つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2006) 5: TJB200605TM.

犬の横坐り

牧岡 俊樹(元 筑波大学 生物科学系)

 JR渋谷駅前にある秋田犬ハチ公の銅像は主人の故上野英三郎教授が帰ってくる筈の駅の方、つまり南に頭を向けて坐っている。した がって尾は北を向いており、これは多少方向が違うけれど、犬が西を向 けば尾は東を向くという有名なことわざを、はからずも体現する形に なっている。このことわざには、普通のことわざ辞典などでは、「あたりまえのこと、言うまでもないこと」程度の表面的な説明しかないが、場合によっては、「物事には両面がある」、「へそ曲がりはどこにでもいる」、「全員一致はうさんくさい」などいろいろな含意が感じられる ようだ。

 だいぶ前になるが、全体に黒色で手足の先が白い雑種犬を飼っていた。ここで雑種というのは一般的な用語で、この個体はイヌという種と別の種との種間交雑によって生まれたわけではないから、生物学的には 雑種ではない。正確には、イヌという種の中の品種間の交雑の結果生ま れた雑品種というべきものである。頭のよいおもしろい犬だったがいたずら者で、若い頃には庭履きのサンダルをことごとく噛みつぶし、長じて後も落ち葉を焚いた熱い灰の中から焼きイモを掘り出して食べるなど いろいろ逸話を残した。この犬が、食事の世話をする家内や遊び相手の息子たちよりも、単身赴任をして週末しか帰らない、いわば不在飼主のような私になぜか一目置いていて、私の前ではよく特別な坐り方をした。
 犬が坐るというのは、たとえばハチ公の銅像のように、前足を立てて 後足をたたんで、尻を地面につけて坐るのだが、この犬ももちろん普段はそうして坐る。だが私の前に出て何か叱られそうな自覚のあるらしい時には、誰が教えたのでもないのだが、両後足を左にずらして、ちょう ど女の人が正座を崩した時のようないわゆる横坐りをした。一見だらし のない坐り方のように見えるが、彼にとってはそうではなく、いささか 緊張し、かしこまった感じの時の坐り方だったらしい。
 しかしたとえ犬にしても、横坐りがかしこまった坐り方だというのは 少しおかしいのではないかと私も思う。やはりきちんと前後の足をそろえて坐り、頭を多少下げている方が、かしこまった感じがするようだ。 両後足を横に投げ出して坐り、少し横目でこちらの顔を見ながら口を開 けて舌を出しているのを見ると、何だかばかにされているような気もしてくるのだった。

 ちょうどその頃、某王国の首相に指導上の手違いがあって国内の対立抗争が激化した時、それを国王が調停され収束された場面の珍しい写真が遠く日本の新聞にも転載された。国王は椅子に着座され、首相はその足下の床に両手をついて坐り、お言葉を承っているらしかった が、そのとき首相の両足は左側にずれて横坐りになっていたのである。 これはおそらく、尊敬すべき人の前に出る時の某王国の伝統的な作法なのだろうと思うが、この写真を見た時、失礼ながらつい思い浮かべてしまったのは、わが家の雑種犬の横坐りであった。
 ヒトの場合にも、リラックスした坐り方としての横坐りは、日本人も 含めて床に座る生活をしている民族の、主に女性の坐り方に広く見られ る。しかしこの坐り方は、畏敬すべきあるいは警戒すべき相手が近くに いない場合に限っており、そういう相手が来れば直ちに、横に出た足は 引っ込められて正座や跪座のような、もっと失礼のない坐り方に変わる のである。それではなぜ、国王陛下の前で、首相は横坐りをしたのだろう。そしてそれが、はるかに下ってわが家の雑種犬の横坐りに似ていたのは、偶然だったのだろうか?

 イヌ の祖先はオオカミだという説は、最近の分子系統学から も多くの支持を得ているようだが、ヒトとオオカミはともに集団で狩をする動物としての歴史をもち、そのためによく似た順位制の集団を作 る。そして両者の集団では、特に順位の確認に関する儀式的な行動によく似たものが多いという。たとえばヒトの集団では、上位の個体は一般に背側の筋肉を収縮させ腹側の筋肉を弛緩させて頭部を後方にそらせる 姿勢をとり、その前に出た下位の個体は逆に腹側の筋肉を収縮させ背側の筋肉を弛緩させて頭部を前方に下げる姿勢をとるが、オオカミの集団でも、上位の個体は一般に背側の筋肉を収縮させ腹側の筋肉を弛緩させ て頭部と尾を高く持ち上げる姿勢をとり、その前に出た下位の個体は逆 に腹側の筋肉を収縮させ背側の筋肉を弛緩させて頭部と尾を低く下げる 姿勢をとるらしい。
 そしてオオカミから出たイヌにも、集団で飼われている場合には、オオカミと同じような順位の確認に関する儀式的な行動がある。またイヌの場合には、イヌの集団の中での順位とともに、飼主であるヒトの集団の中での順位もあるので、オオカミの場合より複雑なようだ。
 集団の中での順位を確認する儀式的な行動の本質は、下位の個体が上位の個体に対して敵意のないことを示すところにある。それを確認すると、上位の個体の下位の個体に対する攻撃は抑制され、順位にもとづく平和が保たれる。オオカミやイヌの集団で、下位の個体が上位の個体の前に頭を垂れるのは、急所である首筋を相手の顎の前にさらして無抵抗、つまり敵意のないことを示すのであり、それに対して上位の個体はいつでも噛み砕くことのできる相手の首筋をあえて噛まないことによって、下位の個体に恩恵を与えるのだという。
 横坐りという姿勢は、両方の後足をそろえたふつうの坐り方よりも、急に相手に飛びかかることが困難なので、下位の個体が敵意のないこと を表現するにはふさわしいかもしれない。だが逆に、上位の個体の前でリラックスした無警戒な姿を示すことは、相手の力や権威を無視したたいへん失礼な態度に見えてしまわないだろうか。実際にオオカミあるいはイヌの集団の中で、横坐りという順位行動は、少なくとも成長した個体間ではふつうには見られないようだ。
 一方、乳離れして間もない頃のオオカミの子どもは、おとなのオオカミの前に出ると、時にこのような横坐りをするらしい。それはしかし、攻撃性のないことを示す順位行動ではなく、まだきちんと坐れない子どもらしさとして、他の個体の保護を求める幼児的行動なのだろう。このような横坐りは幼い子イヌにもあるそうだ。だがわが家の雑種犬は成犬になりさらに老犬になっても横坐りをした。

 野生のオオカミがイヌとしてヒトと一緒に生活するようになった時期 は、化石の炭素年代測定では、オーストラリアではおよそ30,000 年前に、東部アジアでおよそ14,000年前に、ミトコンドリア DNAの塩基配列の比較からは同じく約15,000年前にさかのぼると いう。いずれにしても、ヒトの歴史の中でこの時代はいわゆる狩猟採集の時代にあたる。農耕牧畜が始まりヒトが各地に定着して人種や民族の違いがはっきりしてくる以前の時代で、ヒトは小さな集団を作って獲物を追いながら地球上の広い範囲を移動して歩いた。一方、当時のオオカミは、ユーラシアと北米の温帯から亜寒帯にかけての森林地帯を中心に広く分布していたから、ヒトの集団はどこへ行っても、同じように集団で狩をするオオカミに出会い、ヒトとオオカミとは同じ獲物を狙うライバルとして、また隙があれば互いを獲物にする敵として、つかず離れず 生活する間柄であったと思われる。
 当時のヒトはオオカミの習性を熟知して、親オオカミの留守中に巣穴 から子オオカミをさらって来るようなこともよくあったに違いない。これらの子オオカミは、食われることも多かったであろうが、もともと哺乳類の子どもはヒトの眼から見てもかわいらしいものであるし、オオカミの本来もっている社会性から、子オオカミの中にはヒトの子どもたちと仲よく遊び、上位者である大人のヒトにも従順で、ヒトの集団の中で成長し、狩の手伝いや集団の警備に役立つものがあったと思われる。家畜としてのイヌの始まりの1つのパターンは、このようなものであっただろう。
 さらに想像を進めれば、当時の子犬はオオカミの子どもの横坐り行動を受け継いで、ヒトに対してもおそらく横坐りをしたであろう。中にはわが家の雑種犬のように、成犬になっても飼主の前で横坐りする個体もあったかもしれない。そのような行動がいつかヒトの側に取り入れられて、上位の個体の前での行儀作法として子孫に伝えられたと考えるのは無理であろうか。

 某王国の作法に残る横坐りが、オオカミとの交流に始まるイヌとヒトの密接な種間関係の歴史につながるのかどうかは、犬が西を向けば尾は東を向くというほど単純ではなく、犬が横坐りした時の尾のようにいろいろな方向からの考察が可能だろう。まずは3者の儀式的横坐りの例をもっと多く知ることが必要だと思うが、その1例を提供した雑種犬は、16年の春秋をわが家の狭い庭で過ごした後、後足が少しふらつくようになり、近くの獣医院に入院して2晩目に死んだ。
 この犬にもじつは名前があって、もらってきた時に息子たちがイプシロンと名づけたのだが、呼びにくいので普段はイプと呼んだ。しかしそれにしても、「イ」の発音で力が抜けて呼びにくい。私はもっぱら「プー」と呼んでいた。彼はきっと最後まで自分の名前がよくわからなかったに違いない。

Contributed by Toshiki Makioka, Received April 27, 2006. Revised version received May 9, 2006.

©2006 筑波大学生物学類