つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200603SE2.
特集:TJB学生編集部
退職される先生方に伺うTJB学生編集部(筑波大学 生物学類)
平成18年3月末をもって定年退職される生物学類の4名の先生方に、お話を伺った。ご多忙の中、インタビューに応じてくださった及川先生、鈴木先生、高橋先生に、そして貴重な文章をいただいた藤井先生に深く感謝したい。 教えるということ及川先生は学生に答えを示さない。質問しても直接的な答えを口にしてくれない。あえて核心をあらわにしない先生の言葉に、聞き手はいつも考えさせられることになる。考えさせることで、先生は学生自身に何かをつかませようとしているのだろう。(TJB学生編)
及川 武久 筑波大学生物科学系 教授 生態学は人間社会の問題へ及川 武久(筑波大学 生命環境科学研究科) TJB――研究者の道を志した動機は何ですか。 TJB――研究生活の中で一番うれしかったこと、悔しかったことを教えてください。 TJB――退官後の予定や計画はありますか。 TJB――先生にとって、生態学とはどのようなものですか。 TJB――学生へのメッセージをお願いします。 好きこそ物の上手なれ鈴木先生は応用生物化学系の主要な講義、実験を数多く担当されてきた。昆虫好きで有名な先生の講義では、さまざまな昆虫の名前が出てくる。コクヌストモドキ、オオカバマダラ、ジャコウアゲハ、アカスジキンカメムシ……。それらを熱く語られる先生の姿がとても印象的だった。(TJB学生編集部)
虫を追って、どこまでも鈴木 隆久(筑波大学 生命環境科学研究科) TJB――研究者の道を志した動機は何ですか。 TJB――研究生活の中で一番うれしかったこと、悔しかったことを教えてください。 TJB――退官後の予定や計画はありますか。 TJB――先生からご覧になった筑波大学の変遷をお聞かせください。 TJB――学生へのメッセージをお願いします。 飾らない言葉「女なんてお呼びでない」という時代に、職を得るために研究者となった、と語る高橋先生。しかし先生が研究者の道に進まれたのは運命ではないだろうか。研究が、ゾウリムシが、発見が大好きだという先生の思いが、先生の飾らない言葉の中にひしひしと感じられるからだ。(TJB学生編集部)
高橋 三保子 筑波大学生物科学系 教授 ゾウリムシ、そしてゾウリムシ高橋 三保子(筑波大学 生命環境科学研究科) TJB――研究者の道を志した動機は何ですか。 TJB――研究生活の中で一番うれしかったこと、悔しかったことを教えてください。 TJB――退官後の予定や計画はありますか。 TJB――学生へのメッセージをお願いします 偶然という宝物人生は偶然の連続なのかもしれない。ただその偶然を見逃すか、見逃さないかが人生の分かれ道なのだろう。藤井先生は、これまでの人生で出会った偶然をチャンスに変えてこられた。個体群生態学との出会いも、恩師の先生方との出会いも、すべてが偶然の積み重ねだと先生はおっしゃる。私たち学生がこれから出会うであろう偶然の数々に、どう対処していけばよいのか、先生から学ぶところは非常に大きい。(TJB学生編集部)
藤井 宏一 筑波大学生物科学系 教授 世の中、偶然ばかり藤井 宏一(筑波大学 生命環境科学研究科) 人それぞれ、人生のいろいろな時期に、将来を決定するような重大な決断を下さざるを得ない場面に遭遇する。それは人から押し付けられる場合もあり、まったく自分の自由意思で決める場合もある。高校卒業を間近にすれば、どこの大学で何を勉強しようかと迷う。大学卒業が近づけば、就職しようか、大学院に行こうかと迷う。どのような場面でも、大抵の場合には選択肢はいくつかある。しかし、その中の一つに決めなければならない。次に決断を下す場面に出くわしたときには、その前の決断によって選択肢は狭まってくる。このように人生では、生物の進化と同じように多くの場合、次にやれることは過去という制約の中でしか選択肢はない。自分の過去を「ちゃら」にして新しい選択肢を採ることは決して不可能ではないが、多分に難しい。さらに生物の進化と同じように、その選択には偶然という要素が重要な役割を果たす。 私の父は、京都で友禅の図案を描く絵描きで、自宅で筆を振るっていた。半分自由業のようなもので、好きなときに好きなことができる立場にあったからか、そして多分自分もしたかったからかと思うが、小さいころの私を比叡山、鞍馬山、貴船など京都の周辺へ昆虫採集によく連れて行ってくれた。自宅では、父と一緒に日本の昆虫学の草分けでもある松村松年の昆虫図鑑などとにらめっこをしながら標本を並べて喜んでいた。 そのような経験もあって、大学に進学するときには生物学を勉強したいと思い、受験雑誌などで京都大学についての記述を読んだりした。特に興味をそそられたのは農学部遺伝学研究室で、教授は木原均という世界的に有名なコムギの遺伝を研究している人だった。その研究室では世界各地に野生のコムギの採集に出かけ、卒業生には海外の大学で研究を続けている人も多くいるとの記述があった。ここぞと思い、京都大学農学部農林生物学科へ入学した。 しかし、入学後に事実を知って愕然とした。木原教授は定年を待たずして国立遺伝学研究所の所長として転任されてしまったのだ。さらに、実際に遺伝学の講義を聴いてみると、あまり興味が持てない。そのころ、同じ農林生物学科の昆虫学研究室、内田教授の個体群生態学(正直なところ、当時は個体群という言葉さえも知らなかった)の講義を聴いて感動し、内田教授の下で卒業論文研究をすることになり、以後今日まで昆虫を材料とした個体群生態学の研究を続けることになった。付け加えるならば、先の遺伝学研究室の卒業生には海外の大学などで研究を続けている人が多くいるという記述は、確かに事実ではあったが、大学に入り実際に遺伝学研究室が隣にあり、その事情を知るようになると、卒業生が海外へ行くのは、ただ就職口がないからだということが分かった(情報には気をつけよう)。 このように、大学入学までの私の人生では自分の将来の方向は、かなり自分の意思で決めていたような気がする。しかし、以後の人生ではかなり様子が異なる。 私が京都大学修士課程2年の夏、米国カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)からHuffakerさんという人が京大昆虫学研究室を訪問した。研究室での講演後、彼は誰かUC Berkeleyへ留学したい人はいませんかと尋ねた。そのときには、私自身も含めて誰も手を挙げる学生はいなかった。ところが、修士2年の12月ごろになって、私はなぜか留学してみたいという気になり、指導教官の内田先生にその旨を伝えた。先生は、早速思い当たる有名人に問い合わせをしてくれることになり、まずシカゴ大学(イリノイ州)のParkさん、UC BerkeleyのHuffakerさん、そしてカンザス大学のSokalさんの3人の名前を挙げた。早速これらの人たちに問い合わせの手紙を書いたところ、一番早く返事が来たのがSokalさんだった。私は深く考えることもなく、また内田先生の勧めもあってSokal先生の下に留学をすることに決めた。そのとき以来、私の人生はマクドナルドのモットーに似て、“First come, first serve”ならぬ“ First come, first take”の決断で人生を過ごすようになった(その後、米国でHuffakerさんにお会いする機会があったが、彼は「何だ、君はSokalの学生になったのか。もう少し早く僕が返事を書いていたら、僕の学生になっていたのにね」と言われたことがあった)。 米国での学生生活も終わりに近づき、学位(Ph. D.)が取れそうになったので、その後の身の振り方を考える必要が出てきて、これまた有名人であるプリンストン大学(ニュージャージー州)のLewontinさんとカナダ、British Columbia大学(UBC)のHollingさんの2人にポストドクの可能性を打診した。すぐさま返事をくれたのがHollingさんだった(実はHollingさんは、私が学部4年生のころに書いた論文を知っていてくれたらしく、彼の頭の中に私の名前が残っていたので、私から問い合わせがあったときには躊躇せず採用したと後日聞いた)。直ちに決断し、学位を取るとUBCへと旅立った。ポストドクというのは大抵の場合、長くて2年程度である。その後のことを考えると、うかうかしていられない。UBCへ到着直後から、本格的な職探しを開始し、大学の掲示板や、『Science』の求人広告などを見ながら、あちこちへ応募を始めた。おそらく2桁の数の手紙は書いたと思う。面接のためにいくつかの大学を訪問し、講演をしたり、教官や学生たちと議論したりもしたが、その中で最初に正式なオファーが来たのが米国Purdue大学(インディアナ州)であった。例によって、躊躇することなくそのオファーを受け入れ、赴任の準備に着手した。ところが、その頃はカナダUBCにいたので、米国へ再入国、しかも大学の教員として入国するためには、米国の労働省の許可を必要としただけでなく、さらに米連邦捜査局(FBI)、そして日本の警察からの「過去がきれいである」との証明書なども要求され、結局米国へ再入国するまでに1年近くかかり、UBCでは2年間、ポストドクとして過ごした。 Purdue大学へ助教授として赴任して何年かたったとき、UBCにいたころに同じくポストドク.として日本から来ていて知り合いになった人から、筑波大学に環境科学研究科が設立されることになり、その教官を募集しているから応募したらという連絡が来た。せっかくの話だと思い、履歴書だけでもと送った。忘れかけていたころ、筑波大学から帰国せよとの通知が届いた。ちょうどそのころは、全米科学財団(NSF)からの研究費も獲得し、大学での研究も軌道に乗り始めていた時期でもあり、まずい状況に追い込まれる羽目になった。よほど辞退しようかと思ったが、2、3人の日本人から日本の大学でオファーがあったのに、それを断れば、もう2度と日本の大学へは就職できないと言われ(その真偽は今もって分からないが)、自分は後半生を米国人として過ごすべきかなどといろいろと悩んだ末、帰国することに決め、赴任を1年遅らせて、米国での後始末を済ませた後、筑波大学へ赴任した。 筑波大学へ赴任後は、居心地がよかったのか28年程も長居をすることになった。最後の数年は、専攻長、研究科長、修士課程長などの役をこなすことになったが、これらの役職への就任もそれぞれ偶然の要素によるものが大部分であるが、そのあたりは、まだ生々しいところもあるので控えさせていただきたい。 このように、私の人生のかなりの部分は偶然の積み重ねといってよい。私はこれまでに3人の師に巡り会うことができた。内田先生、Sokal先生、そしてHolling先生である。みな偶然の出会いである。それぞれ日本、米国、カナダを代表する世界的に名の知られた研究者であり、それぞれが強烈な個性を持ち、誹謗も多々ある先生であるが、私にとってはこれらの先生に出会えたことはこの上ない幸せであった(ちなみに、Purdue大学へ面接のために訪問したとき、生物科学科の科長から、「この3人から推薦状を書いてもらえるような人を断ることはできないよね」と言われ、思わず「私自身の業績も評価してください」と言いたかった)。 偶然のチャンスはいつ、どこに現れるか予測できない。しかし、われわれにはそれに対処すべき準備の方法はある。チャンスが現れたとき、「はい」といって手を挙げられるように準備しておくことである。いつ手を挙げるチャンスが来るかは分からない。しかし、そのチャンスを確実に手にするだけの準備はしておこう。 蛇足になるが、上記と関連して近ごろよく耳にする「大学・大学院教育の実質化」ということについて一言付け加えておきたい。米国やカナダで大学院学生、ポストドク、そして大学教員を経験した者から見れば、日本の大学での教育は、まさにチクワのようなものである。実質化のためにはチクワの穴をたとえチーズでもよい、とにかく中身豊かなものにしなければならない。大学での1単位とはどんな定義なのかさえも知らず、ただたくさん単位を取って喜んでいては、グローバルスタンダードには程遠い。もちろん、この問題は学生だけの責任ではなく、教育を与える側にも問題がある。大学院は研究をするところだから、講義など聴かなくてもよい(あるいは、教員の側からは講義などしなくてもよい)などと考えるのはおこがましい。知っていなければならないことは山とある。それこそが、チャンス到来のときに手を挙げられるかどうかの境目なのだ。 Communicated by Shinobu Satoh, Received April 13, 2006.
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