つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200606OM.

特集:筑波大学植物発生生理学研究室の歩み

植物発生生理学研究室と私

小野 道之 (筑波大学 生命環境科学研究科)

 学派という言葉があるけれども、同じ釜の飯を食べた以上の目に見えないつながりが研究室には大切であると思う。煎じ詰めると「ものの考え方」という植物生理学の根本原理の伝承・継承ではないかと思う。原田宏先生がフランスという科学が発祥した西欧から持ち帰られた流れが私達の植物発生生理学研究室にはある。目に見えない大きな流れの中で本当に多くの人々が輝いてきた。

 植物生理学とは何か?高校生の私にはよく判らなかったが、将来の植物改良のためには植物をもっと良く知らなくてはならない。そのために最も重要な学問であると想像していた。植物の研究者が異例に多いことを大学職員録で調べて確認した上で、筑波大学の生物学類への進学を決めた。生き物が大好きで、将来の植物改良のための基本原理を発見することに憧れていた。バーバンクの「植物の育成」が愛読書であり植物自身が持つ可能性に魅力を感じていたが、古典的な育種などよりも、たとえ失敗作ではあってもポマト(ジャガイモとトマトの細胞融合雑種)作出のような革新性を目指したいと考えていた。細胞融合ではブラックボックスとブラックボックスを無理に足したから化け物になってしまったに過ぎない、要は植物自身のことを理解し、ブラックボックス状態を抜け出すことの方が重要なのだ。一人の高校生の1978年頃の夢は2000年を超えて現実に向かう兆しである。植物生理学の分野では昨今、破竹の勢いで新しい発見が相次いでおり、毎日が知的興奮(私のキーワードの一つ)に満ちている。この道を目指して良かったと心から感じている。

 生物学類2年の冬(1980年)、原田先生のオフィスをお訪ねした。「先生の研究室に入るためにはどうすれば良いでしょうか?」、夕日で真っ赤に染まった壁を背景に先生は「君には発生と分化を研究してもらいたい。しかし、まだ2年生なので植物に限らず幅広く勉強して来ることですね」。原田先生の真摯な語り口に感動した私は、その日から発生と分化という言葉に夢中になった。この時に読んではどうかと見せていただいた本が「植物細胞組織培養(理工学社)」。これは現在に至るまで大変にお世話になっている恩師の一人、鎌田博先生が未だ大学院生のときにまとめられたという原田先生と駒嶺穆先生の共著であった。学類時代の愛読書はこれとコーンスタンプの「生化学」になった。その頃の学生実習には準研であった鎌田先生が良く来られた。実習の合間にも、一学類生の様々な質問に対して真摯にお答えくださった。

 最初に植物発生生理学研究室を訪れたのは学生実習の際。谷本静史先生の植物ホルモンの実習の最中であった。植物ホルモンのあまりに劇的な効果に驚くと共に、その仕組みが全くわかっていない不思議な現状にも呆れ、根本的なところを調べなければ発生と分化の理解には結びつかないのでは、などと質問したが、なんじゃろうねえ、と独特の暖かい笑顔にはぐらかされてしまった。植物生理学の分野では、何を聞いても判っていないことばかりだった。

 学類3年の終わりには希望通り植物発生生理学研究室に顔を出すようになった。発生と分化の中でも胚発生を研究することを希望したが、その第一人者である鎌田先生が翌年からフランスへ留学される予定であり、指導者が居ないので諦めなさいということ。それでは分化を理解するために脱分化から研究したいと原田先生にお話すると、難し過ぎるねえという。結局、米国帰りの気鋭の講師でおられた内宮博文先生のところへ、学生実習の時に元気であったからという理由で預けられ、卒業研究を開始した。この頃(1982年)の植物発生生理学研究室には、教授の原田宏先生、助教授の藤伊正先生、講師の内宮博文先生、準研の鎌田博先生、学類中央室に谷本静史先生が、大学院生としては、加藤良一さん、佐藤忍さん、宮嵜厚さん、京正晴さんが居られた。卒研生の同期としては、竹内規和君と佐藤恵美さん。竹内君は谷本先生に、佐藤さんは藤伊先生に、それぞれ師事した。研究生としては鈴木さん、企業からは大河原さん、客員の先生として加藤美恵子先生が和やかな雰囲気を醸し出していた。

 卒研の1年間はテーマが矢継ぎ早に変わる目まぐるしい1年を過ごした。始まりはイネの20種あまりの野生種の葉のタンパク質を電気泳動してRubiscoのバンドパターンを比較するというもの。内宮先生と種子を播いた日のことを鮮やかに覚えている。タンパク質のSDS-PAGEは佐藤忍先輩に教えていただいた。実験を教えていただくという学ぶ姿勢と、1回の実験をいかに完璧にこなすかという神経の配り方という、実験技術取得の根本の全てを数日の内に伝授してくださった。現在の私が実験研究者としてあるのは全くもって佐藤さんのお陰である。育てた野生イネはそれぞれが個性的であり形態そのものも面白かったが、タンパク質の電気泳動のバンドパターンは違いが見られず1ヶ月足らずで打ち切り。続いて、大腸菌のプラスミドを植物細胞プロトプラストへ取り込ませるためのpBR322の精製、タバコの体細胞融合雑種植物の葉緑体DNAの抽出とRFLP分析など次々とテーマを与えられながら、新しいテーマに懸命に追いつきながら過ごした。葉をつぶして葉緑体だけを超遠心分離機を用いて集める方法は再び佐藤先輩に習ったが、大変にエレガントで面白い仕事だった。秋にはインドからD.S.Brar博士が来日され、その実験を手伝うことになった。核型分析のスペシャリストであるということでタバコの体細胞融合雑種の核型分析をされた。インド訛の英語は難しく、しばしば筆談にもなったが、優しく真摯に接してくださり大変楽しかった。実験以外にもいろいろと、例えばベジタリアンということで珍しい食事に同行させていただいたり、神聖なるターバンの内側を見せていただいたこともあった。

 この頃の研究室旅行は、文字通り研究室全員で自家用車を連ねて出かけた。企業の研究所の見学も含む充実した内容であった。本当に仲の良い研究室であったと思う。論文が受理されたらアクセプト祭り、良いデータが出たり、進学・卒業があれば、感謝祭、というように良く懇親した。研究室の四天王というと、原田宏先生A型、藤伊正先生B型、内宮博文先生AB型、鎌田博先生O型と、血液型が全員違うように、学風も全員が異なっておりすばらしい調和を見せていた。内宮先生は大変アクティブに海外へ出かけ、新しい風を研究室に持ち帰る。帰ってくると私のテーマが新しくなったり、研究室に波が立ち、藤伊先生が調整役でバランスをとっておられるように見えた。私自身の研究はなかなか先が見えなくて、厳しい状況にあるように感じていたが、研究室に居ること自体は本当に楽しかった。朝は9時までに来ていることが求められており、藤伊先生が時計の前に座り、学生の出入りをチェックしておられた。先生は学生の一人一人に禅問答のような話をしかけ、その応答を見て問診をし、精神面を含む健康状態を把握してくださっていた。私は節目節目に幾度となく藤伊先生のオフィスを訊ね、相談に乗っていただいた。夜になると研究室は一番若い鎌田先生と学生だけの世界になる。私は自分の実験が終わった後、鎌田先生の仕事が終わるのを待っていて、植物生理の様々な問題について、質問したり教えていただいたりした。これはかけがえのない至福の時間であった。また、私は植物発生生理学研究室の学生として、ほぼ最初にDNAを扱い始めたこともあり、判らないことがあると近くの分子生物学の大島靖美先生の研究室へたびたび質問に行った。大学院生であった坂本和一先輩は親切に多くのことを教えてくださった。夜食を食べに珍来に連れて行ってくださったりしたことは懐かしい。時期が前後するが、しばらく私のトレードマークになった巨大なタンパク質二次元電気泳動装置の作成については、下田の臨海実験センターの実習で直伝してくださり、筑波大学を離れた後も親身に相談に乗ってくださった平林民雄先生に心から感謝している。この他、研究室内外の書ききれないほどの多くの先生・先輩・後輩にお世話になったことには、心から感謝している。研究室の中に留まらず広く交流することは、本当に大切なことであると思う。

 さて、卒研の1年間の最後には指導教官の内宮先生がしばらく入院されたが、私も続いて体調を崩してしまい、大学病院に緊急入院した。これは、夜9時の時計を見て、朝9時の気持ちで再び実験に取り組み、夜12時を超えるまでは帰らないような生活を続けたためであったかもしれない。余談であるが、人間は休まないと疲れが溜まる。その結果、時には一日以上眠り込む結果にもなり、結局は効率が悪いことにもなりかねない。この点では内宮先生にもご心配をかけた。夜9時を見て朝9時と考える習慣は割と最近まで続けていたが、週の真ん中に一日は早く帰宅する日を作ることなど工夫が必要であることを後年悟った。卒業研究が終わった3月には、日本育種学会で口頭発表をさせていただいた。内容は、タバコの細胞融合雑種の雑種性の検定をリボソーム遺伝子のスペーサー領域のRFLPをSouthern法により視覚化する方法についてであった。発表する機会をいただいたことは自信をつけさせていただいた。

 大学院に進学することは大学に入る前から決めていたが、進学時に内宮先生から自分でテーマを提案するようにと言われ、いくつか考えて提出した。花成誘導機構を一番に挙げたが、イネのトランスポゾンや短桿遺伝子などについて、DNAのメチル化や特異的な遺伝子発現の制御から解析することや、植物でショウジョウバエ的なモデル植物系を作ることなども入っていたが、当時の植物発生生理研究室ではできないからということで全く取り上げてはもらえなかった。結局、先生は遺伝子プロモーターのシスエレメントを決める研究をくださった。プロモーターはアグロバクテリウムが植物へ送り込む遺伝子(Nopaline synthase)のものであり、純粋に植物プロモーターではなく、世界中の多くの研究室に普遍的にあり、塩基配列を決めたグループ以外にも同じことを研究できる状況にあった。悪い予感は的中し、修士の2年目に結果が出る前に、はるかに先を行くような内容の論文を米国の研究者に出されてしまった。また、植物へ遺伝子を入れる過程で失敗を続けていたが、用いていた新規のベクターに根本的な欠損があったためであったことを数年後に知った。これらは運が悪かったとも言えるが、研究はオリジナルなことをやらなくては、世界でも誰もやらないことでなくては、と身に染みて強く思った。この経験を元に、当時ほとんど研究されなくなっていたが、植物生理学の中で重要な問題の一つである花成誘導をテーマとすることを心に固く決め、実験系の探索から始め、キュウリやルドベキアなど光周性のある植物を播いて観察するなどをした末に、最終的にアサガオを自分の実験材料と決めた。アサガオの短日性の花成誘導の実験系は、藤伊先生や谷本先生が花成ホルモンの単離を目指した研究をしておられたが、当時の国立公害研究所から短期に訪問されていた佐治光博士に教えていただきながら、花成誘導に関連する遺伝子の単離をして、花成誘導機構に迫ると共に、関連する遺伝子のプロモーターの研究を行いたいという途方もない計画を立てたのである。内宮先生が助教授として独立されたのを機会に原田先生の直属の大学院生にしていただいた。しかし、アサガオを分子レベルで研究することは、当初は原田先生を始め、全ての先生が反対された。それでも私の決意は固く、同級生でショウジョウバエの部屋でがんばっていた小林悟君(現、基礎生物学研究所)に相談して賛同を得るなど、周囲をなんとか説得し、原田先生にも最後には認めていただいた。

 アサガオの花成の研究は、照明付きの栽培棚や、暗処理用の箱、二次元電気泳動装置の製作や、基本的な実験系の確立から始めなければならず、データはなかなか出なくなってしまったが、私にとっては最も愉しい日々であった。その頃、遺伝子実験センターを作って鎌田先生は自らの研究室を作られた(石川恵子さんや猪口雅彦君が当時のことを書いてくれることだろう)。私の世代の頃からは学生や企業からの研究員の数が劇的に増加し、(一人一人のお名前を書けなくなってしまった。本当に数多くの輝かしい人達が卒業して現在も各界で活躍していることは誇らしいことであると思う)植物発生生理学研究室は満員に近い状態になり、各人に実験台を与えることが難しくなった。そのため、研究に主に用いる技術で学生を3グループに分け、実験台を3つの大きな共通実験台とした。タンパク質グループ長が佐藤忍さん、低分子グループ(ホルモンやエリシター)長が宮嵜厚さん、核酸グループ長が最年少の私であった。このシステムは当時としては画期的であった。また、「研究室バイブル」、研究室に所属する心構えから生活態度、機器の使用法までを記した冊子が編纂された。これは現在でも改訂を重ねて新人教育に用いられている。

 その後、大学院4年(後期2年)の初夏(1987年)に突然、信州大学で助手を募集しているから行かないかという、晴天の霹靂ともいうべき原田先生からのお話があるまで、短かったけれど幸福な大学院生としての研究生活が続いた。助手としての就職は、海外留学を希望していた私の理想からかけ離れていたが、花成誘導の研究は時間がかかるものであるから、じっくりと腰を落ち着けてやりなさいという意味であろうというように前向きに考えて、受けることにした。この頃(1987年3月)にNHKの「趣味の園芸」に連載されていた原田先生は、「花芽分化の謎」の中で「そこで最近は全く異なる方向からの研究が始められています。それは、花芽分化を引き起こすのに関係していると考えられる一連の酵素などの遺伝子を一つ一つ全部はっきりさせようとする考えです。この方法にも困難な点は多々ありますが、問題の重要性を考えたときには、どんなに苦労が多くても実行する価値があると思います。意外とこちらの道を行く方が,花芽分化機構の謎解きには早道なのかもしれません。皆さんにもこの分野の研究の進展を見ていていただければと思います。」と書いてくださった。感激した。研究室を去る前にはお別れ会を開いていただいた。私はお別れの挨拶代わりにフルートで数曲を吹かせていただいた。バッハの節には思いがこもった(1987年9月)。その後13年余の年月を経て再び筑波大学へ戻ることになるまで、実に様々なことがあったのだが、私自身の遍歴は本稿の主題である研究室の回顧録にはならないので省略する。

 2001年に植物発生生理学研究室に助教授として戻ることができたが、これは全く予想していなかっただけに運命的に感じている。遺伝子組換え植物に対する環境影響評価をしたり、遺伝子組換えに対する国民的な理解をすすめることを目的として遺伝子実験センターが改組され、目的を持った業務を持つスタッフが公募された。40代になり地球に恩返しする年代になったことを自覚し始めていた私は、これらの業務と研究室の伝統の継承のために残りの人生を捧げることを決意して戻った。初心を忘れることなく努力したい。なお、改組された建物や実験環境は、東克己さんと小野公代さんが研究の時間を割いて整えてくださったものであり、心から感謝している。これ以降の最近のことは他の方が中心に書かれるということであり、お譲りしたい。

 1987年から2001年の間、原田先生や藤伊先生のご退官やご受賞、研究室の周年などのお祝いというすばらしい日も多数あったが、忘れずに書いておきたいこととしては、原田先生、藤伊先生、鎌田先生と共に、フランスを訪問する機会を得たことである。初めて踏んだフランスの地は懐かしいほどに親しみがあった。原田先生は先頭に立って歩かれ、その後ろ姿は本当に嬉しそうであった。私はフランスの流れをもつ植物発生生理学研究室のルーツを見聞して、背筋に一本、柱が通ったように感じた。大きな自信になった。紹介された研究者には原田先生の弟子であるということもあるのだろう、優しく真摯に迎えていただいて、パリ、アミアン、ストラスブール、ペルピニョンなど、いずこにおいても、科学する者として足りなかったものを手に入れるために来たのだと、心の底から感動するような出会いがあった。原田先生が所長をされていたパリの多細胞生理研究所はすばらしかったし、アミアンのSangwan博士夫妻は原田先生のフランスにおける最後のお弟子さんであり強い絆を感じた。パリで最後の半日の自由時間をいただいたので、私は一人で新都心のラ・デファンス(新凱旋門)を訪ねた。ただの白い四角といえばそれまでであるが、伝統を超えて若々しく発展を続けるフランスの真の姿を見た思いがし、非常に感銘を受けた。「我々は伝統を超えて若々しく発展を続けなければならぬ」と肝に銘じた。

(助教授、1987年生物科学研究科中退)

Communicated by Shinobu Satoh, Received June 12, 2006. Revised version received July 7, 2006.

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