海洋に存在する脂質の安定性と脂肪酸組成

                          手塚 理英  指導教官 濱 健夫

【目的】

海洋環境において、有機物の存在量や変化量は、物質循環を探る手がかりとなり得る。特に、これらを検討するときに重要なのは有機物の生物学的、化学的安定性の違いであると考えられる。代表的な有機物のひとつである脂質は生体膜や貯蔵性成分として生体を構成する重要な役割を果たしている。脂質の基本成分のひとつである脂肪酸は有機物の起源の指標として有効であり、脂肪酸組成を中心とした研究がこれまでに多くなされている。Hama(1996,1998)は13C/GC/MS法により懸濁態脂質と、光合成産物の両者の脂肪酸組成を比較することにより、植物プランクトン由来の脂肪酸と非植物プランクトン由来の脂肪酸を判別することを試みた。PUFAは光合成産物において寄与が高く、主に植物プランクトン中に存在していることが示唆された。これはPUFAが分解されやすいためと考えられている。つまりPUFAは非生物粒子の脂質成分としては少なく、他の安定なSFAやMUFAが非生物粒子の脂質を構成していると考えられている。このように脂質の脂肪酸組成を通して、有機物の起源とともに、その『新鮮さ』について有用な情報を得ることができる。またSFAのひとつである18:0については植物プランクトンの寄与は少なく、主に非植物プランクトン脂質の成分として存在していることも示唆されており、これは18:0を含む脂質が安定な性質を持つためと考えられている。しかし脂質の分解過程を通して脂肪酸組成の変化を実験的に確かめた研究はこれまでに報告されていない。このため本研究では6ヶ月間に渡る分解実験により脂肪酸組成と脂質の安定性の関係を明らかにすることを目的とした。また、本研究では溶存態脂質中の脂肪酸についても同様な検討を行った。

【実験方法】

東京水産大学練習船「青鷹丸」の航海において、1999年6月21日に相模湾の測点S3、深度5mから海水を採水し、トレーサーとしてNaH13CO3を添加した後9lのポリカーボネート瓶に移し、船上に設置した水槽を用いて24h培養した。この試料を6ヶ月間20℃の暗中に放置した。この間(実験開始後0,1,2,3,5,7,10,15,30,45,60,90,120,180日)に試水をガラス繊維濾紙で濾過し、懸濁態物質と溶存態物質とに分別した後、脂肪酸組成をガスクロマトグラフにより測定した。また植物プランクトンにより生産された脂質の脂肪酸組成はガスクロマトグラフ/質量分析により明らかにした。

【結果と考察】

1)本研究では懸濁態有機炭素(POC)濃度、13Catom%、Chl.a濃度、個々の脂肪酸濃度の変化を6ヶ月間調査したが、培養後1日目から30日目にかけて大きな減少が見られた。まずChl.aが1日目から10日目にかけて約1/50にまで減少し、光合成により生産された有機炭素量も1日目から30日目にかけて約1/50に減少した。一方POCの減少量は1日目から30日目にかけて約1/8と、生産物の減少量よりも少ないことから植物プランクトンによって生産された、より新鮮なPOCの方から先に分解されたと考えられる。

2)検出された個々の脂肪酸濃度を合計した総脂肪酸濃度は懸濁態脂質と溶存態脂質の間で異なる変化を示した。懸濁態脂質の総脂肪酸はPOCと同様1日目から30日目にかけて大きく変化し、34.30から5.65μg・l-1と約1/6に減少した。一方溶存態脂質の総脂肪酸は3.62−12.97μg・l-1 (平均6.33μg・l-1)の範囲で変動した。

3)両者の脂肪酸組成に関しては大きな違いがなく主要な脂肪酸は16:0、18:0、14:0、16:1(n-9)、18:1(n-9)であった。実験期間を通し、懸濁態脂質おけるSFAの割合が増加しPUFAの割合が低下した。これよりSFAの安定さ、PUFAの不安定さが確認された。特にSFAのひとつである18:0の組成比は懸濁態脂質中で9.4%(1日目)から最大41.2%(152日目)までに増加し、18:0を含む脂質が安定な性質を持つことも実験的に確認された。このことより、18:0は有機物の『新鮮さ』の指標として用いることが可能だと考えられる。一方溶存態脂質においては、こうした明確な傾向は得られなかった。これは溶存態脂質が当初から安定性の高い(新鮮でない)脂質で構成されていたことを示している。

本研究では脂肪酸組成のみの検討を行ったが、脂肪酸組成に加えて脂質クラスも検討することにより、安定な性質の脂質がどのような脂質クラスに対応しどのような脂肪酸組成を持つかなど、生物地球化学的な機構がより明らかになるであろうと思われる。


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