つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200406KI.

化学産業界が取り組む長期自主研究

稲葉克彦(株式会社三井化学分析センター・安全科学研究部)

1.はじめに

 「つくば生物ジャーナル」の、ある編集委員の方から、何か文章を書いてみないか、とお誘いを受けました。学生時代に比べてだいぶ図々しくなったようで、自分の仕事の紹介というか、本当のところは宣伝をしたかったものですから、すんなりお引き受けしました。でも、無味乾燥な仕事の紹介だけでは、読者の皆様には面白みがないとお感じになるかもしれません。ここではちょっとだけですが、ぼくが常々大学の研究というものに感じていることを書き綴ってみたいと思っています。それから最初に申し上げておきますが、文章全体、特に後半の部分は、ぼくの個人的な思いであって、ある特定の団体の意見を代表するものではありません。あしからず。

2.化学産業界が取り組む長期自主研究(Long-range Research Initiative, LRI)とは

 いろいろな業界に業界団体があることはご存知だと思いますが、そういう業界団体のひとつに社団法人 日本化学工業協会(日化協)というものがあります。約200の化学あるいはそれに関連する企業が参画する団体です。日化協がどんな団体であるのかを紹介すると、それだけでこの紙面は埋まってしまいますので、詳しくお知りになりたい方は日化協ホームページをご覧ください(URL:http://www.nikkakyo.org/)。ぼくは、大学を卒業してから、ある化学会社に就職して現在に至っていますが、その関係で日化協が行うひとつの活動に関与しています。その活動こそが、これから紹介したい化学産業界が取り組む長期自主研究(Long-range Research Initiative, LRI)というものです。

 なぜ、このLRIを大学の情報誌に紹介するのかというと、これが公募を原則とした研究助成活動であって、読者のみなさんに直接関係する可能性があるからなんです。これから、すこし詳しくこの活動について説明したいと思います。

 ちょっと前後してしまうようですが、みなさんは、レスポンシブル・ケア、と言う活動をご存知でしょうか。これは、研究開発−製造−流通−使用−廃棄に至る、あらゆる化学製品のライフサイクルにおいて、安全を確保するために実施される化学産業界による自主的かつ国際的な活動です。水俣病やカネミ油症のように、過去において、化学物質が原因となった事故や健康障害があった事実は、みなさんご存知のとおりですが、レスポンシブル・ケアとは、例えばそのような不幸な事件が、今後起きないようにするための活動といえるでしょう。

 健康障害の原因となる化学物質の毒性を念頭に置いて、さらに話を進めます。化学物質の安全を確保するためには、まず、毒性を正確に知り、適切な対策を図る必要があります。申し上げるまでもなく、毒性のない化学物質など合成、天然を問わず地球上には存在しませんから、まずどんな毒性がどの程度あるかを把握する、言い換えれば、用量−毒性関係をはっきりさせる必要があります。ここまでは、化学物質の固有の性質がわかったというレベルに過ぎません。何が言いたいかといえば、われわれ生物が化学物質によって障害を受けるためにはそれらに暴露しなければならないということです。障害を受ける可能性や確率は、リスクという言葉がよく使われており、ここでもリスクといわせてもらいますが、そのリスクは、毒性と暴露量の掛け算になります。リスクを算段することはリスクアセスメントと呼ばれていますが、この評価によってリスクが無視できないと判断されれば、生産量、用途や廃棄方法などを変更して暴露を低減させ、リスクを無視できるレベルまで引き下げることが必要になります。

 現在の日本におけるLRIでは、リスクアセスメントを行う上で必要である、化学物質と毒性発現の関係の正確な理解や評価方法の開発に主眼がおかれています。具体的には、研究の実施あるいは支援によって次のことを目指しています。

・化学物質と健康・環境に関する科学知識を広げること
・試験法やスクリーニング手段の開発により製品管理能力の向上を推進すること
・科学的根拠に基づく公共政策の決定を支援支持すること

 これらの研究は、先に述べたレスポンシブル・ケア活動を科学的側面からバックアップすることに他なりません。化学産業界が資金提供する研究助成活動であることから、個別製品の毒性を明らかにする研究を望んでいると思われることがしばしばありますが、LRI研究の目的はそれらの上位にあります。わかりやすく言い換えると、本当の毒性を明らかにするための科学的知見の集積や評価試験法の開発、さらに海外などでは暴露評価手法の開発など、広く化学物質一般に共通する成果の取得を望んでいます。
 さて、次章ではもう少し踏み込んで、LRIの内容や進め方、あるいは特徴についてご紹介したいと思います。

3.LRIの特徴と進め方

 レスポンシブル・ケアが、国際的な活動であると同様に、LRIもまた米国化学工業協会(ACC)および欧州化学工業連盟(CEFIC)が参画する国際的な活動です。日本を含めた3極は、まったく独自に活動するのではなく、基本原則を確認しあいながら、成果の相互利用、重複研究の排除などの連携体制を取り、研究を進めています。

 また、LRIが企業主導の研究ではあることから、運営が企業寄りで不透明になること、あるいは公平性を欠くことがないよう、運営に外部有識者の参加を求めるなど、以下の述べる基本原則が確認され、かつ実施されています。

−LRI推進のための基本原則−
・研究助成は、科学的な原理の探求やその実際的な応用に関する研究に対して行われる
・今どのような研究が求められているかにつき、外部有識者を交えて十分に検討し、研究分野を決定する
・研究は公募を原則とする
・研究者の自主性・独立性を尊重する
・研究の公開性および透明性を確保する
・研究成果を公表する

 2004年6月現在、日本のLRIでは大きく4分野(@内分泌かく乱物質、A神経毒性、B化学発がん、C過敏症)で研究が行われています。それら分野ごとに当該分野の現状認識と今後の研究上のニーズをまとめた「研究白書」が作成され、それらに示された課題の中から、優先順の高いと思われる課題を抽出します。次に分野ごとに抽出された課題を解決するため、課題に対応する「研究募集要項」が作成されます。「研究募集要項」には、背景、研究の範囲および研究費用範囲や採択予定課題数などが含まれています。「研究白書」や「研究募集要項」は、社会全体や化学産業界のニーズ、科学の進捗状況に応じて原則毎年改訂や変更があります。柱となる4分野という大分類ですら、決して継続して存在する保証はありません。

 では、これから応募される可能性があるみなさんのために、どのようなスケジュールで公募作業が行われているか、昨年、2003年(第4期研究募集)の実績を例にとって、その流れをご説明したいと思います。図1もご参照ください。

 昨年の研究募集は2003年3月3日から5月9日までの約2ヶ月間実施され、88件の公募実績がありました。「研究募集要項」は、日化協LRIホームページ(URL:http://www.j-lri.org/)で公開されますが、全国の主要大学、研究機関へは、研究募集をお知らせするダイレクトメールが発送されています。筑波大学も対象ですよ。

 募集締め切り後、書面による一次審査、6月21日と7月5日両日実施された二次審査(面接審査)を経て、34件の研究が現在実施されております(34件の中には、少数ですが、この審査ルートに乗らない直接委託というプロジェクトもあります)。図1に示されているように、「研究白書」の作成・改訂から研究の採択に至る過程では、外部有識者よりなるピアレビュー委員会が関与しています。もちろん、これら作業の流れを主に作っているのは、ぼくのような日化協関係企業からの委員および日化協職員(ほとんどが関係企業研究者または研究職経験者)ですが、要所では外部有識者(ピアレビュー委員等)の参画と指導を仰ぎ、透明性を保つとともに、科学水準の向上に努めています。

 LRIについて説明してきました。興味があって、もう少し詳しくお知りになりたい方、あるいは研究を提案してみようかな、と思われる方は、もちろんぼくに連絡していただいても結構ですが、日化協LRIホームページも近頃大改訂されて、とってもわかりやすくなりました。こちらでは、LRIで現在の研究テーマがわかりますし、過去どのような研究が行われ、どんな成果が挙げられているか知ることができます。ぜひ一度アクセスしてみてください。

4.最近思うこと、思い出したこと

 LRI活動も5年目に入りました。ぼくは、1999年の準備段階からこの活動にかかわっており、足掛け6年の仕事になります。1986年に就職して以来、この活動に関与するまでの10数年間、大学の研究者とのお付き合いはほとんどありませんでした。一方、LRI研究の多くが大学で実施されている関係で、ここ数年は大学の研究者との意見交換、議論の機会に恵まれています。そんな中で思うのは、大学の役割って何だろう、大学と企業の接点って何だろう、ということです。まあ、こんなことを考えるもの、ひょっとすると、ぼくが学生時代、生物学という理学を学び、実学を積極的に取り込もうとしなかったせいなのかもしれませんが。

 この4月から国立大学も独立行政法人化され、これまで以上に研究資金を“学外”に求める必要が出てきたと思います。このことで、大学における研究の志向性が変わっていくのでしょうか。

 生物学を学び、あるいは研究されているみなさんに、いまさら言うまでもないことですが、生態系は、生物の多様性によってうまくバランスされ、維持されています。多様であるほど環境変化にうまく適応できます。人間社会もきっと多様性が必要なんだろうと思います。一面的な意見が社会を支配すると、誤った方向に進んでも方向修正ができなくなる、「それ、もしかしたら違うんじゃないの」という人がいなくなる。だから、教職を取らなかったぼくが勝手なこと言わせてもらえれば、個性を生かす教育がとても大切だと思う。 昨年暮れの「紅白」ではじめて聴いたSMAPの「世界でひとつだけの花」は、そういう意味でいい歌だとしみじみ思いました。 それに、いまさらながらですが、日本国憲法で保障されている思想、学問、言論や表現の自由って、実に大事なことに思えてきます。

 ちょっと大げさになってしまいましたが、同じような意味で、科学知識あるいは科学研究というものにも多様性が必要ではないでしょうか。現在のニーズに対応し、または近い将来を予想して、必要と思われる研究を実施すること、企業などが製品開発時に行う研究がこの範疇に入りますが、これ自身とても重要ですし、こういった研究なくして人類の繁栄はあり得ません。しかしながら、将来、人間社会がどんな困難に直面し、どんなニーズが生まれてくるのか、そのすべてが読めることは絶対にありません。そのためにも、現時点で必要かどうかという判断ではなく、広く広範な科学的知見の集積が必要だと思います。その研究ができるのは、やはり大学ではないでしょうか。この問題を解決したいからこの研究をやる、というのではなく、これを知りたいからこの研究をする、つまり純粋に自分の知的欲求を満足させるための研究は、それ自身とても大切ですが、科学知識の多様性を維持する上でも重要だと思います。

 先ほど申し上げた通り、独立行政法人化され“学外”のグラントに研究資金を求める機会が、ますます増えてくることでしょう。資金提供者の目的達成につながる研究を、大学の研究基盤を利用あるいは応用して行うことはとてもすばらしいことですが、その過程で、研究者本人の自発的な知的欲求の満足を常に意識してほしいのです。このことで、現在ある問題意識に直結した研究成果が得られるばかりでなく、科学知識の多様性が獲得できるはずです。これがぼくの理想とする、“産学協同”です。

5.おわりに

 最後のあたりは、状況もよく理解せず、勝手なことを書いてしまったのかもしれません。もちろん無視してもらって結構です。でもひとつだけ、“自分は何を知りたいのか”、この問いかけだけは、常に行ってほしいと思います。

 みなさんの研究成果に大いに期待します。                  (以上)

Communicated by Hiroshi Matsumoto, Received July 9, 2004.

©2004 筑波大学生物学類