つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200606TM.

特集:筑波大学植物発生生理学研究室の歩み

痛い目にあうことの良し悪し

溝口  剛 (筑波大学 生命環境科学研究科)

 本学に着任して4年が過ぎた。大学という職場のシステムに慣れるために奮闘した月日は、振返ってみると大変長くもあり、短くも感じられる。生物のもつ周期的応答機構に興味を持ち、研究を実施している。主に長日植物シロイヌナズナと中性植物トマトを用いて、光周性・概日リズム・形態形成に関する分子遺伝学的研究を行っている。自己紹介も兼ねて、自身の略歴を下記に示させて頂く。

1987年:筑波大学第二学群生物学類入学
1991年:同卒業・筑波大学大学院生物科学研究科入学
1995年:同修了・理化学研究所基礎科学特別研究員
1997年:理化学研究所研究員
1999年〜2001年:HFSP Long-term fellow(英国John Innes Centre)
2002年3月〜:現職(筑波大学遺伝子実験センター講師)

 本学の植物発生生理学研究室の原田宏教授(現名誉教授)の卒研生として、研究をスタートしたのが17年前になる。ただし、実際には、これ以降も本学で研究をしたことはなく、学部研究、修士研究、博士研究の全てを、理化学研究所つくばライフサイエンスセンター植物分子生物学研究室(篠崎一雄主任研究員)で実施した。植物発生生理学研究室の教員・諸先輩方・同僚の方々からは、セミナーを通じて大変お世話になった。藤伊先生をはじめ諸先生方から、理研内での議論とは異なる視点から、多くの有意義なご助言を頂いたのを記憶している。本学は研究学園都市つくばにあり、周囲には世界の第一線での研究を実施している研究機関が数多く存在する。連携大学院制度は、この点をうまく活用したものである。

 上記に著者の略歴をあげた、一見平凡かつまっすぐな経歴であるが、その中身はやや複雑である。本学の学生が学位を取得し、研究職を得るまでの1例として、何かの参考にして頂ければ幸いである。著者が大学院1年次の頃、家庭の経済状況が不安定になり、自身の生活費・学費・入院中の家族の医療費を負担することとなった。この文章を目にする学部生・大学院生の中にも、同様の経験をもつ方がいるかもしれない。大学院生としての研究を実施させて頂きながら、週7回程度でアルバイトを行った。塾講師、家庭教師、実験補助、テニスのインストラクター、漬け物屋でのハクサイ/キュウリの下ごしらえなど多岐にわたる。大学院生として研究を継続させて頂くことが困難であると判断し、博士前期課程2年/後期課程1年次に就職活動を行った。当時はバブル崩壊後間もなく、国内はいわゆる不況の中にあった。当時としては不幸にも、現在振返ってみれば幸運にも、1社からも採用の通知は頂けなかった。そもそも採用枠がないというのが理由であった。そもそもそういう状況で通過する能力が自分にはない。それは大変よく分かった。

 ある日、その日の3つ目のバイトである漬け物屋のアルバイトを深夜の2時に終了し、車で帰宅する途中、道路脇の白い鉄柱に正面衝突した。街灯や対向車がなく、深夜の暗い道で、ポールの存在に気がつくのが遅れた。ぶつかるのは分かったが、ブレーキを踏むタイミングが少々遅れた。「研究は楽しいが、バイトは少々つらいな」。「バタバタしてもダメなものはダメだろう」。というのが、深夜に白い鉄柱と、くの字に凹んだバンパーを眺めながら到達した結論である。周囲から見れば異様な光景であろうが、幸い深夜で、通行人や通行車はない。多忙の中、より良い方法を考える余裕がなくなっていたが、白いポールに止められ、冷静に自身の現状を考えた。痛い目にあうことで、学ぶことは多い。少し気分も晴れ、実験をするスピードと論文を書くスピードが少し早くなった。

 私は自身のアイデアにそって実験をすること、自身の考えをまとめ論文を書くことが好きである。学生の時も今もそれは変わらない。今は自身の手で実験を行う時間は限られている。最初に結果を目にすることができる学生・ポスドクの方々を時々とても羨ましく思う。当時、アルバイトの合間に研究に従事できたことは大変刺激的で、幸運であった。就職がない中、研究論文をまとめる機会も頂き、第44条適用による早期学位取得の可能性についてスーパーバイザーの1人鎌田先生から連絡を頂いたのが、後期課程1年次(当時でいう一貫性のD3)の12月頃だったと記憶している。明確な条件はないが、筆頭5報/総数10報の英文原著論文の発表と海外での学会発表経験などが査定の項目で、翌年の6月の時点でこの条件を満たしていれば、検討して頂けるとのことであった。白いポールにぶつかってから、奨学金を頂く機会に恵まれ、アルバイトの数を減らすことができた。1日の多くの時間を自身の研究に使える環境が得られたことは幸運であった。9月に予備審査会を受け、翌年3月に博士号を頂いた。この間、理化学研究所の基礎科学特別研究員と学術振興会の博士研究員の採用通知を頂いた。他大学の助手と国立研究所の研究員のポジションへのオファーも頂いた。1年前に1社からも採用通知を頂けなかった自分と中身・実力は変わらない。博士号取得の機会を頂いたことに感謝している。

 英国での2年間は、自身の研究の方向性を熟考するよい期間であった。一方で、母国語以外の言語で生活するのはかなりきつい。電気をひくのも、水の開栓を依頼するのもほとんど電話による。相手の顔が見えず、紙に書いて説明することもできない。もちろん相手の言っていることはさっぱり分からない。某ハンバーガーショップに行った。目の前にハンバーガーの大きな写真があり、写真には飲み物とポテトが横に並んでいる。日本でも見慣れたセットメニューで、2ポンドと値段まで横に書いてある。相手が何を言っていようが、メニューを指差し、2ポンドを払えば、ハンバーガーセットは難なくこちらのものだと考えた。しかし、現実はそんなにあまくない。店員が当然のように何かを聞いてきた。「Black or White?」。さまざまな思いが頭の中をかけめぐった。このシチュエーションで、この質問、思い当たることは何もない。列の後ろは早くしろと言わんばかりで、店員も何回か同じ質問を繰り返して諦めた。数ヶ月後には学習し、同じ質問に「White, please」と言って、コーヒーをミルク付きで受け取る。別の言い方で聞いてくれれば、こちらも分かるかもしれないのにと思うことが多々あった。外国人登録の件で、City hallにかけた電話での応答で、こちらが分からないというと、先方は電話口で、全く同じ文章をゆっくり何度も繰り返す。何を発音しているかは分かる。分からないのは質問の意味である。

 帰国して、大学研究室のセミナーでも似た状況をときどき目にする。大学院生が発表に対して質問をする。質問された側は、意図が読み取れず、分からないというゼスチャーをする。するとさきほどの大学院生はまた同じ質問を同様の文章で繰り返し、当然演者はやっぱり質問の意図が分からない。

 痛い目にあわないと、気がつかないことは多い。海外では痛い目に多くあった。その分、適応能力が高まった。ラボの関係者には、出来るだけ早く痛い目にあうことを薦めている。今、ドイツに一人、アメリカに1人、痛い目にあいに行っている。どれだけ痛い目にあったか、話を聞くのが楽しみである。

 これから研究室に入り、卒業研究を始めようと考えている方々は、自分がやりたいことは決まりましたか?大学院で博士研究を行っている方々は、日々の研究を楽しんでいますか?自身の希望する就職を見つけることはできそうですか?時には少し立ち止まって、良く考えてみるのも良いかもしれません。時には痛い目にあうことも良いかもしれません。

(講師、1995年生物科学研究科修了)

Communicated by Shinobu Satoh, Received June 12, 2006.

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