つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 20-21.

つくば生物ジャーナル創刊号に寄せて ―生物学類誕生の経緯と提言―

渡邉 良雄 (上武大学、 元 筑波大学 生物科学系)

 生物学は、生命の起源・進化、生命現象の解明、生物機能の解明等を中心とする理学的分野の学問である。近年、 生命が物質を基盤に構成されていることから、解明されるべき仕組みも分子のレベルで論ぜられるようになってき たのは当然の推移である。私は、筑波大学が開学の1973年に向けて新構想を打ち出す中で、生物学類の構想に関して大変疑問を抱いた2つの点があり、当時東京教育大学の若手の新任教授として精一杯の改善を主張したが、聞き入れられず、今でもなお、心のどこかにくすぶるものが残っている。開学30年を迎える現在、立派に高レベル・高 水準で頑張っている生物学類を見て、もう、私の疑念を皆さんにお話ししても良い頃だと感じたので筆を取った。

 第一の疑問点:旧来の生物学においては、生命現象や生物機能の解明の手段としてその多くを形態学的手法に頼っていたが、1953年のネーチャーに発表されたワトソンとクリックによるDNAの2重螺旋構造の解析から、遺伝子 DNAとしての重要性が認識され、新しい分子生物学の波が押し寄せる状況になった。即ち、生物学の学問の進歩 には、物理学・化学・電算機を駆使した数学等の学問分野が解析基礎として不可欠であり、先進国では筑波大学開 学20-30年前頃から、生物学にこれらの理学的な学問領域との強力な連携が進められていた。にも拘わらず、東京 教育大学にあった理学部は、生物学を除いて、数学・物理学・化学・地球科学が第一学群・自然学類へ、生物学は 第二学群・生物学類へと別れて編成される案が強力に押し進められていた。私は今でも、理学を分解したことのデメリットは大きいと感じている。開学直前の頃、海外の先進諸国の大学を視察して帰った筑波大学創設の牽引車だっ た福田信之氏(開学時副学長・第三代学長)が理学部の評議員を呼んで「俺が視察に行った全ての大学で、理学系の教育・研究組織から生物の教育・研究組織が離れている例はどこにも無かった。それで良いのか」と念を押した そうである。福田先生が既に亡くなられておられるので聞くわけにいかないが、彼が筑波の新構想案を諸外国の大学に示した時に、疑問に思われ質問があったことは容易に想像される。まさに、学問進展にとって逆行する構想で あったのだが、時既に遅かったと聞いている。学群編成は、学年のカリキュラム編成の年次計画や移行計画と関係 したものが多かったが[1]、生物学類を第一学群に置かず第二学群に置いたのは学年進行とは関係ない理由があった ためだったと考えられる。なぜなら、昭和49年第一学群・自然学類に入学した第一回の学生だけは生物学専攻の学 生が認められた経緯があり、このような変則的な措置は学年進行とは違う理由によることが窺える。何れにしろ、20世紀後半の生物学では、化学との連携で生物化学・生化学・分子生物学等の領域が、物理学との連携で生物物理学・ 生理学・分子生物学が、数学とは数理生物学が発展し、生物学の殆どの分野に最新の情報技術が取り入れられ、解析が進んでいる。筑波大学で生物学が他の理学的学問から孤立していなかったらどのような発展をしたか、知る由もない。

 第二の疑問点:本学の教育部門をどのような構成にするかに就いては、昭和42年度から始められた東京教育大学マスタープラン委員会、昭和46年からの筑波新大学創設準備会を経て、開学直前に通称「青表紙」[2]が公刊される に至ったが、その間には種々の案がだされ紆余曲折し確固たるものはなかった[1]。しかし、「青表紙」は人事・施 設・入学定員等に関し年次計画を含めて文部省と協議決定したプランであり、大学では憲法のように遵守されたものであった。これによると、生物学類は、第二学群にあり、定員80名となっている。そこで問題になったのは、定員40名は生物学基礎、残りの定員40名は生物学応用、で前者は東京教育大学の理学部生物学科の教官が、後者は同農学部の幾つかの学科に属する教官がそれぞれの教育を担当する人事案が提示されていた。東京教育大学からの筑波大学移転に関して、文部省や政府の将来構想上の理由から、学部の定員を割って新大学に移行せざるを得ない唯一の学部が農学部であった。この為、農学部の現有人員を筑波大学の農林学類以外の各部局で余剰の帳尻合わせをせざるを得なかった訳であり、生物学類の担当及びポスト確保もその内の1つであった。私は、農学部の人事の困難さは理解できないではなかったが、生物学類の将来にとって、異常な教員構成は大きな波紋を残すものとして 容認できない事であった。私は、殆ど孤軍奮闘のようになってしまったが、当時の上層部に激しく持論をぶつけた。 どんなに嫌がられても良い、私は私の学者・教育者としての信念を貫こうと覚悟していた。(1)世界のどんな大学 にも、生物の学部に生物学者と農学者が半々で構成するような学部は聞いたこともない、(2)生物学類の基礎教育・ 専門教育課程のカリキュラムを考えると、1−2年の基礎教育は殆ど理学部からの教官が担当するので、理と農の 比率は1:1(40:40)ではなく3:1(60:20)になる筈である、(3)もし、大学の方針として、生物学基礎と生物学応用とをどうしても置けと云うなら、農学関連の応用分野の他、ポストを伴わなくとも、医生物分野、環境生 物分野、実験心理学分野等を含むべきである、の3点を主張した。(2)の主張は、人事委員会で検討され、第二代人事委員長町田貞氏による町田試案という人事の基本原則案が示され、その時点で生物:農林が3:1の人事配分となった。その後の阿南功一、中井準之介、澤口重徳人事委員長も町田案を踏襲された。私が人事委員長の時3:1 の1を0にする根拠が生じたので人事委員会で承認後、農林3学系長と話合ったが、ポストが埋まっていたため交渉が長引き実現しなかった。(3)に関しては、(1)との絡みもあり、他学系、特に医学3学系、の教官が積極的 に協力してくれる事になり、医生物サブコースが生物学類第一回生から開かれ今日に至った。このコースは医科学 修士設立にも繋がっていった。生物学類とその関連人事に関しては、歴史的経緯もあり、私なりに頑張った積もり であるが、農学部からの先生方には敵対意識を持たれた場合が多かった。「大学の移転をするときにポストの帳尻を合わす事など当然起こってくる問題だ。第二学群・生物学類という名称があるから渡邉さんが云いたい放題の事を云うのだ。今からでも第二学群・第二学類にしてくれ」と主張した先生もいた。

 私は、生物学類長の時、もう一度、筑波大学の学類と学系の在り方を考えた。学類という教育機関は、例えば生物学類であれば生物科学系の教官がコアとなり、時代の急速の変化や学際的問題にも柔軟に対応してカリキュラム案を立て、生物学の学問発展の基礎領域の学系、学際的問題解決のための学系、応用学問分野の学系、等から学類 から見て最適の教官を指名し、学類教育に参画してもらうのが筋であると考えた。私は、学類の1年生・2年生各 10数名にお願いして、数学・物理学・化学・地球科学・情報・英語等のノートを見せてもらい、どんなテキストを どのように教えてもらっているのかを調べてみた。生物学類の学生に必要なものがこちらで選べていない事や教える内容が難しすぎて、学生が混乱しているもの等が見つかった。例えば、英語はコミュニケーションか一般人向けのサイエンティフィクアメリカのような科学関連誌の講読が望まれるのに、シェクスピヤの専門の先生がシェクスピヤの英文学を講義していたり、化学では若手の先生が結合論に関して、偏微分を使ったシュレジンガーの波動方 程式を1年次の1学期から教えているのを知って大変驚いた。学生は訳も分からないが、試験の時には式を丸暗記していくとのことであった。数学の先生に聞いてみると偏微分は、3学期にやっと教えるとのことである。私は、生物学類の基礎領域を教える先生方に学類長室に何度も集まってもらって、教育内容に注文を付けたし、学系長と話 して適切な分野の教官に換えてもらったりした。以上は学類の基礎領域についての例であるが、応用分野、学際分野に関してもそれらの教育計画や他学系からの教官参画はあくまでも生物学類という教育機関に主導権があり毎年見直されるべきである(教官の生物学類ポスト使用の有無は副次的なことである)。この原則は将来に渡って遵守すべきであるというのが私の提言である。

参考文献
  1. 筑波大学の自己点検と改革の指標、筑波大学企画調査室、昭和63年3月
  2. 通称「青表紙」:筑波大学の創設準備について−まとめ−、筑波新大学創設準備会、昭和48年9月
Contributed by Yoshio Watanabe, Received August 15, 2002.

©2002 筑波大学生物学類