つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200604KN.

特集:入学

本当の自分

中田 和人 (筑波大学 生命環境科学研究科)

 20年近く前に、私の一生を変える出来事がありました。そのことについて書いてみます。

 私は、1987年に筑波大学医療技術短期大学部衛生技術学科に入学しました。当時、臨床検査技師として海外で働くことを目指し、意気揚々、追越宿舎に入居したことを今でも鮮明に覚えています。医療短大では、3年間という短い期間で国家試験受験資格を得るための専門科目、専門実習や病院実習を全て行い、且つ、実際の国家試験に合格するための知識を詰め込む訳ですから、教官陣はもちろん、学生もいっぱいいっぱいでした。月曜から金曜まで午前中は専門科目の講義、午後は専門実習、土曜も午前は専門実習、というように日曜日以外は全て埋まっていました。もちろん、実習後にはレポートが課されますので、毎日何かしらのレポートを作製していました。また、講義の内容も国家試験合格を考慮したものにならざるを得ません。まさに暗記型の学習の日々でした。

 医療短大では1〜3年次まで受講する科目がほぼ決定されており、選択の余地などありませんでした。恐ろしいことに、取得すべき科目を落としてしまうと、次年度に再履修ができないほど受講する科目が年次ごとにびっしり決まっていたのです。取るべき科目を落とすということは留年に直結してしまうのですが、特例措置により年間3科目までは落としても次年度に再履修なしで、再試験が認められていました。しかし、この再試験で不合格となった場合、留年・再履修ということになります。つまり、落とした科目だけのために留年するという厳しい状況が待っていたのです。

 私は1年次必修の化学を落とし、2年次の特別措置期末試験(再試験)に臨みました。結果は不合格、そう、この時点で留年が確定したのです。2年次の1学期末でした。試験の問題ができなかった自分の不甲斐無さを棚に上げ、留年してしまうという現実の方が当時の私には重くのしかかっていました。

 夏休みにこの状況は一転します。化学担当の教授が入院し、この世を去ってしまったのです。亡くなった教授は、マサチューセッツ工科大学で理学博士を取得した著名な分子生物学者でした。当時の私は、暗記型の学習体制に馴染めず、純粋学問への憧れから基礎生物学の分野に進んでみたいというだいそれた夢を抱き、そのことをこの教授に相談していました。しかし、私の学力と学問姿勢では無理だと相手にされませんでした。

 結局、私の留年問題は教授の死によって、闇に葬られ、再再試験が行われました。何とも簡単な再再試験で、結果的に合格となり、進級してしまったのです。教授の死によって進級できた自分に対する情けなさがいつもつきまとっていました。しかし、それでもなお、「確固たる自分」を確立しようという気にもならず、日々の実習を適当にこなし、ふわふわしていたように思います。こんな感じで生きていくのかな?と漠然と思っていました。自分の中の物指しで自分を計り、生きやすいように自分自身をコントロールしていました。「活きよう」「活かそう」などという感情などみじんも無い頃でした。

 ある日、専門実習の実験サンプルとして大学病院から血液が届きました。この血液を使って、病気による血液成分の変化を学ぶためです。学生それぞれに血液サンプルが手渡される中、私の手には亡くなった教授の名前がカタカナで書かれた血液サンプルが渡されました。涙が止まりませんでした。どうしようもありませんでした。私は化学の再試験の不合格、そして留年という「本当の現実」に取り返しがついて、ふってわいたように進級して、本当は「裏なのに表のような人生」を歩んでいることを痛感しました。この時の悔しさ、悲しさ、情けなさが私の人生を変えることになります。私が亡くなった教授と同じ理学博士を目指した原点、原動力がここにあります。

 この記憶は、私を常に、現在の「虚像の現実」から、あの時消し去った「本当の現実」に引き戻すのです。今後一生、後悔の念が、ありがとうございましたという安堵な感覚に変わる日はないと思っています。人生の転機は、いつ、どこで、どのように訪れ、生き方を変えてしまうかは本当に分からないものです。もし私が「本当の現実」を歩んでいたとしたら、私は皆さんの担任にはなっていなかったと確信できます。しかし、変えた以上、変わってしまった以上・・・活かすしかないのだと、そして活きようと想っています。

Contributed by Kazuto Nakada, Received April 21, 2006.

©2006 筑波大学生物学類