つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 134-135.

連載:高校の授業で取り上げて貰いたい「がん」

―その3 盛んに増殖するのが「がん細胞」の特徴か?―

本間 良夫 (埼玉県立がんセンター)

 「増殖速度が速いのはがん細胞と正常細胞のどちらか?」という質問を医学部の6年生にしてもほとんどの学生がけげんな顔をする。6年生は一通りの医学教育を修了し国家試験に向けて猛勉強中の状態にあり、医学的知識が一番豊富な連中である。予想通り正解はほとんど出て来ない。私が講義した大学のレベルが低いからではない。日本のトップクラスの大学の学生でもほぼ同じであると聞いている。つまり医学に従事している人たちでも、本当にが ん細胞について知っているのはがんを扱っているごく少数の者だけである。ましてやほかの学部の先生たちに至っ ては、推して知るべしである。癌細胞は増殖が速いのだから細胞増殖作用のある自分の見出した薬剤は抗癌剤とし て有用であろうとコメントしている薬学部の教授をみたことがある。がん細胞の本質は本当に盛んに増殖すること だろうかもしそうなら話は簡単である。攻略すべき目標が具体的に示されるからである。しかしそう単純ではない のである。通常のがん細胞の増殖速度は、正常の血液前駆細胞の増殖よりはるかに遅い。固形腫瘍の中には、極めて増殖が遅くdoubling time(細胞が倍加するのに要する時間)が数ヶ月というものまである。したがってこの様 な場合は細胞増殖阻害剤が癌に効き難く、正常の血球産生が一番影響を受けて深刻な副作用となってしまう。また 癌細胞を培養して株化を試みるときに、一番問題となるのは癌細胞より正常の線維芽細胞がどんどん増えて癌細胞 が増えられないことなのである。白血病に対しては細胞増殖阻害剤が有効であるが、この場合も選択的に増殖の速 い白血病細胞を殺しているのではない。正常細胞も白血病細胞も等しく抗癌剤は殺しているのである。正常細胞の 増殖能力が優るので、その後の回復時に正常細胞と白血病細胞の比率が変わるのである。これを繰り返して白血病 細胞を駆逐するのが現在の化学療法である。しかし不幸なことに白血病細胞が薬剤に耐性になり、治療後正常細胞 と同じ回復力を持つようになると抗癌剤は効かなくなったと判断される。臨床の場において抗癌剤が効かないとい うのは、抗癌剤が癌細胞を殺せないのというのではなく正常細胞と同じかそれ以上の回復力を獲得したことである。 あくまでも正常細胞との比較の上で議論しなければ意味がない。いくら切れ味の良い薬でも、正常細胞との差を出せなければ駄目なのである。ちょっと生物学からずれたので本題に話を戻そう。

 「がん細胞」の本質は、盛んに増殖する能力を獲得したことでないとすると何であろうか?細胞増殖の調節機構に 破綻をきたしたのが「腫瘍(がん)細胞」と定義できる。いくら細胞増殖速度が遅くとも、本来増殖が停止するべ きなのにその制御機構が壊れ増殖し続ける場合はこれに当たる。再生という現象を考えて頂きたい、失われた部分 を補うため細胞は増殖するが必要なだけ増えたら増殖はきちんと停止する。より包括的に言うならば分化も含め、細 胞の増殖・分化の調節機構の破綻が「がん化」である。調節機構というと、私はヒドラの再生やウニ卵の調節能力 を思い浮かべる。極めて強い調節能力の支配下にがん細胞を置けば、がん細胞はどう振舞うだろうか。がん細胞も 調節機構に破綻をきたしているとは言え、それを克服して調節能力を回復させる可能性もあると考えている。完全 な形で調節機構を修復する必要はない。細胞内のシグナル伝達機構は複雑なネットワークを形成しているので、破 綻をきたした部分を通らずバイパスを通過して情報を伝えることも可能であると考えられる。私はこれらの考えをがん治療戦略に取り入れ実践する試みをずっと20年以上続けてきている。最初は生物屋のお遊びとみなされ臨床家 からあまり相手にされなかったが、白血病の一部に分化誘導療法が実際に臨床的に有効であると証明された現在ではようやく認めてもらえるようになった。

 がん細胞は本当に興味深い生物学の対象と思えてならない。細胞が生き残る究極の姿を示しているのではないだ ろうか?本来なら寿命が決められているのにそれを克服して無限の寿命を獲得し、薬剤に曝露されればそれに耐性 になる機構を獲得し、自分が大きくなり過ぎて酸素の供給が不足すると解糖系を盛んにしてエネルギーを取得する し場合によっては新たに血管をがん組織まで引っ張ってくる、住み心地が悪くなれば新天地に向けて移動する能力 を得る。まさに細胞が生存するための障害に対し必要な能力を最大限に発揮してその障害を取り除き、誇らしげに 生存している姿が「がん細胞」と映るのである。これらの能力は新たに獲得したものではない。すべて、その生物 が持っている遺伝情報の中から最適な情報を引き出して用いている。逆の言い方をすれば、その能力を引き出せた細胞だけが生き残れてがん細胞として存在出来ているのかも知れない。

 以上3回にわたり取り留めのない話をしてきたが、「がん」の本質は他の疾患と異なり極めて生物学的なものであることを少しでも理解していただき、動物の発生の授業の時に「がん」についてちょっとでも言及して頂ければ幸いである。参考文献としては、上記の考えに基づいたがんに対する生物学的治療戦略について記した拙者の医学的総説を挙げておくので興味のある方はご覧頂きたい。御希望が有れば別刷りをお送りします。

参考文献
  1. 本間良夫:分化誘導療法、 Molecular Medicine, 35: 1366-1373 (1998)
  2. 本間良夫:白血病分化誘導療法の現況、 日本医事新報、 3924:1-5 (1999)
  3. 本間良夫:固形癌における分化誘導による制癌、 現代医療、 32:2437-2441(2000)
Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received Augast 17, 2002.

©2002 筑波大学生物学類