つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200404KY.

特集:入学

今だからこそ出来ることをしよう!

吉村 建二郎(筑波大学 生命環境科学研究科)

 小学校の時は日が暮れるまで外で遊んでいた。中学校の時はクラブ活動でへとへとになった。高校の時は深夜になるまで勉強をしていた。では、大学では何をしよう?

 大学の勉強を一生懸命やるのは当然だ。そのために大学に入ったのだから。でも、今のみなさんにはさらに十分な時間がある。多くの筑波大生は大学の近くに住んでいるから、通学に時間も体力もとられることがないのは大きなメリットだ。できれば、サークルやバイト以外にも何かを体験してみよう。

 人生を豊かにするのは何だろうか?四六時中勉強すること?そうでないことは受験勉強を体験したみなさんは良く知っているはずだ。サークルにもよるかもしれないけれども、ただ気の合う友達と騒ぐだけでいいのだろうか。バイトでお金を稼ぐのは必要であるが、あくせく働くのは就職してからでいい。人間に深みを出すのに必要なのは何だろうか?それは豊富な体験と、深い思慮だ。

 いや、バイトだっていいかも知れない。世の中にはいろいろなバイトがある。僕の幼友達は休みを使って北海道の羅臼に昆布採りのアルバイトに出かけた。もともとたくましかった彼はますますたくましくなった。おまけに、都内の料亭にしか出ないという昆布をもらい、それで作った湯豆腐は信じられないほど美味しかった。お嬢様だと思っていた同級生は、秋葉原の電気街でコスチュームを着て販売促進をしていた。「いろいろな体験もいいかな、と思って」と言っていた。世の中、違う価値観・立場の人たちがたくさんいるということを肌で感じることができればすてきだ。

 夏休みになるとすぐに、僕は山に登っていた。梅雨明けの山は天気も良く潤いもあり、自然や地球を感じた。山で見た満天の星はあまりにも多くて、天の川がはっきりと分からないほどだった。研究室の一人はバングラディッシュに旅行し、よせばいいのに、たまたま知り合った人の家でご馳走になった。帰国したら赤痢を発病し、研究室まで保健所の人が来て消毒していったのには気が滅入った。

 本当の旅行ではなく、思索の旅行をするために、難しい本を読むのも今がいいかもしれない。受験勉強で鍛えた読解力を今度は自分のために活用する時だ。僕が大学に入ったころはジャック・モノーが書いた「偶然と必然」が周りで流行していた。ジャック・モノーは分子生物学の先駆者で、1961年にノーベル賞を受けている。その彼が、「生物とは何か」というテーマで、可能な限り科学的、物質論的に、しかし不思議と哲学的な文章を書き、日本ではみすず書房が翻訳を出版していた。今では、当時より生物学の知見がはるかに深まっているので、もっと深い、あるいは別の考え方をするかもしれないが、そこで出てくるテーマは今でも生き生きとしている。内容が示唆に富むのと、自分の生物学の知識がおぼつかないので、読むのに四苦八苦した。

 みすず書房というのは大学に入った僕にとってまぶしい本をたくさん出していた。硬い文章であるが、味わえば味わうほど内容が出てくるような本を次々と出していた。それを読むことが、未熟な僕にとっては一冊一冊が冒険旅行であった。

 今、本棚を見ると、大学・大学院の時に読んだ本がまだ捨てきれずに何冊も残っている。何千年も前から文明を築いていたエジプトは僕のあこがれであった。今でも、治安さえもう少しよければまっさきに行ってみたい国である。そのあこがれがどう曲がったのか、「ヒエログリフを読み書きできるようになりたい」と思うようになった。「ヒエログリフ入門」(吉成薫著)などを読んで勉強したり、コプト語の勉強をしたりした。今は、、、、全く役に立っていない。

 ヨーロッパの知識人は「ローマ帝国衰亡史」(ギボン著)を読んでいるものだ、と父親に言われ、ローマ帝国のすべてを書いてあるようなよく分からない歴史書を全十巻も延々と読んだ。今から思えば、父親にだまされたのかもしれない。今では、、、、これも全く役に立っていない。

 高校・大学の頃は小説家になってやろうかとも思っていた。でも、文才がないのはこの文章を読めば分かるであろう。それでも、谷崎潤一郎の「文章読本」(初版本を古書店で買うほど熱を上げていた)や、丸谷才一の「文章読本」を買って日本語の文章のあり方を寝ながら考えていた(読むと眠たくなった)。これは、今では、、、、これは少しは役に立っているかもしれない。

 今やることが将来に役に立つ、役に立たないということは、考えなければいけない時もあるが、それだけでは人は味わいが出ない。実社会に出れば、生活するために、働くために、あるいは家族のために精一杯になり、無駄なことをする余裕が時間的にも精神的にもなくなってしまうかもしれない。大学に入った今こそ、直接は役に立たないかもしれない、でも、気になって仕方がないことに決着をつける時だ。

 みなさんの理想の社会は何だろう。みなさんの理想の人物像はどうだろう。みなさんの理想の大学とはどのような姿だろうか?あるいは、生物学はどのような方向に進むべきなのだろう?みなさんは今まで教えてもらうばかりで、現状を受け入れる一方であった。これからは違う。自分の将来も、社会も、大学も変えることができる第一歩をみなさんは踏み出した。みなさんは白紙の未来にわくわくしながら大学に入っただろうか。それとも、流されて入ったのだろうか。理想で食べていける訳ではないが、生きているのが楽しいのは(そして苦しいのも)、理想があるからだと僕は信じている。その理想のカタチを作り上げるのが大学の頃だと思っている。 

 大学・大学院の頃というのは、頭の柔らかさと、思考能力のバランスが一番とれている頃ではないだろうか。齢を重ねると、それまでの人生といらぬ知識が邪魔して頭の柔らかさを損ねてしまう。思考能力は、これは鍛えれば鍛えるほどたくましくなるものだ。これは、ぜひ大学で鍛錬してほしい。そのようなすてきな時期をどのように過ごすかは大きな問題だ。

 僕も去年は新人であった。去年、筑波大学に赴任してきた時は、学生のようにガイダンスがある訳ではなく、分からないことだらけであった。分からないということは、新しい目で見ることができるということである。それは新人の特権であり、義務だ。自分流の考え方をアピールするチャンスでもあるし、新しい風を吹き込み新陳代謝を促す役割を果たさなければならない。みなさんも、多くの講義が一斉にスタートし、新しい生活がスタートし、戸惑っているかもしれない。これは今までの自分を打ち破るチャンスだ。筑波大学には、いろいろな土地からさまざまな個性をもった学生が来ている。考えの違う人がいたら、その違和感を楽しもう。そして、自分のあり方はどうでありたいか、自分の個性はどうであってほしいかをもう一度考えてみよう。

 それでも大学生の本分は大学生活であり学業である。みなさんは、生物学のプロへの第一歩を踏み出したのであって、決してエジプト学者や登山家への第一歩を踏み出したのではない。本当のところは将来がどうなるかは分からないが、少なくとも今は生物学「命」の心構えであってほしい。でも、ひょんなことから、遺跡に出てくる食べ物のDNAの分析を始めることになったり、ヒマラヤを越えていく渡り鳥の生理学を研究することになるかもしれない。それもこれも、生物学のエキスパートという太い幹があればこそ枝葉が生きるのである。逆に、枝葉のない幹というのも寂しいものかも知れない。

Contributed by Kenjiro Yoshimura, Received , 2004.

©2004 筑波大学生物学類