つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200603SE2.

特集:TJB学生編集部

退職される先生方に伺う

TJB学生編集部(筑波大学 生物学類)

 平成18年3月末をもって定年退職される生物学類の4名の先生方に、お話を伺った。ご多忙の中、インタビューに応じてくださった及川先生、鈴木先生、高橋先生に、そして貴重な文章をいただいた藤井先生に深く感謝したい。

教えるということ

及川先生は学生に答えを示さない。質問しても直接的な答えを口にしてくれない。あえて核心をあらわにしない先生の言葉に、聞き手はいつも考えさせられることになる。考えさせることで、先生は学生自身に何かをつかませようとしているのだろう。(TJB学生編)


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及川 武久 筑波大学生物科学系 教授
生命環境科学研究科生命共存科学専攻(理学博士)。1971年、東京大学大学院理学研究科博士課程修了。1972年より東京大学理学部助手を務める。1978年、筑波大学生物科学系講師に。助教授を経て1993年より現職。地球環境の変化に対する陸域生態系の応答を研究テーマとし、生態情報を組み込んだ生態系モデルの開発、生態系の将来の予測を目標としている。生物学類では、生態学概論、植物生態学などの講義を担当。

生態学は人間社会の問題へ

及川 武久(筑波大学 生命環境科学研究科)

TJB――研究者の道を志した動機は何ですか。
及川――自分の適性を考えたとき、企業の中の歯車の一つとして働くことは不向きであるし、教職について生徒たちを指導することも恐れ多い感じがしました。それよりは未知の世界を少しでも明らかにしていくことが、自分には向いている感じがしたからです。

TJB――研究生活の中で一番うれしかったこと、悔しかったことを教えてください。
及川――これまでの研究生活の中で、残念ながら、特筆して目覚ましい成果を挙げたことはありませんので、特段うれしかったということはありません。しかし、地球環境変化の生態系影響という新たな研究分野に取り組む多くの親しい研究仲間に恵まれて、仕事を進められたことは幸せでした。
 一方、特に悔しい思いという経験もありませんでした。

TJB――退官後の予定や計画はありますか。
及川――進行中の環境省のプロジェクトにきりをつけるため、1年間だけ活動します。その後のことは未定です。

TJB――先生にとって、生態学とはどのようなものですか。
及川――私は森林や草原など、自然のままの生態系を対象として研究を始めました。しかし、人間活動の生態系影響が重大な意味があることに気づき、人間社会の問題へと研究の重点が移りました。

TJB――学生へのメッセージをお願いします。
及川――
それぞれの人には、その人なりの独特の能力、才能があると思います。自分の適性はどこにあるかじっくりと探って育て、自分にしかできない仕事に突き進んでください。


好きこそ物の上手なれ

鈴木先生は応用生物化学系の主要な講義、実験を数多く担当されてきた。昆虫好きで有名な先生の講義では、さまざまな昆虫の名前が出てくる。コクヌストモドキ、オオカバマダラ、ジャコウアゲハ、アカスジキンカメムシ……。それらを熱く語られる先生の姿がとても印象的だった。(TJB学生編集部)


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鈴木 隆久 筑波大学応用生物化学系 教授
生命環境科学研究科生物機能科学専攻(農学博士)。1965年、東京教育大学農学部卒業。1967年、東京教育大学大学院農学研究科農芸化学専攻修了後、助手となる。1978年、筑波大学応用生物化学系講師に。助教授を経て、1993年より現職。昆虫を中心とする生物間の相互作用物質の構造と機能について研究を行う。生物学類では、有機化学、生物活性科学、化学生態学などの講義を担当。

虫を追って、どこまでも

鈴木 隆久(筑波大学 生命環境科学研究科)

TJB――研究者の道を志した動機は何ですか。
鈴木――
小さいときから虫が好きで、昆虫を捕まえては図鑑で名前を調べていました。高校時代、化学、特に有機化学が好きになり、大学は生物と化学が勉強できる農芸化学を目指して東京教育大学農学部に入学しました。大学3年のとき、恩師の武藤教授の「農薬化学」の授業で、性誘引剤・性誘引物質やイエバエの誘引物質の研究についての話があり、非常に新鮮な驚きを感じました。今から考えると性フェロモンの話ですが、当時はまだフェロモンという言葉も全く使用されていませんでした。そのような物質があるということが新鮮で面白く、卒論研究で武藤研究室に進むことにしました。学部卒業のとき、武藤教授から助手にならないかと言われ、大学院修士修了まで待ってもらい、修士修了と同時に助手になりました。武藤教授との出会いがきっかけで研究者としての道を進むことになったわけです。
 学部および修士時代は合成殺菌剤の研究がテーマでした。フェロモンの研究ではありませんでしたが、合成のテクニックを身に付けることができ、後の研究で合成による構造決定に役立っていると思います。助手になってしばらくしてから、以前からやりたかったフェロモン研究にやっと着手しました。

TJB――研究生活の中で一番うれしかったこと、悔しかったことを教えてください。
鈴木――
やはりコクヌストモドキ類の集合フェロモンの発見と構造決定ができたことです。フェロモンの研究は一流の研究者でないと構造決定は不可能ではないか、と初めは思っていたので構造決定を世界に先駆けてできたときは本当にうれしく、「私でもできた」という喜びと自信になりました。この虫は世界中に分布し害が大きいので、世界中の研究者がフェロモンの構造決定を狙っていたはずです。さらにはこのフェロモンの生合成経路を解明できたことも大きいです。ただ、フェロモンがどこから分泌されるのか、分泌腺の特定ができなかったことが心残りです。(分泌腺の場所はいまだに不明です。)
(編集部注:コクヌストモドキ類は貯穀害虫(甲虫)。オスが集合フェロモンを出す。

TJB――退官後の予定や計画はありますか。
鈴木――
私は退官後は仕事を離れますが、大学以来40年間、趣味で撮り続けてきた高山植物など植物の写真がたくさんたまっています。まず、これを整理して植物の写真集を自費出版しようと思います。さらにまだ撮影していない植物の写真を撮ることと、まだ登っていない植物の宝庫、北海道アポイ岳や岩手県早池峰山および北海道の礼文島にもぜひ行きたいと思っています。大学の研究では昆虫を扱っていましたが、植物と昆虫は密接な関係にあるので、仕事上で植物の知識が大いに助けになりました。また、植物愛好会などに入って活動したり、小・中学生などへ昆虫や植物の
啓発活動ができたらよいな、とも思っています。

TJB――先生からご覧になった筑波大学の変遷をお聞かせください。
鈴木――
私が学生のとき、東京教育大学農学部は他学部と離れて目黒区駒場にあり、本部等は東京の大塚にありました。化学の文献を調べる必要があるたびに大塚や東大に行かねばならず、その点非常に不便でした。筑波には昭和53年 (1978年) 4月に応用生物化学系助手として移りましたが、筑波大では幸い中央図書館に文献がすべて揃っていたので不便は解消され、その点ではよかったのですが、実験室が教育大時代よりずいぶん狭く、事実上1部屋になったのには閉口しました。当時は生物農林学系棟が完成したばかりで、実験室は新しく学生も張り切って実験していました。私は学類の担当が生物学類(助手)、生物資源学類(講師、助教授)、再び生物学類(教授)と変わり、生物学類の先生と知り合って共同研究ができたことをとてもよかったと思っています。
 筑波は大学内のみならず周囲に緑が大変多く、郊外には里山が広がり私には別天地のような所でした。道路が立派な割には車が少なく、学園並木の宿舎から大学まで一直線の東大通りに信号が2、3カ所しかなく、よく大学まで7 km、ノンストップで来ることもできました。現在の朝のラッシュを思うと今昔(こんじゃく)の感があります。筑波大学も第3学群棟、H棟、バイシス棟、タラ研究棟、生物農林F棟、総合棟などが続々と建てられ、現在のように整備されてきました。一方、独立法人化は全国の国立大学に非常に大きな変革を迫ることになり、少子化と相まって将来どうなるか難しい時代を迎えています。

TJB――学生へのメッセージをお願いします。
鈴木――
大学はいろいろな講義、書物そのほかを通して自分の興味のあること、やりたいことを見つけ、自分の進むべき進路を自分で決定する重要な期間であると思います。学生諸君にも、“出会い”を求めて多くの先生方と交流を深めることを勧めます。
 とりとめのない感想ばかりになってしまいましたが、生物学類のますますの発展を願っています。


飾らない言葉

「女なんてお呼びでない」という時代に、職を得るために研究者となった、と語る高橋先生。しかし先生が研究者の道に進まれたのは運命ではないだろうか。研究が、ゾウリムシが、発見が大好きだという先生の思いが、先生の飾らない言葉の中にひしひしと感じられるからだ。(TJB学生編集部)


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高橋 三保子 筑波大学生物科学系 教授
生命環境科学研究科情報生物科学専攻(理学博士)。1966年、東北大学理学部生物学科卒業。1966年に宮城教育大学教育学部付属理科教育研究施設教務職員となり、1969年、東北大学理学部の職員となる。1978年から筑波大学生物科学系でゾウリムシの性認識分子の同定および性分化の多様性、ゾウリムシの遊泳行動の遺伝学的研究を行う。1996年より現職。1990年には「女性科学者に明るい未来をの会」より第10回猿橋賞を受賞。生物学類では、細胞システム学Iなどの講義を担当。

ゾウリムシ、そしてゾウリムシ

高橋 三保子(筑波大学 生命環境科学研究科)

TJB――研究者の道を志した動機は何ですか。
高橋――
最初から研究者を志していたわけではなく、いつの間にか研究者と呼ばれるようになった、というのが正直なところでしょう。大学卒業時に決めていたことは一つだけです。40年前、私の親は裕福ではありませんでしたから、経済的な援助を受けるのは大学までと決めていました。大学院に進んでも奨学金は無理であるとわかった段階で就職すると決めました。しかし、就職したいにも当時企業から女子学生への求人は全くありません。最初に見つかった就職先が宮城教育大学の教務職員という研究補助職でした。実験は好きでしたし、研究室の教授である樋渡宏一先生が研究に進んでいくことを後押ししてくれたのが幸運だったと思っています。

TJB――研究生活の中で一番うれしかったこと、悔しかったことを教えてください。
高橋――
嬉しかったことはいろいろあったように思いますが、一番というと、相補的な接合型のゾウリムシから分離した繊毛を混ぜたものを顕微鏡で見たら、凝集した繊毛が見えたとき、でしょうか。うれしかった、というよりは興奮した、という方が正しいでしょう。
 悔しかったことを思い出そうとしていますが、思い出せません。悔しいという思いは、理不尽なことがあってそれに対する怒りの気持ちを持っていること、あるいは、非常に思い入れのある研究成果が今一歩のところで誰かに先を越された、という状況のときにわく感情だと思います。それほどの強い感情を私は持ち合わせていないのだろう、と思います。

TJB――退官後の予定や計画はありますか。
高橋――
具体的な計画はなく、これから何ができるか、見つけていこうと思っています。「ゾウリムシを観ていきたい」という気持ちはありますが、当面は残務整理もありますし、ゆっくりしたいところです。

TJB――学生へのメッセージをお願いします
高橋――
安易に答えを求めるのではなく、苦労して、悪戦苦闘してみよう。筑波大学のようなぜいたくなカリキュラムを用意している大学はそれほどあるものではない。流行はすぐすたれる。生物学の基礎をしっかりと身に付けた人材として活躍してほしい。それと、正しい日本語を使うよう努力して下さい。


偶然という宝物

人生は偶然の連続なのかもしれない。ただその偶然を見逃すか、見逃さないかが人生の分かれ道なのだろう。藤井先生は、これまでの人生で出会った偶然をチャンスに変えてこられた。個体群生態学との出会いも、恩師の先生方との出会いも、すべてが偶然の積み重ねだと先生はおっしゃる。私たち学生がこれから出会うであろう偶然の数々に、どう対処していけばよいのか、先生から学ぶところは非常に大きい。(TJB学生編集部)


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藤井 宏一 筑波大学生物科学系 教授
生命環境科学研究科生命共存科学専攻(Ph.D Entomology)。1965年、京都大学農学部農林生物学科卒業。1971年、米国カンザス大学大学院修了。その後、カナダ、British Columbia大学 Institute of Animal Resource Ecology研究員(1971年より)、米国Purdue大学Department of Biological Sciences助教授(1973年より)を経て、1978年より筑波大学生物科学系で生物群集・個体群における構造決定と安定性、個体数変動のメカニズムの実験的・理論的解析などの研究を行う。1988年より現職。生物学類では、動物生態学T、生物統計学などの講義を担当。

世の中、偶然ばかり

藤井 宏一(筑波大学 生命環境科学研究科)

 人それぞれ、人生のいろいろな時期に、将来を決定するような重大な決断を下さざるを得ない場面に遭遇する。それは人から押し付けられる場合もあり、まったく自分の自由意思で決める場合もある。高校卒業を間近にすれば、どこの大学で何を勉強しようかと迷う。大学卒業が近づけば、就職しようか、大学院に行こうかと迷う。どのような場面でも、大抵の場合には選択肢はいくつかある。しかし、その中の一つに決めなければならない。次に決断を下す場面に出くわしたときには、その前の決断によって選択肢は狭まってくる。このように人生では、生物の進化と同じように多くの場合、次にやれることは過去という制約の中でしか選択肢はない。自分の過去を「ちゃら」にして新しい選択肢を採ることは決して不可能ではないが、多分に難しい。さらに生物の進化と同じように、その選択には偶然という要素が重要な役割を果たす。

 私の父は、京都で友禅の図案を描く絵描きで、自宅で筆を振るっていた。半分自由業のようなもので、好きなときに好きなことができる立場にあったからか、そして多分自分もしたかったからかと思うが、小さいころの私を比叡山、鞍馬山、貴船など京都の周辺へ昆虫採集によく連れて行ってくれた。自宅では、父と一緒に日本の昆虫学の草分けでもある松村松年の昆虫図鑑などとにらめっこをしながら標本を並べて喜んでいた。

 そのような経験もあって、大学に進学するときには生物学を勉強したいと思い、受験雑誌などで京都大学についての記述を読んだりした。特に興味をそそられたのは農学部遺伝学研究室で、教授は木原均という世界的に有名なコムギの遺伝を研究している人だった。その研究室では世界各地に野生のコムギの採集に出かけ、卒業生には海外の大学で研究を続けている人も多くいるとの記述があった。ここぞと思い、京都大学農学部農林生物学科へ入学した。

 しかし、入学後に事実を知って愕然とした。木原教授は定年を待たずして国立遺伝学研究所の所長として転任されてしまったのだ。さらに、実際に遺伝学の講義を聴いてみると、あまり興味が持てない。そのころ、同じ農林生物学科の昆虫学研究室、内田教授の個体群生態学(正直なところ、当時は個体群という言葉さえも知らなかった)の講義を聴いて感動し、内田教授の下で卒業論文研究をすることになり、以後今日まで昆虫を材料とした個体群生態学の研究を続けることになった。付け加えるならば、先の遺伝学研究室の卒業生には海外の大学などで研究を続けている人が多くいるという記述は、確かに事実ではあったが、大学に入り実際に遺伝学研究室が隣にあり、その事情を知るようになると、卒業生が海外へ行くのは、ただ就職口がないからだということが分かった(情報には気をつけよう)。

 このように、大学入学までの私の人生では自分の将来の方向は、かなり自分の意思で決めていたような気がする。しかし、以後の人生ではかなり様子が異なる。

 私が京都大学修士課程2年の夏、米国カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)からHuffakerさんという人が京大昆虫学研究室を訪問した。研究室での講演後、彼は誰かUC Berkeleyへ留学したい人はいませんかと尋ねた。そのときには、私自身も含めて誰も手を挙げる学生はいなかった。ところが、修士2年の12月ごろになって、私はなぜか留学してみたいという気になり、指導教官の内田先生にその旨を伝えた。先生は、早速思い当たる有名人に問い合わせをしてくれることになり、まずシカゴ大学(イリノイ州)のParkさん、UC BerkeleyのHuffakerさん、そしてカンザス大学のSokalさんの3人の名前を挙げた。早速これらの人たちに問い合わせの手紙を書いたところ、一番早く返事が来たのがSokalさんだった。私は深く考えることもなく、また内田先生の勧めもあってSokal先生の下に留学をすることに決めた。そのとき以来、私の人生はマクドナルドのモットーに似て、“First come, first serve”ならぬ“ First come, first take”の決断で人生を過ごすようになった(その後、米国でHuffakerさんにお会いする機会があったが、彼は「何だ、君はSokalの学生になったのか。もう少し早く僕が返事を書いていたら、僕の学生になっていたのにね」と言われたことがあった)。

 米国での学生生活も終わりに近づき、学位(Ph. D.)が取れそうになったので、その後の身の振り方を考える必要が出てきて、これまた有名人であるプリンストン大学(ニュージャージー州)のLewontinさんとカナダ、British Columbia大学(UBC)のHollingさんの2人にポストドクの可能性を打診した。すぐさま返事をくれたのがHollingさんだった(実はHollingさんは、私が学部4年生のころに書いた論文を知っていてくれたらしく、彼の頭の中に私の名前が残っていたので、私から問い合わせがあったときには躊躇せず採用したと後日聞いた)。直ちに決断し、学位を取るとUBCへと旅立った。ポストドクというのは大抵の場合、長くて2年程度である。その後のことを考えると、うかうかしていられない。UBCへ到着直後から、本格的な職探しを開始し、大学の掲示板や、『Science』の求人広告などを見ながら、あちこちへ応募を始めた。おそらく2桁の数の手紙は書いたと思う。面接のためにいくつかの大学を訪問し、講演をしたり、教官や学生たちと議論したりもしたが、その中で最初に正式なオファーが来たのが米国Purdue大学(インディアナ州)であった。例によって、躊躇することなくそのオファーを受け入れ、赴任の準備に着手した。ところが、その頃はカナダUBCにいたので、米国へ再入国、しかも大学の教員として入国するためには、米国の労働省の許可を必要としただけでなく、さらに米連邦捜査局(FBI)、そして日本の警察からの「過去がきれいである」との証明書なども要求され、結局米国へ再入国するまでに1年近くかかり、UBCでは2年間、ポストドクとして過ごした。

 Purdue大学へ助教授として赴任して何年かたったとき、UBCにいたころに同じくポストドク.として日本から来ていて知り合いになった人から、筑波大学に環境科学研究科が設立されることになり、その教官を募集しているから応募したらという連絡が来た。せっかくの話だと思い、履歴書だけでもと送った。忘れかけていたころ、筑波大学から帰国せよとの通知が届いた。ちょうどそのころは、全米科学財団(NSF)からの研究費も獲得し、大学での研究も軌道に乗り始めていた時期でもあり、まずい状況に追い込まれる羽目になった。よほど辞退しようかと思ったが、2、3人の日本人から日本の大学でオファーがあったのに、それを断れば、もう2度と日本の大学へは就職できないと言われ(その真偽は今もって分からないが)、自分は後半生を米国人として過ごすべきかなどといろいろと悩んだ末、帰国することに決め、赴任を1年遅らせて、米国での後始末を済ませた後、筑波大学へ赴任した。

 筑波大学へ赴任後は、居心地がよかったのか28年程も長居をすることになった。最後の数年は、専攻長、研究科長、修士課程長などの役をこなすことになったが、これらの役職への就任もそれぞれ偶然の要素によるものが大部分であるが、そのあたりは、まだ生々しいところもあるので控えさせていただきたい。

 このように、私の人生のかなりの部分は偶然の積み重ねといってよい。私はこれまでに3人の師に巡り会うことができた。内田先生、Sokal先生、そしてHolling先生である。みな偶然の出会いである。それぞれ日本、米国、カナダを代表する世界的に名の知られた研究者であり、それぞれが強烈な個性を持ち、誹謗も多々ある先生であるが、私にとってはこれらの先生に出会えたことはこの上ない幸せであった(ちなみに、Purdue大学へ面接のために訪問したとき、生物科学科の科長から、「この3人から推薦状を書いてもらえるような人を断ることはできないよね」と言われ、思わず「私自身の業績も評価してください」と言いたかった)。

 偶然のチャンスはいつ、どこに現れるか予測できない。しかし、われわれにはそれに対処すべき準備の方法はある。チャンスが現れたとき、「はい」といって手を挙げられるように準備しておくことである。いつ手を挙げるチャンスが来るかは分からない。しかし、そのチャンスを確実に手にするだけの準備はしておこう。

 蛇足になるが、上記と関連して近ごろよく耳にする「大学・大学院教育の実質化」ということについて一言付け加えておきたい。米国やカナダで大学院学生、ポストドク、そして大学教員を経験した者から見れば、日本の大学での教育は、まさにチクワのようなものである。実質化のためにはチクワの穴をたとえチーズでもよい、とにかく中身豊かなものにしなければならない。大学での1単位とはどんな定義なのかさえも知らず、ただたくさん単位を取って喜んでいては、グローバルスタンダードには程遠い。もちろん、この問題は学生だけの責任ではなく、教育を与える側にも問題がある。大学院は研究をするところだから、講義など聴かなくてもよい(あるいは、教員の側からは講義などしなくてもよい)などと考えるのはおこがましい。知っていなければならないことは山とある。それこそが、チャンス到来のときに手を挙げられるかどうかの境目なのだ。

Communicated by Shinobu Satoh, Received April 13, 2006.

©2006 筑波大学生物学類