つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200412TT2.

「生き物としての人間」の教育の原点を考える

U.小学校教員養成を中心とした問題点

城 忠(東京学芸大学自然科学系生命科学分野)

 前編のようなことを漠然と考えながら、最近では自分でできることをやってみようと思うようになり、教員養成や学校教育に関して実行できることを、少しずつはじめている。自分の専門から考えて、まず、理科、特に生物の分野を通して、何を伝えればよいのかということを中心に考えている。幸いに、科学教育分野での科学研究費補助金が採択になったり、東京学芸大学教員養成カリキュラム開発センターでプロジェクトを組んだりして、調査研究を行い、ある程度の情報を集めることができた。学校教育の中では「理科嫌い」、「理科離れ」という言葉が使われて久しいが、そのことを含め現状の問題点を考えてみたい。

 まず第一に、一般にはよく知られていないが、教育職員免許法(教免法)上での問題がある。2000年(平成12年)から適用された現行の教免法では、例えば、小学校教員一種免許状を取得する際に,「教科の指導法」は、全教科にわたって履修しなければならないが、「教科に関する科目」は、「1以上の教科」8単位を履修すればよいことになった。以前の教免法では、「教科に関する科目」は、全教科にわたって履修しなければならなかった。即ち、理科の「教科に関する科目」の履修は、義務付けられてはいないということである。48の国立の教員養成系大学・学部の「履修の手引き」などを取り寄せ調べたところでは、以前の教免法と同様に、全教科にわたって「教科に関する科目」を履修させている大学は、17大学・学部と、およそ全体の35%程度である。この他の大学で、理科の「教科に関する科目」を必修としている大学もあるが、数は少ない。それ以外の大学では、学生の任意ということになってしまう。逆に、広領域教科である理科は、2単位程度の「教科に関する科目」の履修では十分ではないことが、以前から指摘されていたところである。小学校教員養成課程(コース)に所属する学生で、理科を専攻している学生もいるが、小学校教員に採用された教員のうち、理科を専攻した学生は、10〜15%程度と思われる。小学校教員のうち、85〜90%は、自らの被教育体験の中での理科の概念や知識に依存しながら、理科を教えていることになる。このことは、他の教科でも同じことが言えるのであるが、これらの先生たちの中には、自ら理科を好きではないと思っている先生達も多いと思われるので、「理科嫌い」、「理科離れ」といった現実が生まれてくるのも必然性があるのかも知れない。

 もっとも、小学校段階で、理科が好きではないという児童数はそう多くないので、中学校や高等学校との接続の過程も、非常に重要な問題を含んでいると思われる。後でも触れるが、小学校段階での知識以上に、生きた知識となって活用できる知識を持ちあわせていない大学生も多いので、小学校段階といえども、単に理科の知識を伝えるだけではなく、理科を学ぶことの本質は何であり、理科を学ぶことによって人間形成上何を得ればよいのかといった、根本的な問題に踏み込んだカリキュラムが、教員養成や現職教員の研修のために必要になってくると考えている。最低でも、自分の被教育体験で得た知識を、教える形に系統的に置き換えられるようなカリキュラムは、必要ではないかと考えている。このような問題も理科に限ったことではなく、最近では、教員志望の学生の中にさえ、なぜそれぞれの教科を勉強しなければいけないかが、よくわからないという学生もいるほどである。教える時代から学ぶ時代に変ることにより、すべてのことへの理論づけの過程が必要となり、自分が納得できなければ先へ進めない若者たちが、多くなっているような気がしている。

 これに関しては、筆者、は教科の学習というものは、現代では、人間が生きてゆくため、即ち、人間形成上に必要な観点からの、人間の相対化という位置づけはどうであろうかと考えている。理科を例にとるならば、我々人間は、宇宙、地球という客体に存在し、他の生き物と共に、歴史の時間軸と多様化という広がりの中で現存している。このように、我々が認識できる自然の法則性や階層性の中で存在している人間を、客観性の中で相対化し、人間形成を図ろうというのが、理科という教科の本質であろう。社会ならば、人間社会の中での個を社会といった観点から、時間軸や広がりの中で人間を相対化してゆくという位置づけが必要であり、国語(言語)ならば、いかに情報を正確に伝えるかという意味において、時間軸や広がりの中で人間を相対化してゆくという位置づけができるのではないかと考えている。このようなことを授業時間に学生に話したことがあったが、理解を示す学生も少なくはなかった。国語に関しては、象形文字に始まる漢字文化を持つ日本語が、その正確さ、繊細さを歴史的に磨いてきたのに対し、最近の若者の携帯電話文化では,文章の単純化を超えて、絵文字で情報を伝えようとしているが、これは、これまでの日本語の歴史と逆行する形であり、情報化時代をどのように受け止めればよいのかと、複雑な気持になる。

 これまで述べてきたような、小学校教員養成の問題点は、小学校だけの問題ではなく、中等教育の問題でもあり、結局のところは、学校教育全体の中で、それぞれの学校段階をどのように位置づけるかという根本的な問題として捉える必要があるものと考えている。中学校以上の教員免許状は、教科毎の免許であり、教員の役割や考え方も違っているとは思うが、それぞれの教員が、その役割を果そうとすれば、子供たちが、小学校段階で何を学び、中学校段階で何を学ぶかを、正確に把握する必要があるので、学校教育全体も理解しておく必要があるだろう。逆に、小学校の教員にしてみても、子供たちが中学、高校と学校段階が上るにつれ、何をどこまで学んで行くのかを把握しておくことが必要であろう。教科の学習内容に関しては、特に、自然科学系の大学の人間などは、後継者養成といった視点から捉える傾向が強い。このことは重要なことではあるが、一方では、人間としてどれだけのことを知っておく必要があるのかという観点が大切であり、特に、生物の分野は、我々自身のことを知ることであり、すべての人間が知っておく必要のあることを、どの学校段階で、どのように提示してゆく必要があるかを考えることは重要である。

 例えば、遺伝子を例にとると、現在の学校教育の中では、遺伝の法則性というところから捉えはじめられており、これは高等学校の「理科総合B」のカリキュラムの中に位置付けられている。遺伝子の働きや役割の解明が進み、遺伝子研究が応用段階に入った現在、すべての人間が、遺伝子の働きなどを理解する必要があると思われるが、選択科目である高等学校の生物Uまで学ばなければ、そのことには触れることができない。学問の発展を歴史的に追うならば、現状のようになるのかも知れないが、筆者は、もっと早い段階で、遺伝子の概念や働きの概要を提示すべきだと考えている。例えば、現行の学習指導要領では、小学校4年生で植物の育ち、5年生でメダカやヒトの受精や発生の内容が扱われているので、これらのところで、生命の設計図としての遺伝子の役割という概念形成や、我々の体が細胞でできているという概念形成が出るのではないかと考え、調査してきたし、現在も調査中である。小学校段階での認知能力をどのように活用するかは今後検討されるべき問題であると考えている。

Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received December ,2004. Revised version received January 29, 2005.

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