(植物発生生理学関連では、現在、農業生物資源研究所の佐々木卓治氏、矢野昌裕氏、徳富光恵氏、および、国立環境研究所の中嶋信美氏が筑波大学連携教授/助教授となっている)ばかりでなく、理化学研究所筑波研究所(現在は、筑波研究所バイオリソースセンターとなっており、小林正智氏(筑波大学連携教授)が植物分野をとりまとめている)ができ、篠崎一雄氏(現、理化学研究所植物科学研究センター、センター長)(筑波大学連携教授)のグループの人達も多数出入りするようになり、植物分子生物学関係の研究もどんどん増えていった。

 遺伝子実験センターでは、遺伝子実験に関連する多種多様な先端機器が設置され、遺伝子解析ばかりでなく、遺伝子組換え植物の育成や栽培も本格化し、大学では全国に先駆けて隔離温室が設置されたのも当時の重要な一歩であった。このような遺伝子実験センターとしての活動は現在でも続いており、多数の隔離温室(現在では、カルタヘナ法に基づき、特定網室と呼ばれている)が設置され、さらに、圃場栽培の第1歩である模擬的環境影響試験圃場(通称、隔離圃場)も設置され、我が国を代表する遺伝子組換え植物の研究施設になっている。

 さて、このように研究室のメンバーばかりでなく、研究室自体も拡大をしていた時期に、内宮先生が北海道大学に転任(その後、東京大学に転任)され、その後任として埼玉大学から酒井慎吾先生が助教授として着任された。酒井先生は植物ホルモン、特にオーキシンの研究者として知られており、新しい雰囲気を研究室にもたらしてくれた。私自身は、遺伝子実験センターの助教授に昇任し、遺伝子実験センターの業務に追われるようになり、自分で実験をする時間がどんどん無くなっていったのもこの時期である。この時期からしばらくの間が植物発生生理学研究室の安定期で、2D320と遺伝子実験センターがうまくタイアップしていろいろな研究が進められた。この当時の様子は本特集の他の方達の稿を参照願いたい。

遺伝子実験センターの改組・拡充

 その後、筑波大学では江崎玲於奈氏を学長として迎え、原田先生は副学長になられ、研究室に来られる時間がどんどん短くなってしまった。一方、私自身はひょんなことから当時文部科学省から来られていた研究協力部長や他分野の先生方と一緒になって先端学際領域研究センター(TARAセンター)を構想し、実際に立ち上げることにも関わることになり、ここでもまた建物の設計に携わると共に、新しい組織を構築するための交渉の仕方を学んだ。結局、この当時に築いた人脈や文部省との交渉法を最大限駆使し、長年の夢であった遺伝子実験センターの改組・拡充を実現することとなり、2001年に新しい組織(教員の増員)が認められ、翌年には新しい建物が増設された。

 遺伝子実験センターの改組・拡充に伴い、新たに小野道之先生が助教授として、また、溝口剛先生が講師として着任し、植物発生生理学研究室のメンバーとして教育・研究に当たってくれることとなった。また、遺伝子実験センターの旧棟に研究室を構えていた鎌田研もセンター増設に伴って新しい研究室に引っ越し、培養室、植物栽培室、実験室が広くなり、植物生理学・分子生物学の実験に必要な多くの共通実験室や大型機器が設置され、ようやく実験室のメンバー数に見合う実験スペースを確保することができるようになり、研究の内容や幅も益々拡大することになった。

 このような研究室の拡大期の途中で、私自身は新設されたバイオシスム研究科の教授となり、一時期は遺伝子実験センターのポストを離れたが、遺伝子実験センターの改組・拡充の後で遺伝子実験センター教授のポストに戻り、現在でも遺伝子実験センターを中心に活動をしている。その間、原田先生と藤伊先生が退官され、酒井先生と佐藤先生が引き続き2D320に研究拠点を構えていたが、今度は研究科の改組に伴い、酒井先生と佐藤先生は新たに建設された総合研究棟A棟に引っ越すこととなり、長い間お世話になった2D320から植物発生生理学研究室は完全に撤退することになった。

研究室の現在と今後

 今でも植物発生生理学研究室(酒井先生、佐藤先生、鎌田、小野先生、溝口先生、岩井先生)のメンバーは、週1回は全員が集まってセミナーを実施し、歓送迎会等の研究室行事も一緒に行っている。実験する場所は離れてしまったが、同じ植物発生生理学研究室に所属するメンバーとして教官・学生が意見交換しながら研究に励む毎日を送っている。ただ、研究室発足当時のあの強い連帯感がやや薄れていることは否めない。実験室の物理的な距離が離れてしまった結果とは思うが、同じ分野の研究者同士として切磋琢磨し、世界に誇れる研究成果をあげ、筑波大学植物発生生理学研究室の名前を益々高めていってもらいたいと思っている。

(教授、遺伝子実験センター長、1978年生物科学研究科修了)

Contributed by Hiroshi Kamada, Received June 12, 2006.

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