つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200606TW.

特集:筑波大学植物発生生理学研究室の歩み

科学と社会の間で思うこと
─遺伝子組換え食品の場合─

渡邉 敬浩 (国立医薬品食品衛生研究所)

 私の知る限りにおいても、植物発生生理学研究室を巣立たれた多くの諸先輩方が、それぞれの領域において活躍されておられます。そのような系譜の末席に身を置く私が本稿を書かせていただいているのは、私の携わる仕事が社会的に鑑みて、まさしく「今」の仕事であるからだと思います。ですから、すこしだけ私の仕事について紹介させて頂き、また、その仕事を通じて考えるようになった事柄について駄文を連ねさせて頂ければと思います。

 読者の方々は「遺伝子組換え食品」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。2000年を前後して様々な報道が多数されましたので、「なんだかよくわからないけれど、危ない食品」という印象をお持ちの方がおられるかもしれません。最近では報道される機会こそ減りましたが、スーパーマーケットに買い物にでかければ「遺伝子組換え○○不使用」といった表示をあちらこちらで目にすることができますし、電車の中吊り広告などにも思い出したかのようにセンセーショナルなタイトルがおどります。

 では、遺伝子組換え食品とはいったいなんでしょうか。少し長いですが、正確かつ科学的に言い換えれば、「組換えDNA技術を用いて有用形質を新たに付与した作物(動物)を原材料に製造される食品」ということになります。厚生労働省が所管する食品衛生法においては「組換えDNA技術応用食品」と呼ばれています。1997年に本格的な商業栽培が開始されて以降、2006年の現在に至るまで、実際に流通している遺伝子組換え食品は全て植物性の食品ですから、現時点では「遺伝子組換え食品=遺伝子組換え作物」の図式が成り立ちます(遺伝子組換え添加物というものもありますが、ここではその性質上、食品とは区別しています)。

 遺伝子組換え食品の流通に必要な手続きについては法律に規定されており、申請者はまず、厚生労働省に流通を求める申請書を提出します。申請を受理した厚生労働省は、内閣府に組織されている食品安全委員会に審査を依頼します。食品安全委員会では、毒性、アレルゲン性、その他の成分の変化といった多数の項目について、膨大な科学的データに基づいた審査が専門家によって行われます。その結果、「現在の科学的知見に基づく限り既存の食品と比べても安全性に問題があるとは判断されない」という結論が報告された場合にのみ、厚生労働省は流通を許可します。わかりにくくなってしまったかもしれないので要約しますと、科学的データに基づいた厳密な審査を通過しない限り、遺伝子組換え食品が流通することは法律上あり得ないと言うことです。この審査は通常、遺伝子組換え食品の「安全性審査」と呼ばれます。

 安全性審査を終了し、流通可能な状態にある遺伝子組換え食品としては、大豆、トウモロコシ、綿、ナタネ、ジャガイモ、パパイヤ等の作物種に、除草剤や害虫に対する抵抗性を付与した、50を超える品目を挙げることができます。このような遺伝子組換え食品が開発されたことにより、生産性が向上するとともに管理が容易になり、また農薬使用量の削減を介して環境にも優しい農業が可能になっていると考えられています。現在開発が進められている遺伝子組換え食品としては、コメやコムギが主要な作物種として挙げられ、形質としては栄養成分を改変した作物、干ばつに強い作物などが挙げられます。また、食品として考えることができるかについては議論が残るところだと思うのですが、薬用成分を蓄積させることを目的とした作物の開発や、魚といった動物性の遺伝子組換え食品の開発に関する研究も進められています。さらに、明らかに食品とすることを目的にはしていませんが、バイオディーゼルと呼ばれる次世代エネルギーに代表されるような工業資源の生産と確保を目的とした研究や、環境を浄化させることを目的とした開発研究も精力的に進められています。しかし、現時点では、上に書かせて頂いたようなすでに流通している遺伝子組換え食品および、商品化の明確なビジョンに沿って開発の進められている遺伝子組換え作物の全てが海外の企業、研究機関によるものであると言っても過言ではない状況にあると思います。

 前置きが長くなりました。私が携わっている仕事について少しご紹介させて頂きます。これまでに書かせて頂いた内容をお読み頂ければ、「遺伝子組換え食品に係わる仕事なんだろうなあ」、ということはわかって頂けるかと思います。具体的には、遺伝子組換え食品の安全性の評価と、流通や表示内容を確認する上で重要なトレーサビリティーを担保するために必要となる検知技術の開発と評価、標準化、管理が現在の主な仕事です。検知技術とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、簡単に言えば、「ある製品の中に遺伝子組換え作物が含まれているか否かを明らかにし、もし含まれている場合には、どのくらいの量が含まれているのかを定めるための技術」ということです。また、この技術を運用して得られる結果によっては大きな経済的損失が生じ、時には国際的な係争に至る場合も考えられますので、誰が運用しても正しい結果が得られるよう標準化し、管理していくこともまた大切な仕事です。さらに、遺伝子組換え食品は日本だけの問題ではなく、各国の置かれた状況によって多様な側面をもつ問題であるため、世界的な調和を目指して議論を組み立てていくことも重要であると思います。

 さて、植物発生生理学研究室に席を置かせて頂いていた頃、私は先生方を始め諸先輩方にも恵まれ、植物の不思議に心惹かれるまま、知の探求に向けてとても充実した時間を過ごしていました。今思えば、私が現在携わっている仕事は時を同じくして萌芽していたのだと思います。今でも良く覚えている2つの事柄があり、一つは傷みにくい遺伝子組換えトマト「フレイバーセイバー」がテレビで大々的に取り上げられていたことと、もう一つは、先生が「豆腐からDNAを抽出するんだよ」と何かの折りにお話しされていたことでした。私の院生時代の研究テーマが植物ホルモンの一種であるエチレンであり、フレイバーセイバーに付与された傷みにくいという形質がエチレンと密接に関わっていたことから、この遺伝子組換えトマトのニュースを聞いたときには、自分の夢が叶ったような身近な喜びを覚えたものでした。また、「豆腐からDNAを抽出」のお話を伺ったときには、「そんなことできるのか?不思議なことをする研究があるものだ」と衝撃を受けたことを覚えています。植物の不思議に惹かれ、知の探求のおもしろさとその結実に夢を描いていた私は、そのような中で一つの疑問をいただくようになりました。「私の研究は、いったい誰に望まれ、誰の役に立つのだろう」。

 私は今携わっている仕事を、科学と社会を結ぶための仕事だと考えています。研究者にとっては箸も同然の技術、鳥が空を飛ぶほどの必然であっても、社会にとっては恐怖の技術、絶対に解くことのできない謎であったりすることもあります。特に、社会の万人にとっての利益が見えにくいものについては、その傾向が強くなるようです。遺伝子組換え食品はある意味において、植物の不思議に魅せられた人々にとっての最終的なアウトプットの一つのはずだと思います。しかし、アウトプットするために必要な作業をおろそかにすると、社会はそれを受け入れてはくれません。社会的受容をなしえることは、科学が社会の中で構築される知の体系であることからも、それに携わる研究者にとっておろそかにすることのできない大事な「科学の一部」だと思います。教育や情報提供、積極的な対話など、その方策はいくつもあるでしょう。私の携わっている仕事同様、「今」だからこそ研究者に強く求められる使命のようにも感じます。このような観点から眺めてみると、残念ながら遺伝子組換え食品をめぐる現在の状況は、必ずしも望ましい状況にはないというのが私の見解です。悲観的な言い方をすれば、この状況が深刻化することで完全にアウトプットを失い、日本の中では、植物に素直な夢を描けなくなる時がくるのではないかという恐れすら覚えています。

 偉そうなことを書いてしまいました。しかし、植物生理学を学んだ私が今の仕事を通じて抱くに至った率直な意見です。同じような意識に基づいてのことだと思いますが、最近、植物の科学を社会に知ってもらうことを目的とした活動が活発になってきており、携わっておられる先生方のご尽力には頭が下がる思いです。いつの日か、その活動が結実し、社会全体が植物の夢を共有できる日がくることを、私は私の場所から支えていければと思います。その時には、失職するのかもしれませんが。

 末筆ですが、私が現在携わっているような仕事がこの世の中にあることを知って頂き、そこを入り口に、いわば私とは逆向きに、植物の科学への興味を培って頂けるような事がありましたら、それ以上にうれしいことはありません。
 なお、本稿にかかれた内容は、私の個人的見解を多々含むことをお断りさせて頂きます。

 (2001年生物科学研究科修了)

Communicated by Shinobu Satoh, Received June 12, 2006.

©2006 筑波大学生物学類