つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 132-133.

日本を「豚をおだてて木に登らせる」社会に

内藤 豊 (元 筑波大学 生物科学系)

はじめに

 以下の短文は4年ほど前に書き下したものである。Polishしようと暖めておいたが適期を失するといけないので生物学類ジャーナルに発表させていただくことにした。御笑覧下さい。

 「豚もおだてりゃ木に登る」と昔から言われている。愚人がおだてに乗せられて意外に賢いことをすることがあり、 その時、多少の賞賛と軽蔑を込めて言われる。「おだてられたから出来たので、本当は愚人なのだ」という軽蔑である。実は、世の中愚人のほうが多いのだから、木に登った豚は賞賛されてよい。

 始めから自信を持って生きている人は少ないと思う。普通の人は、他人からどんな些細なことでも誉められて始めて自信が湧き、前向きに生きる意欲が出てくるものである。この前向きの意欲こそ人を向上させる。たとえ自信 を持つ人でも、誉められれば意欲はいや増すはずである。そして、前向きの意欲に燃える人が多い国が栄えること は疑いない。

 私は若い頃、アメリカの大学で基礎生物学の研究に携わっていた。そのため、息子はアメリカの公立幼稚園、小・中学校に通わされた。その時大変印象的だったのは、小・中学校の先生方が息子に「他人と違う子供になれ」と言 うことであった。そして、息子は算数が良くできるから我校の誇りであると誉められた。息子の友達等も、スポーツが良くできる、トランペットが上手に吹ける、学校内放送で活躍しているなど、それぞれの得意な点を誉められ、皆自信を持ってのびのびと学校生活を楽しんでいた。

 そして今、私は筑波大学を定年退職し、再びアメリカの大学で基礎生物学の研究を続けている。アメリカの学会 に出席する機会が多いが、そこで印象的なのは、息子と同じ40代のアメリカの若い科学者の研究レベルが非常に高 いことである。勿論未熟な点も多いが、個性的な研究をやっているのである。30年前の、個性を育てるアメリカの初・中等教育の成果が今現れているように思われる。

 学会の雰囲気もまた印象的である。現在学会をリードしている50代の中堅科学者達が、若い科学者達の研究を盛 り立て、彼らにやる気を起こさせている。例えば、シンポジウムの企画や発表をまかせられるなど、若い科学者が、 学会を積極的にリードするようにしむけられている。若い科学者達もそれに乗せられて、伸び伸びと活躍している。 さらに、私のような70才台の半ぼけ老科学者に対しても、研究上の示唆を与えてくれたり、たまには誉めたりして くれるのである。年をとっても誉められれば嬉しい。つい乗せられて、たとえ腰が痛く、息切れがし、目が霞んで いても「よっしゃ!老骨にむち打って頑張ろう」という前向きの勇気が湧いてくるのである。

 つまりアメリカは、人をおだてて乗せ、自分もおだてられて乗せられ、競争原理に基づく明確な勝敗ルールを持 つ土俵上で勝負する国と言える。その土俵上で勝てば、立派な科学者として扱われるのである。

 前向きに押されたことが原因で、新たな前向きの力が生じるのは「正のフィードバック」と呼ばれる、状態の爆発的変化をもたらす原理である。アメリカの基礎科学が、何時でも飛躍的に発展する能力を秘めているのは、アメ リカの科学界に、そして社会全体に、この原理が常に働いていることによると思われる。

 ひるがえって日本に思いを致すと、日本は他人の足を引っ張る国のように見える。日本では相手を如何に土俵に 上げないかという戦いから始まり、土俵に上がれた人達は、余り明確でない勝敗ルールの下で戦っているような気 がする。

 前に進もうとする時、それを押さえる力が働くのは「負のフィードバック」と呼ばれる、状態を一定に保つ原理 である。日本の科学界は、そして日本の社会そのものも、この原理の下で動いているようである。こうして一定に 保たれた日本の基礎科学レベルは、そして小・中・高校教育レベルも、国際的に決して2流ではないが、この原理 が働いている限り、爆発的な飛躍は望めない。

 日本が21世紀に、総ての分野で世界と競い、勝つためには、日本人の優秀な潜在能力を引き出す必要がある。そ の最も容易な道は、社会に正のフィードバックのしくみを導入することである。言い換えれば、日本を「豚をおだ てて木に登らせる」社会にすることである。そして、このしくみが働くためには、総ての分野で、世界に通用する 明確な成果の評価基準を定めることが必須である。日本人の持てる能力を、誉め且つ厳正に評価して、最大限引き 出さなければ、あたら宝の持ち腐れとなり、大きな国家的損失になることを忘れてはいけない。

おわりに

 11月の初め名古屋で開かれた日本生物物理学会年会に出席した。私のかつての弟子T君がシンポジウムでとても 良い発表をした。研究内容も発表の仕方も素晴らしかったので「とても良かったぜ、100点満点だ」とほめると、彼 はとても嬉しそうだったが「内藤先生は豚をおだてる人だから100点はその伝でしょう」などと憎まれ口をたたい た。これは彼の誤解である。誤解を解くためにここで「内藤式豚おだて評価体系」の概略を説明しておく。

 実際の研究の quality をQとする。全然駄目なものは0、完全なものは100である。これは勿論厳正な評価体系 にしたがって評価する。そして私がその研究者に告げる研究の評価点 evaluation index、 E は勿論Qの関数、 E = f(Q) で、 f(100) = 100、 f(0) = 0 である。つまり、Qが0から100まで変化する時、Eも0から100まで変化す る。したがって私が100点と言った時、その研究の質は本当に100点なのである。そして少しでも価値のある研究 であれば、すなわち研究評価が0でなければ大いにほめて木に登らせる「内藤式豚おだて評価体系」では常に

 f(Q) > Q

という関係が成り立っているのである。この時f(Q)は上に凸の右上がりの曲線で表されることになる。

 ちなみに何時でも

 f(Q) = Q

で評価される方はとても生真面目な方である。科学研究費の審査や、教授のプロモーションはこれによらなければ ならないことは言うまでもない。f(Q)は勾配1の直線で表される。

 もし弟子に対して何時でも

f(Q) < Q

にしたがって評価を告げる教授は弟子を押さえることが好きか、弟子に追い越されることに恐怖を感じている方で ある。伸びる弟子も伸びなくなる。f(Q)は下に凸の右上がりの曲線で表されることになる。

 どなたか定数を変えることにより上に凸の右上がりの曲線、勾配1の直線、下に凸の右上がりの曲線に変わるよ うなエレガントな E = f(Q) を考え出して下さい。そしてその定数を encourage factor とか、 discourage factor と呼ぶのは面白いと思いませんか。

Contributed by Yutaka Naitoh, Received November 13, 2002.

©2002 筑波大学生物学類