つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200606ST.

特集:筑波大学植物発生生理学研究室の歩み

昔は? 今は?

谷本 靜史 (佐賀大学 農学部)

♪上野発の鈍行列車降りた時から〜土浦駅は風の中

 東京山の手に生まれ育った私にとって、上野はあまり馴染みのない所であった(動物園以外は)。1975年春、その上野発の常磐線の列車(電車ではありません!)に揺られて1時間以上、ようやく土浦駅に辿り着いた。筑波降ろしの冷風が吹き、雨まで降りはじめていた。駅前の殺風景なバス乗り場をうろつき、筑波大へ向かうバスを探す。わからない。おばちゃんに尋ねる。「××××だっぺ ××××ねえーの」なにを云っているのか全くわからない。茨城県は関東だと思っていたが、東北だったのか? そこへ、「筑波大学西」と表示された関鉄バスがやってきた。ヤレヤレ。しかしそのバスがなかなか発車しない。ヤキモキヤキモキ。すでにこの時点で、私の頭の中には暗雲がたちこめはじめていた。ようやくバスが発車する。周囲はあっというまにドイナカとなる。ヤレヤレ。30分後、バスが筑波大学西に到着した。バスから降りると足が泥に埋まった。この日、私は初出勤の日なのである。ほとんど着たこともない背広と革靴。その靴は足首まで泥に埋まっていた。前方を観ると、異様なビルが二つだけ建っている。他には何もない。本当に何もない。しかもそのビルまでは延々と泥道が続く。繰返すが、この日、私は初出勤の日であり、これから原田先生のもとを訪れる日なのである。泥塗れになってビルに着く。体芸中央棟という標識がある。確か、先生はこの建物にいるといわれていたはずだ。建物に入り、エレベーターに乗り、やっと先生に辿り着く。先生はなんと長靴を履いていた。開口一番、「谷本君、筑波では長靴と懐中電灯が必需品ですよ」。それがその後約10年にわたる私の筑波暮らしの初日であった。

 『筑波大学』と聞いて、今の学生諸君はどのようなイメージを持つのだろうか? 広大なキャンパスに林立するビル群、最先端の機器が整備され、優秀な教授陣が揃っており、・・・・。しかし当時はそんな所ではなかった。何もなかった。本当に何もなかった。ないったらないのだ! まず原田先生にまかされたのが、培養室を創ること。創るんだよ! 買うんじゃないよ! クーラーとアングルとベニヤ板と発泡スチロールと蛍光灯が準備されていて、それでおよそ10畳ほどの培養室を創るのである。創ったよ! 創りましたよ! しかし、私は、この培養室をその後何回分解し、さらに組み立てる作業をすることになるか、全く思ってもいなかった。体芸中央棟から体育学系棟へ、体育学系棟から地球科学学系棟へ(リヤカーで)、地球科学学系棟から第一学群棟へ、第一学群棟から第二学群棟へ(またしてもリヤカーで!)、第二学群棟の中でも2回。次は植物の組織培養である。クリーンベンチは体芸中央棟の1階に置いてあった。150 kg以上はあるが、人力で運ぶしかない。技官や院生諸君に協力をお願いし、階段を持ち上げ、転がし、さらに階段を持ち上げ、2時間かけて体育学系棟の3階にある実験室まで運んだ。そんなぐあいに当時のことを思い出していると、様々な情景が浮かび上がってくるが、まあ、こんなところとしよう。泥塗れの日々の中で、多くの技官、院生、事務官に助けられた。原、小幡、萩原、鎌田、鈴木、今村といった方々である。吾妻にあった(今もあるのかな?)独身宿舎の原さんの部屋での夜のヒトトキも思い出す。何しろ、近辺に酒屋がなかったから、土浦で買い出してきた酒とつまみで宴会をしたものである。誰もが紅一点の萩原さん(久美ちゃん)の横に座りたがったのも思い出す。

 私の研究テーマは『In vitroでの不定芽分化と花芽形成の解析』だった。トレニアという植物の茎切片を培養すると、不定芽から発達した小植物体に花芽が形成される。不定芽分化の初期過程と花芽形成について、培地中の窒素の濃度や種類、糖の濃度や種類、各種植物ホルモン、外植片の生理的状態、といったものの影響を調べた。毎日千本の培養菅に切片を置床することを自らに課した。結果は1週間後にでる。つまり、毎日、千本の培地を作り、千本に植え込み、千本を観察し、千本を洗う。その繰り返しである。1週間で6千本分のデータが溜まり、論文を次々と発表し、博士号も取得することができた。今から思い起こしてみると、かなり充実した日々であった。

 その頃、藤伊先生が赴任してこられ、さらに加藤、堀、京、佐藤(忍)、佐藤(恵美)といった院生がやってきて、植物発生生理学研究室は拡大していった。他の研究室から気狂い部落と云われるようになったのもこの頃のことである。何故かは不明である。私は、研究室のメンバーが気狂いじみて実験をするせいだと前向きに思っていたが、そうではなく、誰か(?)のせいかもしれない。

 筑波での最後の頃は、アサガオを用いた花成誘導物質の検索を始めていた。このテーマは、本来は原田先生が非常に関心をもたれていたものであり、先生は、茎頂培養系を実験系とすることを提唱されていた。私は短日処理子葉から採取した篩管液を茎頂培養に与えて活性を調べはじめた。このテーマは、その後現在に至るまで私の主要なテーマの一つである。筑波を去ったのは1984年のことであった。

♪東京発の夜行列車降りた時から〜

 さて、佐賀に移ってからのことにも触れておこう。皆さんは佐賀に来られたことがおありだろうか? いやあっ いい処ですよ。まず空が広い。筑波なみに広い。建物が低いのでなおさら目立つ。自転車が多い。筑波なみに多い。平坦である、車では渋滞に巻きこまれる、バスはほとんど定刻に来ない、などなどの理由であろう。食べ物がおいしい。柔らかく味のいい伊万里牛(ステーキでも刺身でもOK)、玄界灘の身の引き締まった魚、イカの刺身(こちらではイカの刺身は透明で、うごめいている)、竹崎ガニ、伊勢エビ(これは五島から送られてくる)、筑後川の天然ウナギ、海苔(有明海は日本1の産地)、トンコツラーメン(隣の久留米が発祥の地)、佐賀マンダリン(東京では高野などでしか売っていないミカン)、ナシ、イチゴなどなど。お酒も旨い。アサヒ、キリン、サッポロのビール工場が近くにあるせいか、ビールが新鮮。また、地ビールも各所にある。日本酒は水と米がいいせいか、辛口でまろやか。さらに焼酎、ヒシの実から作った菱娘なんてのもある。ナシから作ったナシワインもなかなか。温泉も随所にある。何しろ佐賀駅から徒歩5分のところにも温泉がある。私は自宅の風呂にはほとんど入ったことがない。

 佐賀大の農学部に所属している。始めの頃はともかく、最近では歳をとったせいか、あれこれと役職につけさせられている。唐津にある全学センターのセンター長、学科長、連合大学院に加わっているので、その代議委員、○○委員長、△△委員長、などなど。1日に平均4回は会議がある。しかし、このような雑用(?)のさなかでも実験はしている。さすがに筑波時代ほどではないが。

 現在の研究テーマの第一は、昔からやっている『アサガオ茎頂培養による花成制御物質の単離・同定』である。子葉篩管液に含まれる花成誘導物質と阻害物質を精製している。なんとか今年中には構造が明らかになるのではないかと期待している。第二は、『塩生植物シチメンソウの耐塩性機構の解析』である。海水以外に水分のない有明海の干潟にはえているシチメンソウは、強い耐塩性を持っている。その耐塩性の維持機構を明らかにし、そこで働く酵素群の遺伝子を単離した。今はそれらの遺伝子の発現制御機構を調べている。第三は、『バラのトゲ硬化機構の解析』である。バラのトゲが硬くなるのは、蓄積したリグニンによること、先端部で硬化時に特異的な数種のポリペプチドが出現すること等を明らかにしてきた。現在はそれらのポリペプチドの遺伝子の単離を目指している。さらに、『ヒマワリの向日性運動の解析』とか、『シチメンソウによる干拓地の除塩』とか、『ユリへのNHX遺伝子導入による青ユリの作出』とか、『シチメンソウの耐塩性維持遺伝子導入による耐塩性小麦の作出』とか、いやにテーマが多すぎるようにも思うが・・・。

 研究室の教員は私一人であるので、4名の大学院生と、8名の学部生と共に、実験し、ディスカッションし、途中で会議に出、ビールを呑みながら会議資料を作り、また実験し、合間に講義をし、会議に出、またビールを呑み、ディスカッションし、実験し、いつのまにか夜となり、近くの呑み屋に場所を移し、呑み喰いしながらディスカッションし、夜更けて帰宅し、すぐに寝、朝は6時に起き、犬の散歩をし、7時半には大学に着き、実験し、ディスカッションし、途中で会議に出、一息いれてビールを呑み、また実験し、合間に講義をし、またビールを呑み、ディスカッションし、いつのまにか夜となり・・・・という日々を繰返している。

 そろそろ定年まであとわずかという歳になって、筑波時代を憶い出すと、懐かしい気持ちはもちろんだが、あのような充実した毎日を送らせていただいた原田先生はじめ、多くの皆様に感謝の気持ちでいっぱいである。当時のことを覚えている方で、未だに筑波大におられるのは、鎌田、佐藤両教授のみであるというのも、何か寂しい気もするが。今後の植物発生生理学研究室のますますの発展を祈念して筆をおくこととする。

(1984年転出)

Communicated by Shinobu Satoh, Received June 12, 2006.

©2006 筑波大学生物学類