つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200606MA.

特集:筑波大学植物発生生理学研究室の歩み

四国、飯混沌

青野 光子 (国立環境研究所生物圏環境研究領域)

 よく、偉大な人々が苦労して築き上げてきたものを横から掠め取っていく不心得者がいるが、植物発生生理学研究室に関しては、それは私である。

 私は生物学類出身(1987年卒業)であるが、植物発生生理学研究室に所属したことはない。最近では記憶も薄れてきて、大過なく楽しい4年間を過ごした気でいたのだが、よくよく思い出してみれば、「植物生理学III」の単位も確か結局取れなかったし、所属研究室では諸先輩方に叱られてばかりの、要は劣等生であった。幸い、当時は自分が劣等生かどうかもはっきり認識できない程度の理解力で、筋力にまかせた日々を送っていたが、同級生の中でも優秀な者が綺羅星のごとく集う2D320には本能的な恐れを抱いたせいか、近寄った記憶があまりない。オートクレーブしたジャガイモ(あれはやはり食用だったのだろうか?)が転がっていた光景をぼんやりと覚えている程度である。

 大学院には進んだものの、時代はバブル期、入学時既に企業に就職が内定している同級生もいる中で、私には具体的な将来の展望も特になく、とぼとぼとセンタービルあたりを歩いていたある初夏の日、藤伊正先生にお会いした。先生がおっしゃるには、「君、公務員試験に受かってるようだが、公害研の私の知り合いのところで話を聞いてみないかね」。それがきっかけで、運良く当時の環境庁国立公害研究所(今の国立環境研究所)に就職することが出来た。藤伊先生のお知り合いとは、私も在学中に授業を受けた近藤矩朗先生、後の私の上司であった。あの時、藤伊先生に偶然お会いしなければ、今の私はない。今の私がなくても困る人は誰もいないが。しかし、私のような者が未だに研究者として過ごすことが出来ているのは、明らかに分不相応な幸運であるということを肝に銘じ、あまり堂々と胸を張らないように気をつけたい。

 研究所に入ってからは、植物を扱う研究を始めたため、植物発生生理学研究室とは在学中よりもずっと近い関係になった。とは言ってもそこは切れ者のメッカ2D320、胡乱な不心得者が直接行くのは怖いので、まだメールも普及していない頃、「用はない(4871)」といいながら電話をかけ、いろいろと研究上のアドバイスをいただいた。また、これまでに何人もの学生さんを研究所によこしていただき、植物の環境ストレス応答に関する研究課題を中心に、若いパワーで大いに研究を助けていただいている。

 個人的には、特にお世話になったのがフランス関係の様々なことである。植物発生生理学研究室とフランスとの関係は深く、原田宏先生、鎌田博先生がフランス政府から勲章を受けられているのはご存知の通りである。1991年には、原田先生をはじめとする先生方に連れられて、南仏ペルピニャンで開催された「日仏ラウンドテーブル」に参加させていただいた。国際学会デビューである。その際、フランス各地の主要な植物関係の研究所を訪問し、非常に得がたい経験をさせていただいた。ベルサイユやジフ・シュール・イベット、ストラスブールの各研究所でセミナーや丁寧な研究室案内をしていただき、Monsieur Haradaの偉大さを再認識したものである。この短いフランス滞在は、英語もおぼつかない駆け出しの研究者だった私にとって、研究上でも、また海外研究者とのコミュニケーションという点でも、後の大きな糧となったと思う。思い出し笑いのネタに事欠かない、面白い道中でもあった。特に、フランス人参加者から「皆さんがよくおっしゃっている“Sensei no Josei Kankei”という日本語は、どういう意味ですか」という質問があったのは忘れられない。当該の先生がどなたであったかは、生憎失念した。この時の縁で、後に北仏の大聖堂の街、アミアンで1998年秋からの1年間、研究生活を送る貴重な機会を得ることもできた。

 更に、2001年、南仏プラドで行われた日仏会議への参加に際して、鎌田先生に仏政府から支給された航空券をいただいた事もある。あれは本当に私が使ってしまって良かったのか、今でも気にかかる。ご叙勲の際や日本での日仏会議の折に、在日フランス大使館でのパーティーに参加させていただいたのも、普段は無縁な華やかな世界を垣間見る、勿体無い経験であった。様々な日仏の交流を通して、仕事以外の生活の諸事や人間関係に対しても決して疎かにせずに責任を持って向き合うフランス人の人生に対する真剣な態度を知ったことも、私には収穫であった。

 こうして思い返してみると、原田先生・鎌田先生主催のバーベキューパーティーから研究生活、人生観にいたるまで、まさにお世話になるばかり、いい思いをさせていただくばかりである。ご恩返しに当たることは全く出来ていない。せいぜいが、フランス人研究者を交えての宴会の座持ち程度であろうか。実に困った不心得者である。しかし、大研究室の不心得者に恩恵を施すこと、偉大なるローマが辺境に文明をもたらすが如しであろうか?辺境の民が貧弱な貢物をしたところで、ローマの富に影響があるわけもなく、そもそも、お返しの、対価の、などというみみっちい発想がないからこそ、植物生理学の辺縁にいる私に声をかけてくださるのだと思う。本当にありがたいことである。いざ鎌倉というときには、真っ先に駆けつけたい。そういえば先日、佐藤忍先生のご縁で鎌倉に程近い横浜市大で講義をさせていただいたが、それは全然関係がない。

 暗い廊下の先にあった培地臭い2D320も今はない。先年のお別れパーティーでは、一時代の終わりと新しい時代の始まりを感じた。今、植物発生生理の諸先生方、研究室のメンバーの皆様は、本来ふさわしい、輝くばかりの新しい世界、快適そうなオフィスや実験室で研究に励まれていることと思う。一方、アスベスト舞い散る老朽化した研究施設の片隅に巣くっている私は、これからもお世話にばかりなりそうな予感がする。せめて、バーベキューに参加させていただくときには手土産を忘れないようにしたい。

 ちなみに表題の「四国、飯混沌(しこく、めしこんとん)」とは、日本地図を見せて「本州、四国、、、」と説明していた私に、フランス人学生が大喜びで口々に叫んでいた言葉(Je suis cocu, mais je suis content.)の空耳であり、拙文の内容及び四国の食糧事情、また実在の人物の私生活の状況とはなんら関係がないことは言うまでもない。

(1987年生物学類卒業)

Communicated by Shinobu Satoh, Received June 12, 2006.

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