つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200504TK.

特集:入学

過去から学び,現在を未来に映す。

桑原 朋彦(筑波大学 生命環境科学研究科)

 「世の中に 絶えて○○○のなかりせば 春の心はのどけからまし」。この歌の○○○に,ひらがな3文字を入れなさい。

 この問いに「さくら」としか答えられない君,もしかしたら受験勉強に毒されているかもしれません。在原業平とも古今集とも言っていないのだから,答えは「さくら」に限ったものではありません。私の場合は「かふん」ですね。本当に3〜4月はスギ花粉がなかったらさぞかし仕事も進むだろうし体も疲れないだろうなあと思います。法律でさえ時代とともに変わっていくのだから,人の心もとうぜん変わっていくでしょう。答えを1つに限定する条件はついていないのだから,1つであると決め付けてはいけません。
 大学での学問というのはこれに似ています。過去に積み上げてきたものはそれとして尊重しつつ,それにとらわれてはいけません。違う答えが今まで見つかっていなかっただけのことで,時代が変わることにより新しい答えが出てくることがあります。逆に,某IT関連企業のように,新しい答えを出すことにより時代を切り拓いていくという考え方もできます。1年生の皆さんは大学に入り,こういうことを理解したうえで,まず過去における蓄積を学ぶ段階にあります。講義を受けていても,それが唯一の答えなのか他に答えはないのか自問しつつ学ぶのと,ただ一所懸命に覚えるのとでは自ずと大学院へ進んだ後,あるいは社会に出た後の人間力が違ってきます。是非,批判的立場で講義を受けてください,大学というのは学問を通して人間力をつける場なのですから。

 文部科学省がゆとり教育の方針を転換しました。皆さんは高校までゆとり教育で教育されて,大学に入ってから苦労する年代と言えます。生物学類では,概論科目で高校レベルの復習を行うことをかかげ,間違った教育方針から生ずる弊害をできるだけ小さくする努力をしています。高校のときに生物を受験科目として選択しなかった学生は概論科目をしっかり学び,筑波大学のスタンダードレベルに到達するように努力しましょう。もし,概論科目が難しすぎたら,あるいはやさしすぎたら,Twinsで授業評価してください。先生方が応えてくれるはずです。学力の低下した学生が多くなってきた一方で,ゆとり教育は自分で考え学ぶことのできる学生も生み出しました。生物学類では,このような進んだ学生のために,飛び級,海外留学など,よりやる気が出るシステムを用意しています。できる学生は筑波大学のスタンダードレベルにとどまっている必要はありません。自分で学ぶ力をつけ,これらのシステムを利用して大学院進学あるいは就職・起業をめざしましょう。

 右上の文字は梵字の1つで日本語ではタラーク(サンスクリット語のアルファベット表記ではtrah)と読み,虚空蔵菩薩を表す種子として知られています。梵字の母胎であるサンスクリット語の発音では,最後のクはフランス語のrに似た音であり,脳に心地よい刺激を与えます。Webには梵字のサイトがかなりありますが,見た目の美しさ・妖しさに惹かれているだけのようです。実は,梵字は視覚だけでなく聴覚への刺激が非常に大きな意味を持ちます。ですから,タラークと読んでいたのではこのことに気がつきません。trahと原語(に近い発音)で読む必要があるのです。サンスクリット語には日本語の発音にない音があり,おそらくその音の重要性ゆえに,般若心経にはサンスクリット語の発音に漢字をあてたと思われるところがあるくらいなのです。ところで,タラークの文字は何に見えますか,鳥の頭?実は,梵字は表音文字であり,表意文字ではありません。ですから,字は発音を決めるものであり,字の形が意味するものはないはずです。それにしては,字自体に何か意味があるような妖しい雰囲気を漂わせていますよね。書いてある線とそれによって作り出される空間とが芸術的といってもよいほどにマッチしています。ちなみに上記のクの音はどの部分かというと,右側の点々(ヴィサルガ)の発音です。梵字には切継点画といって子音に子音を重ねて文字を作ります,例えばta + ra = traなので,raの字の半分をtaにくっつけてtraという文字を作ります。この場合は2つですが,子音の数が3つ以上になることもあります。それ故に,切継点画が自由自在にできる梵字のフォントは難しいのです。昔,某先生とキーボードでどのような梵字も打ち込める梵字フォントができたらいいよね,なんて言っていたのですが,お互いに本業が忙しくなり,うやむやになってしまいました。筑波大学中央図書館には梵字で書かれた真言(おまじない)の本もあります。興味のある人は,生物学類における講義の合間を縫って,自分で勉強してみてください。自分でやる勉強ってとっても面白いですから。

 さて,新入生の皆さんにお薦めしたいことがあります。それは自分が本当は何を望んでいるかを確認するために,X年後の自分を思い浮かべ,どうなっていたいかを紙に書いておく(エクセル/ワードに記録しておく)ことです。X年後というのは区切りになる年の意味で,さしずめ皆さんだったら当面の区切りは4年後ということになるでしょうか。人によっては,(多くの人が元旦にするように)1年単位で目標を決めることもあるでしょうし,大学での教育を大学院と一体で考えている人は6年後あるいは9年後となるでしょう。人によってX年後は違った時でよいと思います。最初は具体的に書く必要はありません。薄ぼんやりとでも浮かぶ未来像を描いてみましょう。書くことを通してそれが次第に具体化してきます。自分が考えていることを具体化させることは重要です。必ずしも,人間は自分が思っているようには行動していませんから。思っていることと現在やっていることのギャップに驚かされることもしばしばです。
 わかりにくいので私の例を書きましょう。区切りは定年を迎え,大学を辞める時です。どうなっていたいかというと,1,健康でいること。2,妻と仲のよい状態でいること。3,子供たちが健康で自分の選んだ道に進んでいること。で,次にようやく,4, Thermococcus属の細胞融合の研究を完結させる,と研究のことがきます。気がつくことは,自分は家庭が第1で,仕事は2番目と考えているということです。これは驚きでした。それにしては今の生活はかける時間の割合がまったく逆で,むしろ,家族に負担をかけている状況です。このこと自体は,それで給料をもらっているのですから,むしろ当然かもしれませんが,それに気がついて生活するのと気づかずに生活するのとでは大きな違いがあります。X年後の自分に向けて努力していくと,今の生活が充実してきます。大事なものが見えてきます。どうしたらよいか迷ったときに行動すべきことの優先順位がつきます。是非,今の生活における指針を失わないために,X年後の自分のことを紙に書いて見ることをお薦めします。

Contributed by Tomohiko Kuwabara, Received May 2, 2005.

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