つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2007) 6: TJB200701200310736

鍋田湾の一次生産に対する森林起源物質の影響

岩崎 有華 (筑波大学 生物学類 4年)  指導教員:濱 健夫 (筑波大学 生命環境科学研究科)

●はじめに
 沿岸海域は海洋生態系の中でも高い生産性を示す環境の一つである。 その要因の一つとして、陸域から沿岸海域への陸水流入に伴う陸上起源物質の海洋への供給が挙げられる。 植物プランクトンの生産を高める陸上起源物質として主に考えられるのは栄養塩類であるが、陸上植物のリターから生成される腐植物質 という高分子有機物も生産を高めるという報告がある(Prakash et al., 1973など)。古くから「魚付林」といった言葉に表される ように、沿岸の森林が沿岸海域の豊かな生産性を生むと考えられており、近年、漁場環境悪化などの問題を受け、森と海のつながりに ついて再び関心が集まっている。しかし、前述した報告はいずれも実験室内での研究結果であり、実際の現場を対象とした森林と海洋の 物質循環的なつながりに関しての研究例は非常に少ない。そこで本研究では、静岡県下田市鍋田湾沿岸域を対象とし、 沿岸の森林環境から湾内へ流入する陸水が、海洋の主な一次生産者である植物プランクトンの生産性にどれだけ影響するか、植物プランク トンの培養実験を通して明らかにする事を目的とした。また、生産を促進させる森林起源物質として栄養塩類と腐植物質に焦点を当て、 生産促進効果に対するそれぞれの寄与の程度を評価することを目的とした。

●方法
 実験は2005年7月、9月、11月に筑波大学下田臨海実験センターにて行った。
1)滲出水添加実験(7月、9月)
 添加する陸水試料として、センター前に広がる鍋田湾の西岸(狼煙崎)に多数存在する、森林からの滲出水 が溜まったくぼ地からバケツで採水した。滲出水は粒子状物質を除くためにガラス繊維ろ紙 (GF/F、孔径0.7μm)でろ過し、ろ液を得た。
2)滲出水分画添加実験(11月)
 9月に得た滲出水を、限外ろ過器を用いて画分@Aに、脱塩機を用いて画分Bに分画し、この3画分を添加用試料とした。 画分@:1kDa以上のほぼ有機物のみを含む画分、画分A:1kDa以下の有機物、栄養塩類、微量元素を含む画分、画分B: ほぼ栄養塩類と微量元素のみを含む画分。
 実験1)、2)とも生産量の測定は13Cトレーサー法(Hama et al., 1983)を用いた。500mlのポリカーボネート 瓶に植物プランクトン群集を含む鍋田湾海水を入れ、この海水に対して上記の試料を体積比で0%、1%、10% となるように添加した。その後13CトレーサーとしてNaH13CO3を添加した。培養瓶を 実験センター内野外水槽に入れ、24、48、72時間後にそれぞれの添加濃度の培養試料を回収した。試料はGF/Fフィルター でろ過し、元素分析計/質量分析計により有機炭素量、同位体比を測定し、生産量を算出した。
 また、栄養塩と腐植物質について、それぞれの生産量への寄与の程度を推測するために、滲出水試料と培地海水について 栄養塩濃度を比色定量により、腐植物質量を三次元蛍光光度計により測定した。

●結果
 添加した滲出水には季節を通して、鍋田湾海水と比較して、高濃度の栄養塩と腐植物質が存在していた。 実験1)においては、植物プランクトン生産量は滲出水の添加量が大きくなるほど高い値を示した。各添加量における生産量は 24時間培養条件でコントロール(0%:滲出水添加量)の、0.98‐1.23倍(1%)、1.14‐1.79倍(10%)、48時間で1.04‐1.27倍(1%)、 1.20‐1.53倍(10%)、72時間で1.05‐1.12倍(1%)、1.22‐3.44倍(10%)となった。実験2)においては、画分@を添加した区では、 いずれの添加濃度も生産量はコントロールと有意な差が見られないか、またはそれ以下となった。画分Aを添加した区では 添加量が10%の時、いずれの培養時間でも生産量はコントロールより有意に大きくなった。画分Bを添加した区では、72時間の時のみ平均値としてコントロールより大きくなったが、 有意な差は認められなかった。

●考察
 実験1)で、滲出水の添加量が大きくなるにつれて植物プランクトンの生産量が増加したことから、鍋田湾沿岸からの滲出水 にはその添加量に応じて植物プランクトンの生産を高める効果があることが示された。実験2)で、腐植物質を含む1kDa以上の有機物のみ から成る画分(画分@)を添加しても生産促進効果が見られない事から、腐植物質それ自体が植物プランクトンの生産を促進する効果は 小さい事が示された。また、栄養塩を高濃度に含み、腐植物質が比較的多量に含まれる画分(画分A)と、 腐植物質がほとんど存在しない画分(画分B)を添加した区について、平均値で見ると、24時間の時点では両者に有意な差は無いが、48時間以降 では画分Aの方が生産量が大きくなる傾向にあった。これは、画分Aでは腐植物質が栄養塩類や微量金属類など他の生産促進因子と共存する事 によって、それら因子の生物利用性を高め生産を促進する働き(Sunda et al.,1982等)が現れている可能性が考えられる。以上より、 滲出水の生産促進効果に関して、腐植物質と他の成分(栄養塩、微量金属量など)のどちらの寄与も無視できない程度である事が示唆された。
 鍋田湾では比較的強い降雨(おおよそ50mm以上)があると、森林から崖伝いに滝のように陸水が流出する事が知られている。 この流出水には培養実験に用いた滲出水と同じく高濃度の栄養塩(窒素、ケイ素)と腐植物質が存在することを確認しており、降雨に伴って 大量の森林起源物質が鍋田湾へ供給されると考えられる。降雨に伴い鍋田湾に海水の一割に相当する量の淡水が流入し、更にその五割が森林からの流入水だったと仮定すると、 本実験結果からみて24時間後には1.5倍程度に生産量が促進される事になる。降雨に伴う鍋田湾沿岸の森林から海洋への陸水流入は 少なからず沿岸の一次生産に影響していると考えられる。


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