つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200503NK1.

特集:卒業

生物学類教育の評価+α

季村 奈緒子(生物学類 4年生)

 私は優等生でもなく、模範学生でもなく、それ以上に留学をしてしまったために筑波大学を2年とちょっとで卒業してしまう変わり者の学生である。それにしても短いながらに筑波大学をフル活用できたような気はする。他学類の授業を沢山受けてみたし、スポーツデイ委員をしてみたり、教育に関する勉強会に参加してみたり、軽くサークルに所属してみたり、食堂リニューアルで改装作業に参加してみたり、筑波フォトコンテストで入選してしまったり、友人と参加したスポーツデイ駅伝で準優勝をしてしまったりと、結構色々と筑波大学が提供する学生ライフに便乗したような感じである。それに比べると、生物学類が提供する教育にはあまり積極的になれなかった自分がいる。それは主に私の生物学に対する勉強の姿勢が歪んでいたからではあるが、大学に求める姿勢と現実との間にギャップを感じたからでもある。

 基本的に、どこかに所属しなくてもお金をそれほど費やさなくても「勉強」はできるものだと私は思っている。国立大学とはいえ、高い授業料を親に支払ってもらっている以上、できるだけのものを得たいという気持ちで大学に入学した。だからこそ多くの体験を積もうと思った。勉強も沢山しようと思った。興味を持ったことは自分で色々調べて勉強してみた。社会勉強を兼ねてバイトもしてみた。一時期は完全に自立できるだけの収入を得ることができ、そのおかげで大学を出ても生活していく自信はついた。学校でいくら一生懸命に勉強をしても最低限の生活をしていけなければどうしようもないと思って我武者羅にバイトをした時期があった。これは結果的に大きな教訓となった。一方で生物学類の勉強となると、それなりにやったつもりでいるものの、生物学に没頭する日々はなかった。何となく授業に出席し、テストで合格点を取るための最低限の勉強をし、マンネリな生物生活を送っていた。そんな自分が嫌になり、もともと飽きっぽい性格の私は新鮮さを求めて渡英することにした。マンチェスター大学に留学してみたらイギリスではかえって没頭しないのが当たり前というのを知り、ある意味安心した。マンチェスターでは生物学を勉強する気が湧き、研究とはまた別に久しぶりに楽しく生物学の勉強が捗った。個人の認識等の違いによって比較の仕方が変わってくるので筑波大学とマンチェスター大学では何が異なるのかははっきりとは言えないが、何となく教授陣にも学生たちにも日本に見るよりは覇気があるように感じ、教授からは熱意、学生からは真剣さが講義中に伝わってきていた。その時に大学という教育機関は勉強を教えられる場ではなく、勉強するきっかけを提供してもらう場だというのを改めて感じたのである。

 大学の学生育成に対する姿勢に一つ違和感を覚えたのは大学2年の夏である。私はその夏に多摩動物園でチンパンジーの飼育実習を行った。高校時代から霊長類研究に興味があって実習をしたいと思っていた私は2年のときに晴れて実習生に選ばれ、幸運にも第一志望であったチンパンジー舎の担当に就くことが出来た。しかし、実際に実習を行うまでに気分を害すような思いをした。動物飼育は動物にも飼育者にも危険を伴う可能性があると同時に多摩動物園の動物は東京都の大切な財産であるため、責任問題で誓約書が厄介だったのである。大学長の捺印が必要な書類等で事務の方には大分お手数を掛けてしまった。面倒なお願いをしていることは承知であったが、その時の担当者には嫌な顔をされてしまい、しまいにはこのような事態が再度起きないように実習のことは口外するなとまで言われてしまった。動物園での飼育実習と生物学の繋がりを全く理解してもらえなく、とても不快に思ったことが未だに思い出される。動物行動学に興味があって生物学を学びたい学生にとっては飼育実習というのは貴重な経験になると私は考えていた。実際チンパンジーの生態について知る貴重な経験をした上に進化学や行動学についても考える機会となり、新鮮な気持ちで生物学と向き合うことが出来た。係長の吉原耕一郎先生ご自身は生物学出身の方で、京都大学霊長類研究所の松沢哲郎先生とも関係を持っていたために私に霊長類研究についてお話しして下さった。良い出会いと刺激に恵まれ、とても大事な経験をしたと感じている。

 生物学が好きで生物学類に所属するどの学生も、自分たちの視野を広げるための刺激となる様々な情報を求めているに違いない。また、自分から進んで勉強がしたいと思える環境を求めているに違いない。先生方もそのような自主的な学生の姿を望んでいるはずである。自主的な学生の起点となるのはやはり講義を行う先生方であると私は感じる。「教授する」ことは辞書によると「児童・生徒に知識・技能を与え、そこからさらに知識への興味を呼び起こすこと」(三省堂・大辞林)である。「知識への興味を呼び起こすこと」という点に念を置きたい。先生はどのようにして生徒を学ばせる気にさせるか。教える仕事に就いたことのある人なら一度は悩んだことであろう。ある意味先生というのは自身が担当する教科を広報する責任がある。どう宣伝するかは先生それぞれのやり方があって当然だと思うが、それが一方的な教え込みだけにならないことはとても大事である。目に見える形でなくても常に先生と学生の間にはやりとりが行われている。先生の熱意が学生に伝わることで学生も勉強に精を出す。一生懸命な学生に応えようとして先生もまた一生懸命に教えたいと思える。この好循環を生み出すのが難しいのである。

 私が筑波で受けた授業ではやはり一方的な授業が多かったような気がする。日本では欧米のようなチュートリアルも盛んではないため、授業外でのやりとりのある勉強は自主的に企画しない限りはほとんど無かった。また、一学期内にこなす教科数が多かった。集中して一つの教科に取り組むことがそれだけ困難になった。実践的に学ばせるために実験・実習の最低単位数は設定されているが、それはとても良いことであると私は個人的に感じた。先生を人間的に知ることが出来る場であったし、先生の細かい指導を通じて教科に対する興味が自然と湧いた。先生にとっても学生にとっても講義よりもはるかに労力を要する実験ではあるが、学ぶ環境としてはあるべき姿に最も近いような気がする。実験から学べる内容というのは限られているため、講義という形での教授を選択せざるを得ないのは残念である。

 ここまで蛇足をしながら長々と大学教育云々と書いてきたが、大学で何をどれだけ学ぶかは結局、先生が教える内容以上に学生個人のやる気と吸収力に懸かっているのである。大人になれば学問は教えてもらうものではなくなる。それゆえに生物学類には学生が自発的に勉強する気を起こすような教育の方針を願いたい。以前にある先生ともお話ししたことがあるが、外部からの刺激のみならず、学生同士でも意識を高め合えるような教育環境を目指して行きたいところである。

Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received March 24, 2005.

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