つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2007) 6: TJB200704YO.

特集:入学

これから本格的に生物学を学ぶ諸君へ――今春退職した者から――

小熊 譲 (元 筑波大学 生命環境科学研究科)

 入学おめでとうございます。待ちに待った大学生活をどのように送ろうか、希望に胸を膨らませながらも不安が少々あることでしょう。また、やっと専門的な勉強ができることに大いなる期待を持っていることでしょう。筑波大学に約30年間在職し、生物学類で基礎生物学実験や遺伝学概論、進化遺伝学を担当した経験を踏まえ、私自身の研究生活を振り返りながら、これから本格的に生物学を学ぶ諸君へ一つの提言をしたいと思います。

私が大学に入学したとき

 私は小学生の頃、小さな虫に魅せられて、将来は生物学を勉強したいという盲目的な目標を持ってしまいました。なぜ盲目的かと言いますと、周りのことをあまり考えずに決めたという意味でです。中学校入学と同時に生物部に入りましたが、将来は生物学をやるのだから今から生物学をやる必要はない、と勝手に考えしばらくして部をやめました。生物学を学ぶ上で何が重要かを考え、体力が必要であると結論し、中学校と高等学校では学校の勉強をあまりせず、軟式テニスを一生懸命にやり夢中になりました。もちろん、高等学校では生物を履修しませんでした。理科バカにならないようにと思い、社会科学関係の本をたくさん読みました。かなり背伸びをしていたと思います。その様なわけで、大学に入ったとき、周りの人は植物や動物の名前をたくさん知っているのにショックを受け、皆よりもかなり遅れていることを自覚せざるを得ませんでした。しかし、何も知りませんでしたので学びたい気持ちだけが先行し、授業がとても新鮮でした。

 諸君は様々な入試制度で入学しています。そのため課外活動の研究が評価されて入学した人は生物の研究方法をかなり身につけています。一つの分類群の生物についてセミプロなみのレベルに達するような研究をしてきた人もいることでしょう。すぐに始まる基礎生物学実験を長年担当してきましたので、諸君のレベルに相当の開きがあることを知っています。しかし、ここで大切なことはすべての学生が4月にリセットされるということです。生物学を勉強したいという意欲は皆同じはずです。この志に違いがなければ、諸君がどのようなレベルにあろうとも心配する必要はありません。これはたくさんの生物学類生を継続的に見てきた私の経験から自信を持って言えます。

実際の生き物を知ることの重要性

 生物学を学ぶ上で、生き物を実際に知っていることはとても重要です。これからたくさんの種類の生物に出会うことでしょう。それは実験材料であったり、野外での出会いであったりするでしょう。実験で出会う材料について例にとります。担当教員が教室または実習室に持ち込んだ生き物を考えてみましょう。その生き物についてすべてを知っていることはないでしょう。どのようにして採集されたか、どのように担当教員が飼育または栽培しているのかを知らなければ、ぜひ尋ねて欲しい。担当者が大切に育てている生き物であれば、熱心に説明してくれるでしょう。質問することによって知的興味が広がり、材料への愛着が湧きます。ともかく出会った実際の生き物への理解を深めていただきたい。

 私は大学院博士課程1年で退学し、ある医科大学の寄生虫学講座の助手として就職しました。当時の教授が求めたものは、私が「生物学的視点」から研究を進められる力でした。もちろん助手ですから寄生虫学実習を担当できる力も身に付けることは必須でしたので、それなりの努力はしました。ともかく「生物学的視点」を持って仕事をすることが求められました。幸いにも医学の中でも寄生虫学は広くは動物学の一分野になりますので、この講座自体に違和感はありませんでした。むしろお医者さんとのつき合い方に苦労しました。これは生物学出身者が異口同音に言うことです。お医者さんも生物出身者との接し方に苦労されているのかもしれません。

 人は自身がどのような存在であるかを自ら判断することは、一般的には難しいことです。普通は他者からの評価によって自身がどのような存在であるかを知ることが多いでしょう。「生物学的視点」を持って仕事ができることが私に要求されましたが、実はこのことが一番不安でした。修士を終えたばかりで、その様な視点が備わっているかどうか、言い換えると生物学的センスが私にあるかどうか、とても不安でした。

私の悩み

 現在、生物学の境界領域では他の学問分野としのぎを削っています。この分野で活躍しリーダーシップをとっている人が生物学出身である場合は言うに及ばず、農学や医学、薬学出身であっても、生物学を学んだ人に求める究極のことは、「生物学的視点」をきちんと持っているかどうかです。

 この「生物学的視点」とは具体的に何を意味するのか、頭ではわかっていたつもりなのですが、いざ自分自身のことになると、とても不安でした。果たしてしっかりした「生物学的視点」を持っているのだろうか、とかなり長い間悩んでいました。定年退職したのにこんなことを告白するのは恥ずかしいのですが、本当です。もちろん小学生の時、それなりに植物採集、昆虫採集に興味を持ち、生き物を見ているとその形の美しさや仕組みの巧妙さに感激しました。大学に入り専門実習で動植物の切片細胞を観察し、その美しさにうっとりしました。それらでネクタイの柄をデザインできるのではないかなどと夢想し、時の経つのを忘れたことを覚えています。今でも生物の形態に対するこのような気持ちは、まったく変わりません。

 しかし、このような感性を含めて私に研究上有効な「生物学的視点」があるかどうか不安でした。卒業研究では、進化のしくみを遺伝学に基づいて知りたいと、ショウジョウバエを使っていた遺伝学研究室に入りました。医科大学に就職したときはマラリア媒介蚊のハマダラカを扱いましたが、筑波大で再びショウジョウバエを材料とする幸運に恵まれました。それ以来、いかなる要因がどこにどのように働いて種は分化するか、という問題に関心を持って研究を進めてきました。筑波大学ではいろいろなことがありましたが、遅蒔きながら私に「生物学的視点」があるらしいことを認識できた幸運な出来事を紹介します。

小さな幸運な偶然から

 日本全国にほぼ同所的に分布するカオジロショウジョウバエ類4種を材料として、性フェロモンがこのハエの仲間の種分化にどのような役割を果たしているかについて卒業研究の4年生と共に研究を進めていました。ショウジョウバエの雌の性フェロモンは一般的に体表面炭化水素と考えられていて、体の表面についている蝋(ワックス)が生理活性をもっています。分析の結果、この仲間の体表面炭化水素の構成物質に種の間で明らかな差違が認められました。しかし、カオジロショウジョウバエは求愛行動の際、視覚がとても強く作用するため、性フェロモンの生物検定ができませんでした。雄は動く物体はもちろんのこと、体表面炭化水素を除去して死んだ雌にも求愛行動を起こしてしまうので、匂いの関与を確かめられなかったのです。ところが、研究の過程でクロショウジョウバエの体表面炭化水素を分析したモンタナ大学のグループの論文に出会いました。不思議なことに、この論文では体表面炭化水素の構成物質を詳細に分析しているにもかかわらず、論文の著者らはこのハエの性フェロモンを決定していませんでした。すなわち、最後の詰めである生物検定に成功していなかったのです。

 私は、このクロショウジョウバエとその仲間を使って精子形成の研究もしていました。アメリカやヨーロッパから系統を取り寄せ、飼育していました。飼育瓶の外側からこのハエの求愛行動を見て知っていました。この論文を読んだとき、私ならこのハエの性フェロモンを同定できる、と直感しました。主たる仕事ではありませんでしたが、早速取りかかりました。

 クロショウジョウバエを飼育することは慣れていましたので、雌雄は分けづらいのですが、すぐに2000匹以上の雌を集めることができました。これらのハエを有機溶媒であるヘキサンが入った三角フラスコの中へ浸し、粗抽出液を得ました。ところが、この液の濃度を種々変えて塗って作った囮(おとり)雌を雄に与えてもまったく雄は反応しませんでした。つまり、粗抽出液は生物活性を示さなかったのです。私はここでおかしいな、と思い自信が無くなりかけ、実験を進めることに躊躇しました。しかし、クロショウジョウバエの求愛行動には性フェロモンが関与しているという確信がありましたので、この粗抽出液をシリカゲルのカラムに通してもう一度生物検定をしました。なんと雄は囮(おとり)雌の体に触れ、その周りで翅を拡げながら特有のダンスをしました。誰もいない実験室で、「やったー」と叫びました。その後の分析は有機化学専攻の共同研究者の協力を得てすべて順調に進み、最終的に化学合成物質にも反応を示し、雌の性フェロモンは(Z)‐11‐ペンタコセンと同定され、専門の雑誌に発表しました。これを読んだモンタナ大学の教授から、「おめでとう! あなた方は私たちのできなかった性フェロモンの同定に成功した。データは完璧である」という手紙をもらいました。さらに、「あなたの研究室の学生をポスドクとして採用したいので紹介して欲しい」とありました。

私の悩みの解消

 なぜ学生が欲しかったのかといいますと、彼らは化学の研究室の所属だったのです。ですから、生物学的素養のある学生が欲しかったのです。私がクロショウジョウバエの性フェロモンを同定できると確信した根拠はとても単純なことでした。このハエの行動を飼育瓶の外側からいつも眺めていたからです。雄は求愛をするとき前肢で雌の体に触れたり、口吻を伸展させて雌の体をなめたりすることを知っていました。これらの行動のそれぞれは求愛行動の重要な一要素ですが、モンタナ大学のグループは性フェロモンという動物行動に関与する重要な信号を調べるのに、ハエの行動を知らなかったのです。私たちはハエの求愛行動について研究していましたが、このハエの求愛行動を調べていた訳ではありません。ただ、飼育中におもしろ半分に見ていただけです。

 私はモンタナ大学の教授の手紙によって、私自身に「生物学的視点」があることを教えられ、長年の悩みが安心に変わりました。なんと私が48歳の時のことでした。この性フェロモンの同定がきっかけとなり、他のショウジョウバエの性フェロモンも同定でき、さらに種分化の研究へとつながることになりました。

 これから生物学を本格的に学ぶ諸君に望むこと、それは実際の生き物をたくさん見て、生物学的センスを磨いていただきたいということです。それが「生物学的視点」の形成に役立ち、生物学類生としての存在価値につながり、将来の諸君のよって立つべきところになると考えるからです。これが、私の経験から自信を持ってお伝えできることの一つです。楽しく有意義な4年間であることを願っています。


*この記事は、TJB学生編集部(筑波大学生物学類)が企画・編集しました。


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小熊 譲 筑波大学生物科学系 元教授
 1976年、東京都立大学大学院 理学研究科において理学博士の学位を取得後、1970年より聖マリアンナ医科大学助手を務める。1977年、筑波大学生物科学系講師に着任。助教授を経て1995年より同教授 (生命環境科学研究科 構造生物科学専攻)を務めた。ショウジョウバエの求愛行動から見た種形成や性的隔離を支配する遺伝子の解析、種分化にかかわる低温・乾燥耐性遺伝子の解析を研究テーマとし、ショウジョウバエの進化を生態遺伝学的観点から明らかにした。生物学類では、遺伝学概論・進化遺伝学・進化遺伝学実験などの講義や学生実験を担当した。 

Contributed by Yuzuru Oguma, Received April 11, 2007, Revised version received May 1, 2007.

©2007 筑波大学生物学類