つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200506HS.

特集:下田臨海実験センター

下田における研究生活 ―青森からの移転を経て―

佐藤 裕公(東北大学大学院生命科学研究科博士課程後期2年(筑波大学特別研究学生))

はじめに

 私がこの下田臨海実験センターにきたのは、昨年の4月である。その前は、青森市の東北大学理学部生物学科附属浅虫臨海実験所(現:同大学院生命科学研究科附属浅虫海洋生物学研究センター)にいた。当時浅虫で助教授をされていた稲葉一男先生が下田に異動されることとなり、学籍は東北大のままで筑波大の特別研究学生として下田に行くことになったのである。先生の研究室にいた学生は皆同じく下田に移った。私にとっては、住み慣れた東北の地を離れて、実に1000km以上の移動をしてきたことになる。雪の残る青森を出発して初めて車で下田市に踏み入った時に、道路の両側に植え込んであるヤシやシュロの並木を見て、「これは大変な所に来たな...。」とつぶやいたのをよく覚えている。私にとっては本当に大きな環境の変化であった。
 下田臨海実験センターでの研究については、渡邉浩先生(筑波大学名誉教授)の群体ボヤの血球細胞を用いた無性生殖の研究や、斉藤康典先生の研究室(現在は筑波本学助教授)でのイタボヤ類の研究など、自分の実験材料であるホヤに関わることしかついてしか知らなかった。あとは、ひたすら南国のイメージを思い浮かべている間に、センターの学生部屋に机をいただくことになったのである。

研究について

 稲葉先生は、これまでにサケ科を中心とした魚類やウニ、ホヤといった海産生物の精子を材料として、鞭毛運動を司るモーター蛋白質、ダイニンの構造・制御機構について先進的な研究をされてきた。私は、学部時代に行われた臨海実習で精子の鞭毛運動に関わる研究に感動し、同時に先生の熱心な情熱に魅かれて本学の仙台から青森に移った。

 主に用いた材料は、カタユウレイボヤの精子である。カタユウレイボヤは、2002年にドラフトゲノムシーケンスが公開され、cDNA、ESTなどの遺伝子ライブラリーが急速に整備された生物である。真核生物の鞭毛/繊毛は、多種の蛋白質複合体が規則的に配置された実に機能的な運動器官といえる。その蛋白質群を包括的に解析するための強力なツール、プロテオミクス解析の系を構築するには、信頼度の高い遺伝子の情報が不可欠といえる。その点でカタユウレイボヤは実に格好の材料といえた。

 我々は、先生の解析されたホヤ精巣のEST解析の情報をもとに、ゲノム、cDNAの遺伝子情報を統合し、MSCITS/PerMSというホヤ精巣蛋白質のプロテオミクス解析用データベースと検索用プログラムを完成させた。これにより、2次元電気泳動などによって担体中で分離した微量の鞭毛蛋白質から高精度にその蛋白質を同定できるようになった。

 私も、修士課程のテーマとしてダイニンの活性制御に重要な蛋白質複合体であるラジアルスポークの単離と成分の同定に取り組み、種々の重要な蛋白質を決定することができた。蛋白質の質量分析は都立老人研の戸田年総先生のもとで行い、その他の系は、時に研究室一丸となって一から構築した。

下田に移って

 慣れ親しんだ青森の研究室を離れる時にはやはり感慨深いものがあり、同時に新しい環境への不安もあった。唯一の大道具とも言えるHPLC装置は譲り受けることができ、蒸留水装置やフリーザーの整備を確認して、実験環境の不安は大分取り除かれた。あとは、センターでの生活環境への不安と、下田という土地へのイメージが前述の通りに残っていた。

 実際に下田に来て第一に感じたのは、センターの持つ土壌の豊かさであった。建物は新しいものばかりではないが、どこも広くて管理が行き届いており、不便さを感じることはなかった。低温室や電子顕微鏡等も丁寧に管理されているのがよくわかった。外来の研究者や他大学の実習も多く、常に新しい空気が入ってくる。本学とは離れた、臨海施設ならではのざっくばらんな交流の空気が、特に下田では濃く流れているというのがよく伝わった。

 とは言っても、移った直後には必要な機材がそろわず不便なことはあった。だがそれも、稲葉先生や、昨年度のセンター長でおられた沼田治先生の配慮とセンターの方々の協力があって、ものの3ヶ月ほどで以前の環境と変わらぬほどに整った。現在は、遺伝子実験から蛋白質の精製・分析など、センターの中で何の不自由もなく細胞生物学/生化学の研究が行え、青森で構築した系もさらに大きくなって盛んに稼働している。技官さんたちにもお世話になり、青森で不可能に近かったホヤの飼育も実に好調である。設備も飼育も、今後さらに拡張されることが決まっていて楽しみでならない。ここで、まだまだ拡張を受け入れるだけの余力と気風が残っていることが特筆に値すると私は思う。今の下田には、“ここはいずれ世界に注目される場所になるだろう“と、自然に感じさせる空気がある。

 センターには、海外の第一線で活躍される研究者の方々も訪れる。昨年の夏に来所されたSteve King博士(米・コネチカット大教授)は、ダイニン研究の先導者であり、パーティーや盛んなセミナーを通じた交流は、私にとって代え難い経験となった(写真)。King博士もまた、ホヤの精子を研究に用いる有用性や下田の施設の充実ぶりにおおいに感嘆され、その後も博士の研究室の方が訪れて研究をされるなど、交流は深いものとなっている。

 美しい研究環境は、自然科学を学ぶ人々にとって大きな幸いであると私は痛感している。学生の人数は今も増え続けており、人的環境も豊かになった。今後ますます下田臨海センターは大きくなるだろうと思うが、ぜひ新しくこられる学生の方には楽しみにしていただきたい。幕府開港の地の下田で、世界の第一線に視線をおいて研究する愉快さを伝えたいと思う。


写真:Steve King博士の研究室の方々とセミナー参加者。(後列左から2番目が稲葉先生、同5番目がKing博士、7番目が筆者。2004年5月17日)

Communicated by Kazuo Inaba, Received June 24, 2005.

©2005 筑波大学生物学類