つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200511TU3.

特集:科学コミュニケーターを考える

3. 求められる科学リテラシー

浦山  毅(共立出版編集部)

3.1 科学リテラシー

 先日、ある若い研究者の発言を聞いて、ちょっと考えさせられた。生物情報学(Bioinformatics)の世界に飛び込んできたその研究者は、高校で生物を選択しないで、大学の工学部、さらには工学系大学院へと進学した。いざ生物学を学び直そうとしたが、自分の知識は中学校レベルで止まっているというのだ。ここで問題となるのは、生物学(一般に他の自然科学でも同じことなのだが)の「知識」は後から補充できるかもしれないが、「考え方」のほうはもうほとんど身につける機会がない、という点である。とくに、高校で文系に進んだ人は、一生涯、科学の考え方にふれる機会はないにちがいない。

 連載第1回で、いまを生きる現代人はもっと科学に強くなることが必要であることを説いた。ここで重要なことは、科学には考え方と知識の2つがあって、現代人に本当に必要なのは考え方であるという点である。もちろん、知識は、あって邪魔になることはないが、一般の人が簡単に身につけられるものではないし、一般社会ではあまり役に立たないと思われる。

 ここに、「リテラシー」(literacy)という言葉がある。直訳すれば“読み書き能力”のことであるが、私が定義する科学リテラシーとは「科学的な考え方を身につけて、世の中のウソやまやかしを見抜く力」を指す。たとえば、「驚異!これを飲めば病気が治る」という新聞広告があったとしよう。あなたはこれの扱いを判断しなくてはならない。その物質がどういうもので、本当に病気に効くかどうかは、その時点では一流の科学者にもわからない。もし科学者がその気になれば、その物質を取り寄せて実験を行ない、効能があるかどうかを科学的・論理的に検証することになる。そして、本当に広告のとおりに「驚異」なら、科学雑誌や医学雑誌に論文を投稿して世界の科学者にその事実を知らしめて、さらなる検証結果を待つことになる。

 しかし、科学者ならば、実際に検証実験を行なう前に、科学的な考え方をもとに、その広告の真偽をふるいにかけるだろう。まずは、科学の常識として疑ってかかる。次に、客観的な状況を確認する。つまり、広告の内容を支持する論文は出ていない、学者の集まりである学会でも話題になっていない、広告主は研究者ではない、他の一般的な実験結果からそうした効能は考えにくい、仮に何らかの効果があったとしてもそんな価格で製造できるはずがないなど。そして、場合によっては、知っていそうな研究者仲間に確認をしたり、科学文献データベースで調べてみたりして、最終的にはやはり眉唾モノだと判断し、広告は無視することになるだろう。

 科学者といえども、すべての知識を記憶しているわけではないし、すぐに真偽を判断できるわけでもない。ましてや、そうした知識をもたない一般人はどんなにがんばっても、知識だけで広告の真偽は判断できない。そこで本当に必要なのは、科学的な考え方であり、科学者がするであろう思考方法をまねることなのだ。ところが、世の中にはまちがった解釈があふれていて、科学のちょっとした知識を身につければ、それで国民は科学に強くなると思っている人たちがいる。科学の○×問題に正解したり、雑学をたくさん知っていることが、科学リテラシーだと思っている人たちがいる。それは大きなまちがいである。

 本当の科学リテラシーを身につけることは、たやすい作業ではない。理想的には、科学や技術に関するおおまかな知識はいうに及ばず、科学の歴史、科学的・論理的思考方法、疑ってかかる精神、検証のしくみ、進化や生物多様性の本質的理解、統計の落とし穴、ウソを見抜く力などを身につけて、新聞やテレビの科学報道、巷で流行している健康法やダイエット法、がんを直す食品、はては数字を用いた政治的トリックなどの真偽を見破れる総合的な判断力が要求される。もちろん、自分だけの力ですべての問題を解決することは不可能なので、正しい数字やデータに到達できる情報検索術や相談できる人を見つける術なども身につけておきたい。

 メディア企業やジャーナリストにも科学リテラシーが欠如していることは、たとえばテレビの番組を見ていてもわかる。日本人のノーベル賞受賞に過剰に反応してしまい、受賞対象となった研究内容はそっちのけで、個人のプライバシーばかりを追いかける。科学番組とうたっていても、テーマの取り上げ方にバランスを欠いていたり、興味本位であったり、感情的であったり、不安を増長させるだけの番組の何と多いことか。新聞や雑誌の科学記事にしても、擬人化した動物が出てきたり、文体が「…ござる」だらけで読む気がしない記事もある。演出に工夫がいることはわかるが、静かにじっくりと科学を扱った番組や記事が少なすぎるのが現状である(そういう中では、NHKの科学番組「ためしてがってん」は創意工夫という点では群を抜いている)。

3.2 情報リテラシー

 ジャーナリズムの武器といわれるほど、メディアの力は大きい。世の中の悪巧みが、メディアの力で暴かれた例も多い[1][2]。ところが、高度情報化社会あるいはデジタル社会には、とてつもない落とし穴が潜んでおり、メディアの力をもってしても見破れない例がある。その例が、「情報操作」と「インターネット」である。うそや捏造、ごまかし、隠蔽、やらせ、政治利用、株価操作などは上手に行なわれると、ちょっとやそっとでは見破ることはできない[3]。

 情報操作の中でとくにやっかいなのが、都合の悪い情報を出さないという行為である。これは科学の世界でも行なわれる操作で、数あるデータの中に自説にとって都合の悪いデータが出てきたときに、あえてこれを無視するやり方である。「ないものをある」、「あるものをない」と言えばそれは捏造だが、無視した場合には、後でばれても、「異常なデータだと思った」とか「気づかなかった」とかの言い訳ができる。メディアを通じて、街頭インタビューで町の声を拾ったり、アンケートの一部を紹介したりする場合など、すべての結果を公表しないときにこうした操作が行なわれやすい(作為的なアンケートを作成して、自説に有利な結果を誘導することは実際に行なわれている[2])。科学の世界で捏造が発覚した場合には、実験の過程とすべての生データを記載した「実験ノート」を提出させ、調査の重要な証拠とする。

 一方、インターネットは有望なメディアに成長するかもしれないが、現在は無法地帯である。インターネット上に配信される情報のすべてがうそや捏造だとはいわないが、既存メディアのように大勢の人のチェックを経て配信される情報に比べれば、怪しい情報ははるかに多い。既存のメディアにおける企業ぐるみの情報操作や外部からの圧力に屈した記事改変などが次々に明らかになる[2]なかで、インターネット配信企業はインターネットの有用性を訴えているが、インターネットで配信される情報も何らかの形で第三者にチェックされないかぎり、インターネット上の情報をそのまま信用する気にはとてもなれない。

 情報リテラシーも、科学リテラシーと同様に「情報の本質を知ったうえで、情報としてのウソやまやかしを見抜く力」と定義することにすれば、これを身につけることも現代人には必要不可欠なことといえる(情報リテラシーを、ExcelやPowerPoint、一太郎などの使い方だと勘違いしている出版社や大学教師がいることは残念なことである)。具体的には、コンピュータやネットワークのしくみ、情報の探し方などの操作方法はもちろんのこと、疑ってかかる精神、情報の見方やデータの読み方、正しい情報の確認方法(ウラの取り方)、情報操作の見破り方なども身につける必要があるだろう。進歩の激しい科学の世界は、データも論文もコンピュータ内に保存され、ネットワークを通じて情報を得ることが常識となっているので、科学リテラシーを身につけるためには情報リテラシーの理解も要求される。

 情報がいろいろな意味で価値を持ってくると、情報をいちばん早く入手したり、情報を限られた人にだけ配ったりするなどの情報操作も行なわれるようになる。お金や高い地位にある人だけに情報が届くといったことが平然と起きるようになる。こうした事態を、情報格差(デジタルデバイド)といい、世界的な問題となっている。貧乏な図書館が雑誌の全文(フルテキスト)を購入できず、研究に支障を来たす場合なども、その一例である。

3.3 メディアリテラシー

 新聞や放送を通じて流される報道の恩恵は多大である。世界中で起きていることを私たちが瞬時にして知ることができるのは、こうしたメディアのおかげである。メディアは公共性をもち、ときとして権力に立ち向かう。表現・言論・報道の自由という精神の下で、国民の知る権利を行使するジャーナリストは、私たちにとって頼もしい存在である。しかし、メディアにも限界がある。また、科学に対するのと同じように、メディアに対する世間の見方も変わってきた。

 それまで、権力の見張り役として市民の味方だったメディアが、こんどは一転して市民から警戒される事態が起きるようになってきた。たとえば、記者たちが特ダネをモノにしたり、特落ち(一紙だけがネタを見逃してしまうこと)を避けようとするために、異常なほどの過剰取材で市民が不快な思いや迷惑をこうむる場合などである。当然、企業内や記者の間でも一定のルールを設定して度を超えないように注意はしていると思うが、熱のこもった現場の最前線でそれを守る(守れる)記者がはたしてどれぐらいいるだろうか。

 連載第2回で述べたように、メディアの世界でもさまざまな問題が沸き起こり、ジャーナリストの特権乱用、倫理観やモラルの欠如、情報提供者とのなれ合い、またメディア企業の購読数・視聴率偏重主義、広告主のいいなり、といった点が指摘されている[2]。本来は権力に向くはずのペン先が、ときには抗議や反論の手段をもたない私たち社会弱者に向くときがある。それらは、生活の撹乱、嫌がらせ、誹謗中傷、人権侵害、名誉毀損、営業妨害などとなって、私たちを襲う。一般の人にとって、こうした暴力をメディアから受けた場合には泣き寝入りをするしかなく、したがって私たちもふだんから取材されるときの防衛策を身につけておく必要が出てきた。

 そこで要求されるのが、「メディアリテラシー」である。これは、もともと取材する側のジャーナリストが身につけるべき内容として規定され、メディアの歴史、ジャーナリズム精神、テーマの取り上げ方、情報の信頼性と裏付けの重要性、取材現場での記者の振る舞い方、規制や圧力への接し方、取材される側の心理、個人情報の扱い方と匿名性、著作権・関係法規などをあげることができる。しかし、取材される側の私たちが、取材する側の生理やメディアの危険性について知っておくことも必要となってきた。

 メディアには、それなりの信頼感がある。たとえば、先の新聞広告などは、信頼できる新聞社が掲載を許可したのだから、内容があやしいはずはないと。ところが実際は、掲載料さえ払えば内容はほとんどノータッチである。いや、むしろ広告料ほしさに、広告主のもくろみに目をつぶったり、広告主を批判する記事を載せなくなったりする事態も実際に起きている[2]。インターネット配信企業も、配信されるデータの中身には干渉しないといっているが、有名なメディアに載ったからといって、その広告が信用できるとは限らないことは知っておいてほしい。こうしたメディアの悪しき姿勢をただすのも、メディアリテラシーの目的のひとつである。

3.4 リテラシー教育とコミュニケーション

 こうしたリテラシー教育は、早いうちから始めるべきであると考える。とくに、科学リテラシーはここで述べてきたように「考え方」を身につけさせることが必要なので、理系・文系に分かれる高校では文系の生徒にも教えるべきだと思う。いまの教育制度は受験重視で、成績さえよければそれでよいという風潮が強い。つまり、教育の中で本来もっとも必要なはずの人間形成を行なっていないし、人を人間性で評価しようとはしないのである。

 人の話をだまって聞く態度、自分の考えを人に説明するための表現力、そして人と議論するという姿勢、これらをひっくるめて人とコミュニケーションする能力が、いまの日本人にはもっとも欠けているのでないか。人とコミュニケーションができるということは、すべての人間活動の始まりである。そういう意味では、子供の教育に関して、大人の役割、家庭の責任がもっと重視されてよいと思うし、受験制度を見直せば教育の問題の多くは解消するものと信じる。

 そういう時代背景の中で、科学コミュニケーターの重要性を位置づけるとすれば、科学コミュニケーターは、科学のコミュニケーターである前に、人とのコミュニケーターであるということかもしれない。

参考文献
  1. NHK取材班編、桜井均著:埋もれたエイズ報告、三省堂、1997.
  2. 川崎泰資・柴田鉄治:検証 日本の組織ジャーナリズム―NHKと朝日新聞―、岩波書店、2004.
  3. 米田憲司:御巣鷹の謎を追う―日航123便事故20年―、宝島社、2005.
Contributed by Takeshi Urayama, Received October 28, 2005.

©2005 筑波大学生物学類