つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200406NS.

自分の仕事、自分の得意分野

柴田 夏実(茨城県農業総合センター)

 職名は茨城県技術吏員、勤務箇所は茨城県農業総合センター大宮地域農業改良普及センター。
 筑波大学生物学類を卒業し、就職した私は茨城県職員となり、4年間を農業改良普及員として働く事となりました。さて、それがいったいどんな職業だったのか。
 このページを目にしている方の中には、将来どんな職業に就こうかと頭を悩ませている学生の方もいらっしゃるのではないでしょうか。今回は、私個人の体験談ではありますが、自分の就いた仕事と職場、出会った先輩方について紹介したいと思います。こんな卒業生もいた、という事で、読んでいただければ幸いです。

普及センターという職場

 茨城県には12の「普及センター」があり、私が就職と共に「普及員」として配属されたのは、県の北部9町村を管轄する普及センターでした。
 この普及センターという職場、農業に関する実にいろいろな仕事をやっています。作物の生育調査、農家の方への栽培講習会、若い農業者のクラブ活動支援、農家のお母さん方への農産加工指導、経営診断などなどなど。そして最終的には、この地域のためにどんな農業振興をしたら良いのかまで考えるのですから、本当に多種多様な仕事内容です。一応、普及員はある程度の専門に分かれて仕事をしますが、一度現場に出てしまえばそれどころではありません。
 「直売所のレジが壊れた、お客さんが来てるんだけど、どうしよう」
 「村のイベントに参加するのに、パネルやチラシは作れるかな」
 思いもよらない相談が農家の方から飛び出します。
 普及センターの仕事は、もちろん専門技術の習得に経験を要する面もありますが、自分の専門だけに固執していては務まらない、だからこそ厳しくも面白い、いつも新しい職場でした。

チームで仕事をしなさい

 そんな職場ですから、先輩方の仕事のやり方や信念は様々です。飲み会の席や、残業メンバーが集まる給湯室で、先輩方は機会あるごとに独自の仕事観を聞かせてくださいました。
 「普及員は技術だけじゃない。一人で仕事をしても駄目だ。チームで仕事をしなさい」
 その中で、私が最も影響を受けたのがこの言葉でした。多くの仕事を一人で背負い込むより、チームを組んで活動し、各自が得意分野を活かして働く方が大きな仕事ができる、というのです。大学で学んだことがそのまま活かせる状況になかった就職当初、右往左往していた私には得意分野を活かすという考え方が印象深いものになりました。
 しかし、目の前にある仕事の中で何が私の得意分野なのかと考えると、それはそれで難しくもあります。結局、私がこの言葉を実感したのは、それを語ってくださった先輩が異動したずっと後、就職4年目になってからでした。

うまかっぺ!奥久慈の米をブランド化しよう

 就職4年目にして、私の専門は稲に決まりました。茨城県の普及員は4年目から、本格的に自分の専門分野で仕事をすることになります。この時、いろいろな幸運が重なりました。
 まず一つ、実は大宮地域の9町村、「奥久慈」と呼ばれる自然豊かな地域は、おいしい米がとれると言われる場所だったのです。そしてこの米を、地域のブランドにして売り出そう。そんな動きがちょうどこの時、普及センターの中で盛り上がりつつありました。
 奥久慈はいわゆる中山間地域です。水田の面積も小さく、高齢化がすすんでいます。耕作放棄地も増え、農業に就こうという若い人の数も減っていました。
 「ならば、それら山積みの問題を“米のブランド化”というキーワードから解決しようではないか」
 二つ目の幸運、そう言って立ち上がる先輩普及員が、この時、職場に集っていたのです。世代も立場も異なるメンバーでしたが、米のブランド化に向けて皆が「米チーム」になって行きました。

普及員は企画で勝負 …発想の核、普及員T専門員

 奥久慈米ブランド化の発想の原点は、実は平成11年、大子町で結成された農家24名の研究会にまで遡ります。この研究会を、農家の方々と共に発足したのが後にチームの核となるT専門員でした。
 「普及員には企画する力が大切。もっと地域に提案して実践しよう」というのがT専門員の持論です。その後の米ブランド化の動きにつながるT専門員の多くのアイデアは、この研究会で実践されました。地元で盛んな畜産業から出る家畜糞堆肥で土づくりをしたり、米のおいしさを食味として機械で測り、その結果を販売にまで活かしたり、特別栽培の認証を受けたり。まずは少数でもやる気のある農家の方々と良い成功事例をつくり、地域に証明して見せたのです。
 そして、普及センターにおいても皆を巻き込んでのチーム活動に長けていたT専門員を核に、平成15年度、いよいよ奥久慈米ブランド化が動き出します。私が初めて稲の勉強をさせてもらったのがこの研究会であり、田んぼで歩くこともできなかった新米普及員に、米チームへ入るきっかけをくださったのがT専門員でした。

農家のために、それが最優先 …米チームを引っ張った、普及員K主査

 さて、安定して米を買ってもらうには、ある程度大量の米を集荷してストックしなければなりません。そのためにも、1つの町の研究会活動を他の町村へ広げ、栽培面積を増やす必要がありました。
 この時、米の振興こそ今やるべき地域課題だと立ち上がった上司がK主査でした。
 「何のために普及センター、農協、町村はあるのか。農家のためにあるべきだ」
これがK主査の熱い持論です。K主査は広く地域に、米のブランド化を提案しました。その地道な呼びかけの成果が「奥久慈うまい米生産協議会」という、農家の方だけでなく町村や農協が加わった組織として形になったのが平成15年6月です。今度は皆で、地域の米づくりを考えて行こうという大きな流れをK主査は切り開きました。
 話が大きくなれば、それだけ重い責任がかかります。協議会という組織が出来ても、それを動かすには更なる労力が必要でした。それでも、決して退く事の無いK主査の姿勢が、米チームの要になりました。K主査はいつもチーム員に、「やってみればいい」とGOサインを出し続けてくれました。

農業は魅力的だ、もっと面白くなる …米チームのエネルギー源は農家の方々

 米チームは、普及員だけではありませんでした。
 「うちの地域の米はうまい。厳しい規格でもいいから品質重視で行こう」
 「米には可能性がある。高齢化と言っても、定年した人や若手がまだまだ集まるはずだ」
 そうおっしゃる地域の農家の方々は正にチーム員であり、米チームのエネルギー源でした。
 「こうすればもっと面白くなる。農業が魅力ある仕事になる」
 問題解決への糸口は何時も、農家の方々がくださいました。分からなければ視察に行こうと、時には皆で出かけました。いつか地域に精米工場が欲しい。そんな夢も語り合いました。

私の得意分野は

では、ベテラン普及員、パワフルな農家の方々に囲まれて、いったい私はどこに自分の得意分野を見つけたのでしょうか。それはチームだからこそ生まれた役割でした。
 チームでよく話し合いをしましたが、その考えを協議会という多くの人の集まる場で伝え、提案するには資料という形にまとめる必要があったのです。学生時代、先生のジョークまで授業ノートに書き残す記録魔だった私が見つけた仕事のポジションでした。何が自分の得意分野になるかなど、全く予想できないものです。チーム員のアイデアを根気よく聞き取り、図式して資料にする。チームの活動を発表用にまとめ、広く皆に伝えてアピールする。私のチーム内での役目は、自然とそんな所に落ち着いて行きました。
 そして平成15年度の最後に拘った仕事は、この「伝える」能力を必要とする仕事だったのです。
協議会から予算を出し、これから生産を増やして行く上でPRに役立てるシンボルマークとポスターをつくる事となりました。そうなると今度は、農業を知らないデザイナーの方にデザインを依頼し、こちらの要望を「伝える」資料をつくらなければなりません。それがいかに難しいことか。普段使い慣れた専門用語は厳禁です。依頼のためのプレゼンテーションの場では、予想外の質問の連続でした。
 その四苦八苦の結果が、どんなポスターやパンフレットになって出来上がってきたのか。これは、いずれ地域の直売所などで張り出される予定ですので、機会がありましたら是非、御覧になってください。

そして、私の新たなスタート

 奥久慈米が商品となり、ブランドとなるにはまだまだ多くの課題があります。
私は、この仕事に一区切りがつく前に他の機関へと異動となり、全く別の分野で新たなスタートを切ることとなりました。しかし、この平成15年度は私にとって正に全力疾走で、充実した気持ちのまま異動することが出来ました。これも皆、米チームの方々あってこそだと思います。
 さて、私の経験した普及員という仕事はいかがでしたか。配属される場所、人との出会いによって職業の印象は大きく変わるのかもしれません。それでも、どんな職業でも、誇りを持って皆で取り組むというのは楽しいことではないでしょうか。そう思えた環境に身を置くことができたことに感謝しつつ、今は異動先の新たなスタート地点からまた、多くの経験をして行きたいと思っています。

Communicated by Hiroshi Matsumoto, Received July 9, 2004.

©2004 筑波大学生物学類