つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200412TT3.

「生き物としての人間」の教育の原点を考える

V.生物分野のカリキュラムの問題点

城 忠(東京学芸大学自然科学系生命科学分野)

 話を生物分野の学校教育のカリキュラムへ焦点を絞って進めてみたいと思う。現在の高等学校の生物のカリキュラムは、従来からの生物学の学問体系、即ち、細胞学、形態学、生理学、発生学、生態学、分子生物学などといった領域に対応する授業内容が、単元として並列的に配置されていると思われる。このような流れは、中学校段階まで下りてきており、ある意味で学問を背景とした配置がなされているように思われる。一方、小学校段階では、理科は、3年生から6年生までの一つの教科にまとまっていることから、様々な事象が「入れ子」のように配置されていて、中学校以上への接続はあまり意識されていないように感じる。筆者は、生物分野に関しては、小学校から高等学校までの現在の教科書内容の配列には、その骨格をなすべき部分が欠けており、問題があるのではないかと考えている。先にも触れたように、遺伝子の働きが明らかになり、分子生物学も生態学も、根本では同じところから枝葉を広げていることがわかってきた今日、生物分野のカリキュラムを、生物の多様性と遺伝子の働きを背景とした、言い換えるならば、生物の進化を背景とした骨格の中に位置づけることが大切ではないかと考えている。このためには、小学校から高等学校までを通した一貫性のカリキュラムを考えることが必要であり、その中で、現在の教科内容を位置付けていく必要があるものと思っている。学習指導要領は、改定するにも連続性が必要であるので、現在の教科内容を否定するものではなく、位置づけを少しずつ変えてゆくことが必要と考えている。

 現代では、生命の設計図としての長い歴史を持つ遺伝子を人為的に操作できる時代であり、遺伝子組換技術が応用されつつあるが、その功罪ばかりが論じられ、生物学的な意味の理解が図られていないことが大きな問題だと感じている。このことは,生物学を勉強する者だけでなく,人間誰しもが知っておかなければいけないことではないかと認識している。このようなことを考える中で、3年ほど前から、東京学芸大学の生物学教室の先生方の協力もあって、誰でもよく耳にするような新しい生物学の用語を含む、遺伝子の働きを理解するのに必要な8つの項目について、小学5、6年から、中学、高校、大学生まで、合計4,000名以上に対して、同じ質問を用意し調査を行った。具体的には、DNA,タンパク質、細胞、核、進化、突然変異、遺伝子組換え、クローン生物の8項目について、これらの用語を知っているか、知っているとすればどんなことを知っているか、それはどこから知ったか、といった質問内容を用意した。調査結果の内容は、報告書(21世紀にふさわしい理科生物分野のカリキュラムの検討報告書)としてまとめたので、ここではふれないが、その結果わかったことは、学校では多くのことを学んでいない小学生の方が、テレビなどを中心に情報を集めている傾向があり、もちろん個人差は多いものの、関心も深く、多様な回答がみられたということである。進化や突然変異などに関しては、テレビのアニメなどの影響で、かなり誤った情報を得ている現状も見られたが、これらの情報への意識は高いのではないかと思われた。中学校、高等学校と学校段階が上がるにつれて、学校で習うことも多くなることの影響もあろうが、回答が画一化してくる傾向が見られ、勉強は受験のための手段と考えているかのようであった。大学生、特に文系の大学生になると、受験勉強で使われた理科のファイルは、封印されて開けることはできなくなっているようで、小学校段階での知識で答えるような傾向が見られた。自由に開けることのできるファイルは、小学校段階の知識なのだろうかと改めて感じさせられた。

 例えば、タンパク質という質問に関しては、栄養素の1つという回答が小学生から大学生まで多く、大学生といえども、今回のようなアンケートで、いきなり回答を要求された場合には、遺伝子の働きによって作られる、生物体のもっとも基本的な構成成分といった回答を引き出すことはむずかしく、栄養素の1つという小学校段階の知識で答えてしまうのかと想像した。受験問題のような形式で回答を求めれば、違った答え方も多かったのかも知れないが、せっかく中学校,高等学校と勉強しているのに、生きた知識として根づいていることは少ないのだと痛感せざるを得なかった。このような過程を経ながら、生物分野のカリキュラムを、もっと生きた知識として残すことができるようなものにすることが大切ではないかと考え、先にも触れたように、生物の多様性と遺伝子の働きを、生物の進化という背景から捉えたカリキュラムとして考えているところである。各学校段階での教育内容や、学習指導要領における理科生物分野での配置は別として、カリキュラムの骨子となるべきものとしては、次のようなことが考慮される必要があるものと考えている。

地球上には多様な生物が存在している。
生物にはそれぞれの生物種・個体に特有の生命の設計図がある。
それぞれの生物は生命の設計図に従って作られ、機能する。
それぞれの生物種は生命の設計図を次世代へ伝えることで種を維持している。
生命の設計図とは遺伝子(DNA)である。
生物を構成している基本単位は細胞である。
生物には1つの細胞でからだが構成されている単細胞生物と多数の細胞で構成されている多細胞細胞が存在する。
多細胞生物ではどの細胞にも基本的に同じ生命の設計図(遺伝子)が含まれる。
多細胞生物では、異なる細胞種で働く遺伝子は同じであるとは限らず、それぞれの細胞種の機能に応じて特有な遺伝子が働き、それぞれの細胞種に特有な機能を果たす。
生命の設計図(遺伝子)は長い生命の歴史の中では突然変異と環境への適応の繰り返しの中で、少しずつ変化し、現在の生物の多様性をもたらしている。

 このようなカリキュラムの骨子を考える場合、新学習指導要領における理科生物分野のカリキュラムでは十分に取り上げられていない、次のような点をどのように具体化してゆくかを考える必要がある。

 生き物には生命の設計図としての遺伝子が存在するということ、すべての細胞に遺伝子は同様に存在し、それぞれの細胞は、細胞の機能に応じて必要な遺伝子を発現させているということ、細胞分裂は細胞に含まれる遺伝子を等しく配分する過程であり、そのために、細胞分裂に先立って、遺伝子(DNA)の複製をしているということ、多細胞生物は、受精卵という一つの細胞から出発し、細胞分裂を繰り返しながら、からだ作りに必要な遺伝子の働きの制御のもとで、完成されたからだへと形作りを行ってゆくということ、細胞分裂に先立つDNAの複製過程や細胞分裂時の染色体の分配過程では、誤りを生じる可能性があり、このような誤り(突然変異)が、生殖細胞の形成過程で生じる場合には、次世代へその変異を引き継ぐ可能性があるということ、また、このような突然変異は、長い生物の歴史の中では、環境とのかかわりの中で進化とよばれるような過程を通して、現在の地球における生物の多様性をもたらしてき主な要因であること、などである。

 これらの視点をどの学校段階で、どのような教育内容に関連させて扱うことができるのか、また、新学習指導要領における生物分野のカリキュラムをどのように再配列することで、このような教育内容を導入することができるのかといった課題について、そのための教材開発などを含めながら、今後検討する必要があるものと考えている。     

Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received December ,2004. Revised version received January 29, 2005.

©2004 筑波大学生物学類