つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200511TU2.

特集:科学コミュニケーターを考える

2. 科学コミュニケーターの育成

浦山  毅(共立出版編集部)

2.1 ジャーナリスト教育論争

 「科学ジャーナリスト」だけに限った話ではないが、ジャーナリストをかかえる新聞社や通信社から、大学院や大学学部に対して熱い期待が寄せられている。「ジャーナリストの育成」という視点からである。ここ数年、「ジャーナリスト教育」や「ジャーナリズム」に関する本がいくつか刊行されて、昔からある教育論争が再燃した[1][2][3]。経緯を整理すると、以下のようになる。

 メディア企業側の理屈はこうである。これまで記者教育は、現場で先輩が行なってきた。いわゆる、オンザジョブ・トレーニング(OJT)である。ところが、中堅記者が忙しくなって新人指導の時間が取れない、電子送稿システムが導入されてデスクから記者へのフィードバックがなくなった、新人が職場になじめず早期に辞めたり先輩との交流を好まなくなった、さらに記者として覚えなければならない専門知識や法規が増えた、記者のモラルが低下してトラブルが増えているなどの理由から、入社前の学生に記者として必要な知識や心構えを教えてほしい、あるいは中堅記者に充電のための場を用意してほしいというのだ。

 ずいぶん勝手な言い分で、これまでは大学側もほとんど耳を貸さなかった。また企業側も、これまでは「生半可な知識は邪魔になるだけ」と言って、大学におけるジャーナリスト教育を否定ないしは無視してきた。ところが、国立大学の独立法人化に象徴されるように、各大学が個性を打ち出さなければならなくなった。そこで、大部分の大学は、学部教育をそのままに、大学院の強化に走った。大学院で個性を発揮しようと考えたわけだ。ところが、少子化の波を受けて大学院でさえ学生の確保を考えなければならなくなった。その解決策のひとつが、メディア企業の「予備校」化と揶揄されるカリキュラムの新設、もうひとつが、研究者養成だけでなく専門職業人の育成も大学院の役割に組み入れるということであった。学生をメディア企業に一定期間送り込んで仕事を経験させるインターン制を通じて企業とのパイプを築いておけば、人脈・就職などの点で有利になるとのもくろみもあって、大学がこうした企業からの要請に応えようとする機運が高まってきたのである。

 企業も大学も、いちばん手間のかかる「教育」の部分をお互い相手に押しつけているように私には見えるが、はたしてこれでいいのだろうか。

2.2 科学コミュニケーター育成の場

 どういった理由があるにせよ、大学が科学コミュニケーターの育成に取り組む必要はこれから高まってくるであろう。そのとき問題になるのが、大学院で教えるのか、それとも学部で教えるのかということと、教えるとしたら、どういうコースあるいはどういうカリキュラムで教えるかということである。

 日本の大学では、科学ジャーナリストあるいは科学コミュニケーターを育成する試みが始まったばかりである。北海道大学、東京大学、早稲田大学ではいずれも大学院で、2006年4月から学生の受け入れが始まる[4](北海道大学では開講に先行して2005年10月から特別な教育組織での授業が開始された[5])。大学院で教える背景には、高度に専門的な知識をもった人材を育成することになるから学部では無理だとの判断があるように思われるが、安易な発想がいくつか存在していることも否定できない。

 そのひとつは、大学院の設置と廃止が学部と比較して簡単にできることから、試験的に実施されるケースがあるということ。これは立ち上がりの時期には許されても、いずれ正式なカリキュラムとして固定するのであれば早急に体制を整える必要がある。2つめは、研究者に向かないと思った大学院生が科学ジャーナリストになればよいという発想。これは研究者の生理を理解していない者が考えそうなことである。研究者になるために大学院に進んだ者にとって、至上命題は「研究者になること」であって、もしも研究者になれなかった場合には、たとえ科学ジャーナリストになれたとしても、本人も周囲も「研究者になれなかった落伍者」という負い目をつねに持ち続けてしまうものである。だから、最初から科学ジャーナリストを専門に養成するコースをつくるべきである。3つめに、ジャーナリズムといえばこれまで社会科学の研究テーマであり、それに「科学」が付いただけだから、科学ジャーナリストを養成するには社会学系大学院にコースを設置し、そこで自然科学を少しだけ学ばせればよいという考え。科学ジャーナリストになるには、科学の知識だけでなく、文系にはない実験というものの本質や科学的な物の考え方も理解できないといけないから、それにはおのずと限界がある。

 育成の場を大学院に設定した場合には限らない項目もあるが、科学コミュニケーターを育成するには、いくつかの条件が必要になってくるだろう。まずは、科学コミュニケーターの「身分」を研究者と同等程度に引き上げること。次に、実践を通じて訓練をすること。実践が伴わない教育では学生も身が入らないし、コース終了後も役に立つ人材は育たないだろう。そして、早急に教える側の体制(教科書・教授法の確立、教員の確保と育成)を整えること。そう考えると、大学院は自然科学系に置く(そして、コミュニケーション論、メディア論、ジャーナリズム論なども教える)のがもっとも自然だが、従来の物理学や生物学とは別にコースを設置すべきであろう。理想的には、2専攻制(ダブルメジャー制)にして、科学ジャーナリズムとたとえば生物学を学ばせるのがよいと私は思っている。残された問題は、大学院修了後に活躍できる場が用意されているかどうかである。

 一方、学部の場合には、専門の授業をかいつまんで教えるというわけにはいかない。大学院が職業教育(professional education)に徹するのとは対照的に、学部では教養科目(the liberal arts)として教えることになる。ここで、外国のカリキュラムをひとつ紹介しておきたい。オーストラリア国立大学(ANU)では、理学士(「科学コミュニケーション」)になるための4年間の各学年ごとに次の科目を教えている[6]。

 1学年「科学に関する国民の意識」(Science and Public Awareness)――科学、技術、科学コミュニケーションに関する導入部分。大勢の学生の前で、自分自身がどう科学や技術をとらえているか、また一般大衆に科学を理解してもらううえでの問題点は何かを論じさせ、お互いに議論させる。

 2学年「科学的なコミュニケーション術」(Scientific Communication)――技能中心。公衆に科学を理解させたり興味を持たせたりするために、説明や執筆のための技能を磨く。学生に、コミュニケーターとして成功するのに必要な資質を身につけさせる。

 3学年「科学ジャーナリズム」(Science Journalism)――技能中心。科学とメディアの関係、それに両者の関係を難しくしている文化のちがいを調べる。出版や放送のネタを学生自身が見つけられるよう訓練する。学生は実際のジャーナリストに直接連絡して、得られたネタを提供しそれらが実際に印刷や放映にたどり着くまでの過程を見届けることができる。

 4学年「科学における危険と倫理」(Science, Risk and Ethics)――予測不可能な科学上の危険を回避するために、社会的に論争を呼びそうな、危険性が高く倫理上問題を生み出す可能性のある科学上の問題を、明確かつ効果的に聴衆に伝える方法を学生に考えさせる。また、危険性が低く倫理的に問題がないと考えられる研究を促進するためには、どうやったらその社会的価値を高めることができるかも学生に考えさせる。

 こうしたカリキュラムは、日本の大学でも参考になるのではないだろうか。少なくとも、理学部を卒業した者が科学コミュニケーションに関する教養科目を履修していれば、社会において科学に対する考え方や知識の底上げに必ずや貢献するはずである。このことの意義は大きいと考えられる。できることなら、こうしたカリキュラムが卒業したあとの就職に有利であると、なおよいのだが。

 科学コミュニケーターになるのに「資格は必要か」、「評価は必要か」と問われたら、私は、できることなら資格は必要ない、できることなら評価も必要ないと答えるだろう。資格も評価も、無責任なトップがそういう人たちを勝手に選別する、あるいはランク付けするための手抜きの手段と思っているから、できるだけそうした無駄は排除したい。もっとも、同じ制度が長く続きすぎると弊害が出てくるから、そうなる前に何らかの対策は必要だろうが、少なくとも最初のうちはまったく必要ないだろう。とくに評価は、国立大学の独立法人化の例を見ても明らかなように、評価のための資料づくりの手間が膨大かつ面倒すぎて、本来の大学の活動を大きく阻害している現状では、何のための評価かまったくわからない。正当な評価であれば、本人の負担が限りなく少ないことを条件に認めてよいかもしれない。

2.3 科学コミュニケーター教育のむずかしさ

 連載第1回で指摘したように、国は国家戦略、国際競争力、産業政策、経済効果、雇用対策などのために、国民にもっと科学(科学技術)に関する理解が深まることを期待している。しかし、だからといって、国が本当に科学の本質を理解しているとは思えないフシがある。たとえば、大学院あるいは大学学部で科学ジャーナリズムをしっかり学んだ学生が、社会に出てから自分の経験と知識に照らして、国家政策批判、メディア批判、企業批判を堂々と行なったら、どうするのか。そのとき国や企業は、建設的な意見だとして、そうした批判を喜んで受け入れるだろうか。そういう人材を率先して起用するだろうか(今後の科学・技術のあり方については参考文献[7]あたりが参考になるかもしれない)。

 科学コミュニケーターは、科学だけを説明できればよいという性格のものではない。あくまでも科学に関する正しい考えや知識を伝えるのが仕事であって、教えられる側(生徒や質問者など)がときとして求めてくる「答え」そのものを教えることではない。これに対して、「それでは役に立たない」と反論される場合がある。科学ジャーナリストが従来のように科学の内容だけを説明するのであれば、難解な科学論文をかみ砕いてわかりやすく書き換えればそれで事は足りる。しかし、これからの科学コミュニケーターに求められていることは、科学を含んではいるが、科学以外の問題も重要な判断材料となる「複合的な問い」に対する「答えのヒント」である。

 「この食品は食べても安全ですか」、「健康に生きるための科学的理論はありますか」、「代理出産は倫理的には問題ありませんか」、「科学の知見が私の信仰する教団の教えと合致しないのですが」など、その人の人生観にかかわるようなことにまで答えを用意することは、科学コミュニケーターにとっては無理な注文である。これは、国民一人ひとりがもっと自分自身で科学を学ぶ努力をしなければならない問題、あるいは自分自身で解決しなければならない問題であり、次回で詳しくふれるつもりである。

 最後に、「正しい知識」について考えておきたい。正しい知識とはひとつではないし、時や場所、あるいは立場によって変化するものである。例をあげれば、戦争に対する評価は、戦勝国と敗戦国ではまったく異なる。また、同じ物質であっても、服用する量によって毒にも薬にもなる。「事実はひとつしかない」とよく言われるが、それは数字の世界のほんの一部であって、解釈ならばいくつも存在する。科学コミュニケーターの役割として、「何のため」、「誰のため」の活動なのか、を多方面から考えておく必要があろう。

 謝辞 ANUのカリキュラムの翻訳に関して相談にのっていただいた瀬野悍二先生に感謝いたします。

参考文献
  1. 花田達朗・廣井脩編:論争 いま、ジャーナリスト教育、東京大学出版会、2003.
  2. 花田達朗・ニューズラボ研究会編著:実践ジャーナリスト養成講座、平凡社、2004.
  3. 日本科学技術ジャーナリスト会議編:科学ジャーナリズムの世界、化学同人、2004.
  4. サイコムジャパン:科学コミュニケーション〜科学を伝える人たち、http://www.scicom.jp/science-communication/index.html
  5. 北海道大学、科学技術コミュニケーター養成ユニット、http://fox44.hucc.hokudai.ac.jp/~scicom/
  6. オーストラリア国立大学、理学士(科学コミュニケーション)、http://info.anu.edu.au/CPAS/Academic_Programs/Bachelor_Science.asp
  7. 佐々木力:科学論入門、岩波新書457、1996.
Contributed by Takeshi Urayama, Received October 28, 2005.Revised version received October 31, 2005.

©2005 筑波大学生物学類