つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2005) 4: TJB200506KI2.

特集:下田臨海実験センター

ホヤ精子から広がる生命科学の研究

稲葉 一男(筑波大学 生命環境科学研究科 下田臨海実験センター)

 研究紹介に関する文章はいろいろなところに出しているので、本稿では少しくだけた文章で研究の経緯なども含めて書いてみたいと思います。私は、海無県である山梨県で生まれました。かなりの田舎でしたので遊ぶものと言えば山と川で、当然生き物に大変興味を持つようになりました。私に尊い命を奪われた昆虫やヤマメなどの淡水魚は数知れません。一方で幼少の頃は病院通いが多かったせいか、病気とか体の仕組みにも大変興味がありました。手塚治虫のブラックジャックが流行ったことも拍車となり、医者になりたいと思うようになりました。しかし、「これからは医学も生物学もそんなに変わらない時代になるよ」といった高校の先生のご意見を受け入れ(というか一次試験が悪かったのが本当の理由ですが)、生物学の道に進むことになりました。生命科学の流れを考えると、今となっては大変良い選択だったと思います。山梨県出身ですが、大学院時代に行なったウニ精子の研究をきっかけに、その後どっぷり海の生物の研究に浸かることになりました。これまで助手、助教授時代に二つの臨海実験所で過ごし、2004年にここ筑波大学の下田臨海実験センターに赴任してきました。

 大学院時代からこれまで、主に精子の研究をしてきました。精子は究極の細胞であり、受精という大切な役割を果たすために形態的にも機能的にも極端に分化しています。魅力的な形、素早い波打ち運動や卵への突進と受精、そして発生過程で再び現れ、連綿と続く生命の橋渡しになる細胞です。臨海実験所に長いせいか、様々な生き物の精子を扱うことができました。これまで腔腸動物からゴカイ、アワビ、二枚貝類、フジツボ、カニ、イカにタコ、棘皮動物、ホヤ、ナメクジウオ、魚類(釣りが好きなせいか、これは最も多い)など、いろいろな精子を観察し、また実験に使いました。クジラの精子で実験したこともあります。生き物が見せる現象はそれ自体大変面白いのですが、私はそれがなぜ起こるのか、その分子メカニズムまで突き止めなければ気がすみません(もちろんいろいろな視点が生物学にはありますが)。そこで大学院や助手時代は、生化学が行なえるようにと大量に精子を得ることができるウニやサケの精子を研究材料に用いました。酵素などの活性や機能を調べるために、数百ミリリットルの(時にはリットル単位の)精子から数日かけてあるタンパク質を精製して実験することの繰り返しでした。細胞をつぶしてから、できるだけ細胞内での活性を維持したままの状態でタンパク質を精製するのはたいへん難しく、徹夜もしばしばありました。そうした研究を通じて、「生きて」いるタンパク質の扱いが身に付きました。ただし、重要なタンパク質を発見しても、その完全な一次構造を決定するためには、その遺伝子を単離する必要がありました。そのために、タンパク質を大量に精製して、そこから部分アミノ酸配列をまず決定しなければなりませんでした。これは大変な労力で、半月くらいかけて集めたサンプルから何も情報が得られなかったような場合にはかなりがっかりしました(今風で言えば、「ヘコミ」ました)。

 そこで、遺伝子の方から攻める必要性を感じ、鞭毛の運動装置(すなわち軸糸)のタンパク質の遺伝子を網羅的に集めてしまおう考えました。ホヤを出発材料とし、精子の軸糸を丸ごとウサギに免疫し、そこで得られた抗体を用いて選択的に軸糸タンパク質の遺伝子を単離しました。結局、新規タンパク質も含め76種の軸糸タンパク質を単離することに成功しました。この研究と相まって、我が国でホヤのゲノムプロジェクトが進行し、私も精巣の発現遺伝子の解析(EST解析)を担当することになりました。今ではゲノムドラフト解析も整備され、ゲノム科学的なアプローチで精子の機能を解析する基盤が出来上がりました。最近我々の研究室では、ゲノム情報を利用して、質量分析機により迅速かつ多くのタンパク質を同定するシステムを確立しました。プロテオミクスと呼ばれるこの研究手法により、精子がどのような分子で組み立てられているのか、その全貌を明らかにする上で強力なツールを手に入れることができた訳です。分子が同定されたら、結局は分子どうしの相互作用を知る必要があり、大学院の頃から用いてきたタンパク質化学の手法が再度必要になってきました。生物学はミクロからマクロまで、いろんな局面の「相互作用」を探ることだと思います。

 現在の我々の研究テーマとしては、(1)精子活性化の分子機構(運動装置の活性化、ミトコンドリア排除機構)、(2)分子モーターダイニンの構造と機能制御に関する研究、(3)精巣に発現している機能未知遺伝子の解析、(4)精子-卵の相互作用に関する研究(特にホヤの自己非自己認識の分子機構)、(5)発生や器官形成における軸糸の役割などが中心となっています。もちろん、多様な海の生物を用いて、受精環境の変化に伴った生殖機構の進化や、海産生物のゲノムリソースに関しても研究を行いたいと考えています。精子の運動装置である軸糸は、我々の体内のいろいろな器官に存在し、大切な役割を果たしていることが最近続々と明らかになってきています。ホヤは脊椎動物の起源にあたるため、ホヤで解析している新規遺伝子が、ヒト疾患に関わる重要な遺伝子である場合もかなりあります。ホヤ精巣の遺伝子発現の研究を通じて、生殖と神経、免疫といった現象が、もともとはお互いに密接に関係していたのではないかといった概念も浮かび上がってきました。ホヤの研究から生物学の概念を覆す、誰も思いつかなかったような概念を生み出すようなチャレンジングな研究を、自然豊かなここ下田で行いたいと思います。


図1 カタユウレイボヤ


図2 センター内の遺伝子実験室


図3 生化学実験室

Contributed by Kazuo Inaba, Received June 24, 2005.

©2005 筑波大学生物学類