つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200604SM.

特集:入学

二つのお願い

鞠子  茂 (筑波大学 生命環境科学研究科)

 ご入学おめでとうございます。入学して少しずつ大学に慣れてきたところではないかと思います。私の方もフレセミを通じて少しずつ皆さんとの距離が縮まってきたなと実感しております。それから、オリエンテーションのバレーボール大会では、皆さんの素直さに感銘いたしました。素直さに感銘?何のことかと思われた方も多いでしょう。それは、私が「本気を出さないで」と懇願したことを忠実に守っていただいたおかげで、教師組が3回戦まで勝ち残ったことです。さすがに上級生は素直さなんかどこかへ消えてしまったのか、教師に花を持たせてくれたのは最初だけで、最後は逆転負けの屈辱を味わうことになってしまいました。だからというわけではありませんが、どうぞいつまでも素直な学生であって下さいね。

 さて、つくば生物ジャーナルに何か書けと言われ、何を書こうかとしばし思案しましたが、前回の担任の経験を踏まえて二つだけ気の付いたことを書くことにしました。一つはオリエンテーションのときに述べたことです。そのとき私はコミュニケーションを大事にしましょうということ言いました。それは学生諸君が徐々に失っている能力だと思うからです。良くも悪くもすべてのことは、人間同士のコミュニケーションから始まります。例えば、だれでも人生や友人関係に悩むことがあるはずです。そのとき、良き相談相手がいれば心強いでしょう。相談相手になる人とは深い信頼関係が無ければなりませんが、信頼関係は良好なコミュニケーションを通じて作られます。逆に、常に良好なコミュニケーションがあれば、深刻に悩む事態には至らないかもしれません。ですから、同じ学年はもとより、先輩と後輩、教師と学生など、ありとあらゆる人間関係において、良好なコミュニケーションを築いていただきたいと願っています。そのために、教師としてできることは、フレセミとクラセミを通じて、コミュニケーションのしやすい環境作りをすることだと思っています。また、一方的に皆さんにお願いするだけでなく、私の方からも積極的にコミュニケートする努力をしていきたいと思っています。

 しつこいようですが、コミュニケーションについてもう少し具体的な話をしておきたいと思います。ここで言うところのコミュニケーションとは、面と向って言葉を交わすことを基本として、相手の表情や身体の動きから互いの心の状態を知りながら情報交換するということです。言語だけのコミュニケーションだけではダメです。非言語系の情報がなくてはなりません。ある大学の先生が書物に書いていたことですが、テレビ会議を経験すると非言語系の情報伝達の重要性が分かるといいます。その先生が言うには、テレビ会議は1ヶ所に集まる必要が無いので便利ではあるが、どうも違和感があって議論がスムーズではないらしいのです。その理由は、音声により互いの言葉は明瞭に聞き取れているものの、テレビ画面だけでは相互に意思の確認がしにくいのだそうです。このことから判ることは、私たち人間は相手の表情、しぐさ、身振り手振りなど、非言語系の情報を受け取って情報処理を行い、相手の発した言葉の内容と照らし合わせながら次ぎに何を話すかを決めているということです。もうお気づきの方も多いと思いますが、テレビ会議の例をもう少し広げて考えれば、電子メールなどの電子媒体による言語伝達や情報交換も同様ではないでしょうか。もちろん、こうしたコミュニケーションを全否定するつもりはありません。しかし、非言語系の情報がやり取りされないコミュニケーションには危うさを感じます。他人同士が信頼関係を構築できるコミュニケーションとは感情面の情報も含んだ生きたコミュニケーションでなければなりません。つまり、“言語系の情報交換+非言語系の情報交換=生きたコミュニケーション”なのです。どうぞ皆さん、同じ時空間を共有した、生きたコミュニケーションを実践して下さい。

 お伝えしたいことのもう一つは、「なぜ自分は大学に入って学問をするのか」ということを再度考えて欲しいということです。大学に入ってきて何度も聞いていることだと思いますが、これまでに卒業した何人かの学生諸君を見ていると、このことを十分考えてきたのかと思わざるを得ないような学生がいます。なぜ大学で学ぶのか、その目的意識を持っている学生と持っていない学生とでは数年後に明らかに差ができます。これは私の経験から断言できます。無駄ではないと思いますので、その経験を簡単にお話しておきましょう。

 私はもともと大学に入るつもりはなく、両親にどうしても大学に行けと言われて大学受験をした人間です。ですから、世に言う受験生時代には、部活(野球部でした)とマージャンに明け暮れており、受験勉強と呼べるものをした経験が一切ありません。一浪してかろうじて入った大学では、目的意識のない無味乾燥な時間を2年間も費やすことになりました。ところが、祖母が脳軟化症(認知症の原因のひとつ)でボケてしまったときを境にして、人生や生きることの意味を考えるようになりました。色々な本を読み漁りましたが、どれも本質的な答えと思えるものはなく、むしろ処世訓に近いものが多い気がして、満足できる答えは見つかりませんでした。しかし、ある本を手にして「学問とは真理を探求するものである」ということを改めて知ったとき、ならば学問をしながら自分の答えを出してやろうと思ったのです。そのときから、これまでの怠惰な生活を改め、答えを見つけるために必要な道具として、生物、化学、数学などをほとんど独学で学ぶことになりました。そして、気づいたときには、生物は生まれたときから環境と関係を持ってきたのだから、自分は環境と生物のかかわりを研究する生態学を志そうと決心していました。現在では、生態学を学問することで「生きるとは何か」を考えつつ、それを研究・教育することが生業となっています。経験談はこの辺で終わりにしますが、どうか皆さん、「大学で何のために学問をするのか何を学ぶのか」ということを今一度真剣に考え、それを目的として掲げ、これからの4年間を有意義に過ごしてください。心からそれを願ってやみません。そして、筑波大学を卒業する日を迎えたとき、ここで話したことを少しでも多くの学生が初心として持ち続けてくれていたら、教師としてこれ以上の幸せはないと思っています。

Contributed by Shigeru Mariko, Received April 25, 2006.

©2006 筑波大学生物学類