つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200412TT1.

「生き物としての人間」の教育の原点を考える

T.人間の経験が次世代に伝えられなくなりつつある現代

城 忠(東京学芸大学自然科学系生命科学分野)

 学校教育における様々な問題が顕在化し、教育改革が叫ばれる中、経験豊かな教員がその経験を生かせなくなっているという言葉をよく耳にする。実はこのことは、教員の世界のことだけではないのだろうと思う。これは主に、科学の発達による情報の多様化と急速な質的変化によるものと思われるが、世の中全体において、人間の経験が次の世代に伝わらなくなりつつあるのではないかと考えている。家庭では親であり、学校では教員であり、会社では上司の経験が生かされなくなりつつある。このことと関連して、最近では、「当たり前」とか「常識」とか、その理由を明確にしない言葉が、死語になりつつあるのではないかとも思っている。また、学校では「教育」という言葉が教えるというよりは、学ぶという立場で考えられるようになってきている。これらのことをどう受け止めるかは、個人の考え方に依拠するものと思われるが、筆者は、かなり重く受け止めている。全く独善的な考え方であるが、自分がこれまでに学んできた生物学的側面から、この辺りのことを、少し考えてみたいと思う。

 人間を含む生き物は、長い生命の歴史を経て今日に至っているが、その歴史の過程で生きるすべを獲得し、その大半は前成的(genetic)な部分で、生まれながらに持っている遺伝情報とその発現調節に裏打ちされたものといえよう。例えば、人間とは対極的な陸上動物の昆虫は、実に巧みに前成的(genetic)な情報を利用して生きている。一方、人間は、いわゆる無意識の世界の前成的(genetic)な情報以上に、思考という人間で特に発達した大脳皮質に依存した理論づけの過程で情報を処理する。いわゆる意識の世界(後成的(epigenetic)な情報)で生きようとしている。たぶん生物学的には、無意識の世界の方が、生きるということに関しては重要であろうと思われるが、科学の発達で情報が多様化すればする程、意識の世界で理論づけを図ろうとする傾向が強くなってきているのではないかと思われる。

 余談になるが、人間の脳の容積が増加し、思考力が格段に進化したのは、顎や頬を頭蓋に結合している筋肉に含まれるミオシンのうちの一種類の遺伝子が、突然変異を起こし、塩基配列の途中に終止コドン情報が入ってしまい、完全なミオシンを作れずに、顎や頬の筋肉が弱くなって噛む力は弱くなったが、逆に、頭蓋への負担は減り、脳の容積が増えたのではないかという、昨年Natureに発表された論文は興味深い。

 話を元に戻すと、人間の社会において、初期の段階では森林から草原に出た人間は、種の保存のため、個より集団を優先させる過程があったと思われる。そのような過程で,基本的には、前成的(genetic)な情報を背景に、経験的に後成的(epigenetic)な情報を、子どもの発達段階の早い時期に、親として、社会として教えこんでいったのだろう。これは、いわゆる教育の原点として位置づけられるものだろう。この範疇においては、まさに、教育は、教え育てる過程であり、これらのことに対しては、必然的に受け入れる過程として、人間社会の中で自然に認められていったのであろう。このような人間の経験に基づく教えの過程が通用していたのは、つい最近までのことだったと認識している。ところが、現在のように情報が多様化し、量的にも増大すると、受け入れる側もすべての情報を受け入れることは不可能となり、情報の取捨選択が必要となってくる。これに関しても、無意識の過程で行われる部分と、意識の過程で行われる部分があると思われるが、特に問題なのは前者の方であり、情報源、情報の質、情報の入る時期がその中でも問題となるだろう。昔であれば、情報源は親、家族、社会中心だったものが、今では、バーチャルなものも含め、メディアからの情報が極めて多くなり、質的にも量的にも多様化し、例えば、親は存在しているが、親からの情報としては伝わらない(ある意味では親としての役割を果し得ない)状況が、顕在化してきているように思われる。

 このような状況は、情報を受け入れる側の子どもの神経回路の構築と大いに関係があるようで、基本的には、前成的に神経回路の構築順序は決まっているようであるが、神経回路構築のための情報源となり得るものは、後成的(epigenetic)なもののようである。このような研究分野である脳科学の進歩により、現代における情報の質的変化が、子どもの育ちに大きな影響を与えていることがわかりつつあり、「脳科学と教育」という課題が、プロジェクト化されはじめている。このような子どもの話と情報の多様化をどう考えるかは、脳科学にとどまらずに、人間が生き物である以上、生物学的な課題としても捉える必要があり、特に、教育の問題と関連させて考える必要があるのではないかと考えている。つまり、教育に関わる人間は、生物学を専攻した者はもとより、そうでない者も、生物学的文脈から教育を考えてみる必要があろうということである。

 例えば、単純な例として、人間も含め現存する生物は、突然変異という、いわば「まちがい」を背景に時間軸の中で多様化してきている。人間の容貌、性格、考え方なども様々であるが、これらも同様な過程を通しての多様化に基づいている。生物学的に見るならば、人間も「まちがい」の上に存在しているわけで、人間自身が思考の過程でまちがいを犯すことも、至極当然のことと思われる。現代の人間社会では、個と社会の関係において、個が尊重される傾向が強くなりつつあり、それを包含する社会、特に公のあり方が問題にされている。個が、自分の属している社会への所属意識を、否定的に捉える傾向が強くなっているように思える。その結果であろうか,すべてのことに説明責任が問われ,それを果たすために、公を職にもつ個の場合は、自分のことに窮々としはじめている。人間自身が完璧な生き物ではないので、まちがいもあるが、それが許されないような社会になりつつある。メディアの発達で、いろいろな情報が瞬時に知れわたり、多分あり得ない理想との比較において、現実は常に批判される。こうなれば大人社会は保身の社会に変容し、子どもから見れば、まさに大人不信の社会となってしまう。ここに現代の教育の一つの大きな問題が浮かび上がってくるのだが、大人が、極めて素直に「我々も一生懸命頑張っているのだがやはり「まちがい」を起こしてしまう。「まちがい」を出来るだけ減らそうとしているがなかなか実現しない。子ども達は、それを見ながら我々より賢く育っているので、君たちは「まちがい」を減らすことができるだろうし、それを期待している」と言えば、それが通じる人間社会は来ないのだろうかと、しばしば考える。

 このことが通用する社会が再び訪れるならば、大人も、子どもの前で肩を張らずに素直に生きることができるのにと、淡い期待を持ってしまう。以前は、親や社会が、自らの経験で子供たちの生き方を培ってきたのであるが、今では、メディアを中心とした情報という、得体の知れない大きな情報源がそれに変りつつある。人間を生き物として捉える価値観や哲学が社会にあるならば、もう一度、人間の原点に帰ることも可能ではないかと考えている。

Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received December ,2004. Revised version received January 29, 2005.

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