つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 34-35.

研究事始め −Study Nature, not Books−

浅島 誠 (東京大学大学院 総合文化研究科生命系)

 筑波大学の沼田先生からメールをいただいた。その中で、林純一先生が生物学類長になり、オンラインジャーナ ルTsukuba Journal of Biologyを創刊するという。林先生はこのジャーナルに並々ならぬ思い入れと理想と将来 像について語っている[1]。その意図するところは、現在の日本の大学のおかれている立場にどのように対処し、新 しく大学像を構築していくのかを真剣に模索しているものであり、同じような大学に身をおくものにとって痛いほ どよくわかるので、私もペンをとることにした。

 私は1967年に東京教育大学(現筑波大学)理学部動物学専攻を卒業し、すでに35年の月日が経って、今は他大 学で教鞭をとっている身である。私の大学時代の指導教官は動物発生学の渡辺浩先生(現筑波大学名誉教授)であ る。その渡辺先生からいろいろのことを学んだが、研究者としての出発にあたってはこの文章のタイトルであるア ガシー(スイス生まれのアメリカの動物学者、1807-1873)の言葉(Study Nature, but not Books)を身にしみて教えをいただいた。

 大学4年生の時、卒論で下田の実験所(今の筑波大学下田臨海実験センター)に行くと、まず技官の植田さんや 金指さんを紹介して下さった。その後、これからは一人で、海から「キクイタボヤ、 Botryllus botrylloides」を自分で採集してくるように言われた。その一年前の臨海実習ではホヤは見たが、マメボヤ目のマンジュウボヤだけ であった。そんな自分に海から「キクイタボヤ」を採集してくるようにとのことである。この下田の鍋田湾の岩場 にいることだけは知っていたが、本物は見たことがない。自分なりに苦労してマメイタボヤやイタボヤを採集して きても、渡辺先生はただ「求めているキクイタボヤ」と違うとおっしゃられる。毎日、朝から晩まで岩をかけずり 回って、約一週間かけて干潮期の鍋田湾の先端にある通称「のろし」の岩場でやっとキクイタボヤを見つけること ができた。その時、渡辺先生は「よく我慢して採集できた」、そして笑顔で「よかったよ」と言って下さった。

 今思うに、この時の実体験は私の研究者への原点の一つである。キクイタボヤを探している一週間、海のいろいろの生物をそれこそ何百種も自分の手で採集したし、また本物の海の生物の姿を見た。ただ、悲しいことに私は泳 ぎはうまくない。それゆえ、海水中に潜って採集する方法はとれないが、その分干潮帯を含めて、いろいろな生物 の現象の面白さと多様性を学んだ。

 この時、渡辺先生がおっしゃられた言葉が2つある。それは「Study Nature, not Booksだよ、自然に問いかけなさい。そうすれば本物が見えてくるよ」ということと、「採集や飼育などは泥臭くて大変だが、生物学の基本はこ こから始まるのだよ。このことはしっかり覚えておきなさい」と言われたことだった。その時、渡辺先生の言葉の 意味はうっすらとわかっていたように思うが、本当にそれを理解するまでにはその後5年かかっている。いずれに しても、私は「キクイタボヤ」を人に聞かないで、自分でどんなに時間がかかっても探し続けるつもりでいたので、 「キクイタボヤ」に巡り会えるまで沢山の種類のホヤにも出会った。だから、その後、研究テーマはホヤの免疫学を やることになるが、8種類くらいのホヤはすぐに集めることができた。当時、田中邦夫先生(現・日本大学・医学 部教授)が免疫学の最先端のオクテルロニ法の手法を導入して、種に固有のタンパク質と自己と非自己の認識タンパク質を検出しようとしたのである。

 今からみれば精度は低いが、採集したホヤのホモジネートをウサギに注射し、週をおって力価を調べるなど、楽 しい実験だった。下田の臨海実験所での1年間の卒論は私にとってその後の研究生活の第一歩となったことは確かである。今でも学生達を毎年、春と秋の二回はイモリ採集に出掛けているが、研究の原点への想いを次世代につな ぎたいと思うからである。

 今の生物学の発展は約60種ぐらいのモデル生物を中心として進んでいる。それは遺伝的バックグラウンドの確実 さと選び抜かれた生物種であることは充分承知しているし、歴史的に長い間かけて育て続けてきた生物種speciesで ある。これらのモデル生物はバクテリアからヒトまで、現在約50種のゲノム解析がほぼ終了している。ヒトなどで はゲノム解析が終われば、ヒトのほぼ全貌が解明されると言った学者もいた。しかし終わってみればそれなりに理解できたかもしれないが、殆どの研究 者は以前とあまり大きなブレイクスルーをひきおこしたとは思っていない。今や、ポストゲノム時代と言われてい る。ゲノム研究の先に何が見えるのか。もちろん、ゲノム創薬や分子進化、バイオインフォマテクスなどの研究も 新しい流れである。しかしながら、生物学として考えた時、ゲノム解析された生物種は地球上にいるといわれる生 物種約3000万種からみれば、約0.0002%以下である。

 各々の生物には各々の生物が歩いてきた歴史、ナチュラルヒストリーが存在する。各生物には特殊性と普遍性がある。今までは普遍性ばかりを追求していたが、各生物が持つ特殊性の現象や分子こそに面白さがあり、又、そこから新しい生命観が見えてくる。

 次世代の人が、自分で各生物の持つ面白い現象を発見したり、古典の中で解き明かされていない問題に取り組む勇気と努力を養ってもらいたい。研究は「知的冒険」なのである。成果のみで自分を評価するのでなく、その過程も重要であると思っている。

参考文献
  1. 林 純一 つくば生物ジャーナル 1:2-3, 2002.
Communicated by Osamu Numata, Received July 29, 2002, Revised version received July 31, 2002.

©2002 筑波大学生物学類