つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 36-37.

三十年ぶりのアメリカにおける研究生活

網代 廣三 (北西オンタリオがん研究所、 カナダ)

 約二年半前の2000年5月よりアメリカ、ヴァージニア大学の客員研究員として私は一年間余り研究し、現在はカナダの北西オンタリオがん研究所で研究を続けている。ちょうど、30年前の1970年に東京教育大学の理学研究科、 動物発生学講座で学位を得た直後、ポストドクとしてアメリカに数年滞在していた。したがって、現在30年振りに 2度目の長期海外生活を始めている。今回のアメリカ、カナダでの研究生活は日本との地理的、文化的相違に加えて、記憶に残る昔のアメリカ生活と興味深く比較しながら生活している。

 今度の海外生活を始めるにはちょっとしたいきさつがある。1998年にニューハンプシャー州で催されたゴードン・ リサーチ・コンフェレンスにおいて「クロマチンの構造と機能」と題する研究発表をして帰国後、一通のe-mailを 受け取った。差出人はそのコンフェレンスで基調講演者として招待されたヴァージニア大学のデイビット=アリス 氏であった。彼とは以前から論文で知っており、コンフェレンスでも親しく話をした間柄である。その彼から「今回 あなたが発表したアポトーシスにおけるヒストンH2Bのリン酸化[1]について共同研究をしたい」とのことだった。 その後、アメリカでの別の関連学会に出席した際にヴァージニア大学に立ち寄り、彼の研究室でセミナーを行った。 そして話が進み、「こちらにしばらく来てその研究を続け、大学院生を指導して欲しい」とのことで、一年間研究し ようということになった。そのころ私が勤務していた愛知県がんセンターでは県の財政が逼迫してきたので、私ど もの所属していた研究所の基礎部門を閉鎖する話が出ていた。これは最近の大学研究所統廃合の先駆けでもあった。 このようなプラスとマイナスの要因で愛知県がんセンターを定年より2年早く退職する決意をし、アメリカに渡っ たのだ。また、アメリカには定年制度が無い。年齢によって研究者は原則として差別されないので、アメリカでなら 60歳過ぎてもまだ研究が続けられるだろうという期待もあった。

 この30年の間、日本とアメリカの間がずいぶん近くなった。出入国の簡素化、航空運賃の低廉化が著しい。以前の渡米は羽田空港から当時“空飛ぶ貴婦人”と呼ばれたB727日航機に乗り、アラスカ経由で行った。1ドルが360円 の時代だった。羽田空港には当時東京教育大学の助手であった平林民雄先生(元筑波大学副学長)も見送りに来て いただいた。アメリカの税関検査に必要な実物大の胸部レントゲン写真を抱えていったし、飛行機が日付変更線通過すると、日航社長のサイン入り記念色紙が我々乗客全員に配られたことなど、今は昔の話となった。また以前の留学の時はアメリカ生活が新鮮で楽しかったが、異なる文化や英語に慣れるのに時間がかかった。今回はその違いは気にならず、エンジョイする余裕がある。研究面では其の意欲は変わらないか、むしろ強くなっている。

 ヴァージニア大学のあるシャーロッツヴィレ市は人口約十万で緑深い閑静な町である。この町は昔、綿花の積み 出しする町として発展した。今はヴァージニア大学を中心とする大学町であり、住民の多くは大学に何らかの関係 を持った職業についている。したがって犯罪も少なく、治安の良い町である。この大学はアメリカの第3代大統領 トーマス ジェファーソンによって設立され、アメリカでも有数の名門校で多くの名士、数人のノーベル賞受賞者を 輩出している。着任してほどなくカステーン学長による新任教官夫婦を招待する歓迎レセプションの招待状が届い た。会場のホールはキャンパス内の小高い丘にあり、美しい庭園に囲まれ、この大学の歴史を物語る荘厳な建物であった。

 アリス研究室はヴァージニア大学のヘルスサイエンスセンターの六階にあるDepartment of Molecular Geneticsに属している。研究室の費用はほとんど研究室を運営するP I (Principle Investigator)、 即ちボスのグラントによってまかなわれている。研究室メンバーすべての給料と研究費を維持するのは小生には至難のわざと思えた。彼の ラボは2人のラボマネージャー、3人の院生、6人のポストドクを擁していた。

 客員研究員(visiting scientist)という立場は、この大学では公式にはFaculty * である。Professor of researchであるが、研究活動の点では研究室のメンバーと同じだ。ボスのいる部屋に所属し、研究と院生の指導する責任、お よびセミナーをする義務がある。そのほかには雑用など一切無く研究に集中できる。彼の話では、始めは院生がほ とんどだった。段々とポスドクが多くなり、最近では即戦力となる研究者も客員で迎えたいと言っていた。研究室 を変えると、移動定着にわずらわしいが、研究面でとても勉強になる。同じ実験の装置でもプロトコールが僅かに 違うし、実験書や論文に書かれていないトリックや工夫があったりする。こちらではすべてファーストネームで呼 び合い、30年前の留学の時はとても親しみを感じていた。今回の場合、自分の息子と同じ年齢の院生に“ハーイ、コーゾ”と呼ばれると以前とは異なる響きをもち、すっかり若返ってしまう感じであった。

アリス研究室内のパーテイにて。
左から筆者、院生のアンさん、ポストドク のジャッド君。

 ボスはいつも忙しく、普段彼と話をする機会を作るのはとても難しい。うまく捕まえてもアポイントをとるだけで終わることが多い。彼がヨーロッパの学会で一週間留守にして帰ってきたら700通ものe-mailがたまっていたと いう。彼は誰よりも朝早くからラボにきて仕事をしており、昼休みと昼食をとらないことが多いモーレツ研究者だ。 彼は私にとってはボスであるが、年齢も私より若く研究者として気軽に話し合えた。

 院生およびポストドクはともに、他大学の出身か外国留学生が多い。研究室にいたアンとステーブはハーバード大学で学部を終えてきた。所属研究室を決めるには“ロテーション”と言って、まず2ヶ月間位づつ研究室に所属する。そして気に入った研究室を選び、そこのボスと相談して決める。各ボスは院生獲得にかなり時間と神経を使っているという。週一回月曜日に行われるラボミーテングは一人2時間で、容赦なく質問が浴びせられる。しかもそれで終わりでなく、その直後ボスの部屋で発表者と二人でさらにツメの話が行われ、今後実際に進めていく戦略について話をする。彼の蓄積された豊富な知識を基盤にしたアドバイスが若手研究者にとても為になるようだ。ボス はデータによって学生の評価を変えるが、彼等の性格や生活スタイルは問題にしない。データが出れば彼の接する 態度もすぐ変わってくる。木曜日の昼にはデパートメントのプログレスレポートの日で、そのときは昼食としてピ ザが出るから出席者が多い。また、金曜日の4時からのジャーナルクラブはビールを飲みながらの議論が始まる。そ の他学内のあちこちで招待セミナーの案内がある。私はこれらの研究室の活動や集会に積極的に参加した。

 この頃、白川秀樹博士のノーベル賞受賞の報道があり、私どもの研究室では、“今年のノーベル化学賞の一人は日 本人で、コーゾの知人だ、学生の実験の失敗がヒントになったそうだ”という話が広まり、ちょっとした話題となった。白川博士とは以前留学した時、お会いした。同じアパート群にすんでいて、お互いのアパート宅で一度づつ夕食を共に歓談したことや、先生が息子さんと一緒に、何か道具を借りに来られたことを思い出す。 

 私がこの研究室でヒストンにおけるアポトーシス特異的なリン酸化サイトを新たに決定した時には、アリスのオ フィスで話している間に、彼から5回も握手を求められ、二人で喜び、そのときの彼の顔が忘れられない。それを すぐ同僚の研究者との話の種にする。それもそのはず、そのサイトが決まれば、その特異的免疫抗体を作ることができる。研究の方も大きく発展する可能性が大きく、彼の提唱しているヒストンコード説「解説参照[2]」を支持す る知見の一つともなり、またそれ自体商品価値が高いからだ。このプロジェクトは指導した院生が引き継いで行い、 最近論文投稿のはこびとなった。客員研究員として責任を果たし、彼と今後さらに親しい研究者となれることを嬉 しく思った。約一年余りの研究成果のまとめとデータはすべて彼のオフィスに保管された。彼の自宅でデナーに招 待された後、2001年6月、さらに研究を続けるため次の地、カナダのオンタリオ州にあるサンダーベイ市に向けて 約3,000キロのドライブに出発した。

 我々シニアの研究者がその専門を生かし、今後世の中に貢献したくてもその機会は少なく、間口は限られている。 しかし、インターネットなどの通信機器が著しく発達している今日、世界のどこにいてもさほど距離を感じなくなってきた。 定年といってもまだまだ意欲があり、健康な方は、国の内外を問わず、客員としてあるいはコンサルタン トとして、後進の指導、助言に当たるのも、やりがいのある仕事としてお勧めしたい。

* Faculty:大学の教職員。大学の学部をさす場合もあるが、アメリカでは教職員をさすことが多い。

参考文献
  1. Ajiro, K.(2000) J. Biol. Chem. 275:439-443.
  2. 網代廣三、Allis C. D. (2002) 蛋白質 核酸 酵素  47:753-760.
Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received September 19, 2002, Revised version received September 20, 2002.

©2002 筑波大学生物学類