つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 22-23.

筑波大学生物学類ことはじめの記

千原 光雄 (千葉県立中央博物館、 元 筑波大学 生物科学系)

 『21世紀は生命科学の時代ともいわれる。常に未来を志向し、新しい社会に適応する人材を育てる筑波大学に、ラ イフサイエンスの旗手を目指す若い学徒が集う「生物学類」の誕生を見たのはまさに時宜を得たことであった。

 かつて生物を観察し、そして記載することから出発して強固な土台を築いた生物学は、今や物理学や化学の手法 を思う存分に駆使して生命現象の本質を浮き彫りにしようとしている。生物学で得られた知識は、人間の高度な精 神活動、保健・医療、環境保全、生物資源の利用などを研究する応用諸科学の基礎として活用され、人類の福祉の 増進と産業の発展に寄与している。そして、同時に、福祉の向上や産業の発展などへの要求が、生物学の研究を促 進してきたことも見逃せない事実である。世界で未だ例を見ないと思われる教育組織、生物学を教育する、学部にも匹敵する独立の組織「生物学類」の教育 はどのようであるべきか。それは筑波大学の創設に情熱を注ぐ当時の東京教育大学の教官に課せられた一大命題で あり、昭和47年(1972)、48年、そして49年は熱い討論と審議の中で過ぎた。生物学の裾野は広く、境界の領域も 広い。理学部生物学科の教官を中心とする関係者は、あるときは自然学類の関係者と、またあるときは農林学類(現・ 生物資源学類)、あるいは人間学類、医学専門学群、体育専門学群など、広くライフサイエンスの観点から、およそ 生物学と関連をもつ学問分野の方達と数多くの会合を重ねた。

 生物学の基礎研究の旗手の育成を目指す「生物学類・基礎コース」と学際的・応用的研究の旗手育成を重視する 「生物学・応用コース」の二つの主専攻分野はこうした背景に立って誕生を見た。後者には、医生物学、環境生物学、 及び応用生物化学の三つのサブコースが組み込まれている。このほかに生物学類では、人間を含めて生物の知覚、記 憶、思考、行動など、高次の生物現象について学び、自然界における人間の役割や位置づけを理解すると共に、人 間の創造性を高める原理と方法等を学ぶ社会(または人間)生物学サブコースを設置する構想ももったが実現に到っ ていない。

 いまだ槌音が高らかに響く筑波の地に、昭和50年(1975)、「生物学類」は発足した。しかし、当初は学類が所属 する第二学群の建物は片鱗さえなかったので、その後の数年間は、体芸棟、第一学群棟、そして第二学群棟と、転々と教室とオフィスを変える借家住まいともいうべき苦難の道を歩くことになるが、それはともかく我が「生物学類」 はこの年呱々の声をあげた。筆者のように東京教育大学からの出向組は週の前半か後半はつくばの大学で、そして 残りは東京の大学でという生活であったが、新たに筑波大学に直接来られた先生方は、実験室もなく、実にお気の毒であった。新大学の入学は年度進行であり、東教大の卒業も同様に年度進行であったので、週に二つの別組織での教育はおよそ4年は続いた。

 今や、生物科学系棟横のケヤキの並木は巨木となって挺々とそびえ、一の矢宿舎へ向かう道路のアケボノスギの 列は見事な成長ぶりである。生物学類から巣立った学徒たちの活躍ぶりも頼もしく、それぞれの分野での評価は高 いと聞く。長靴をはき、泥だらけの上の敷板の行先を見極め、慎重に歩を運んで目的の建物にようやく辿り着いた あの頃の面影はもはやどこにもない。創設以来生物学類が歩んだ道は決して平坦ではなかったが、しかし、確実に 成果を挙げてきたことも確かである。これからも平坦でない道が続くと思われる。苦難の先には栄光が待つという。 生物学類が評価に耐えうる道を歩むことを確信したい。』

 上記の『 』の文は、筆者が生物学類長の時代に筑波大学新聞・第12号(昭和51年11月15日)に寄稿した「生 物学類・ライフサイエンスの旗手めざして」と題する小文と、筑波大学十年史・回顧篇(昭和59年10月・筑波大 学十年史編集委員会編・筑波大学総務部総務課発行)に掲載した拙文「生物学類の創設について」を少しく手直し したもので、筑波大学の開学に関与した教官たちが生物学類の創設に傾けた努力と情熱と、そして我が「生物学類」 誕生の経緯の一端を知っていただけたらと思い、再録した次第である。ところで、学類長時代の筆者には、生物学 類の教育に関して、将来、より密接な連携を保たなければと思うことがあった。それは生物学類と自然学類との関 係である。後に紹介するが、当時の自然学類長であった茂木 勇教授も同様な意見をもっておられた。周知のよう に、生物学類の中核母体となった東京教育大学の生物学科は理学部に所属していた。基礎科学である生物学を扱う 教育組織は一般に理学部所属である。生物学では、化学や物理学などの理論や技術を駆使して研究する分野が最近 とみに拡がりを見せ、既に幾つかの大学では生物化学科や生物物理学科などの名称を冠する教育組織ができている。 筑波大学の生物科学のよりよい発展のためには、生物学類と自然学類とのよい形での連携を考える必要があるだろうという点である。生物学類では関連基礎科目として、1年生向けに、微積分・同演習、物理学・同実験、化学・同 実験、地球科学・同実験の授業を自然学類にお願いし、生物学類からは、生物学・同実験、生物学臨海実習(下田) を自然学類に提供しているが、この程度の相互提携でよいだろうかということである。

 創設以来、筑波大学では、基礎分野をもって編成された基礎学群が第一学群であるのに対し、通称「文化・生物 学群」と呼ばれる第二学群は応用的学際的色彩に富む分野を包含する学群と位置づけられてきた。最近の筑波大学 新聞(第220号・2002年4月8日)によると、北原学長は、学群の改組再編はありうるのか? のインタービュー に答えて、「開学当初はともかく、今や、第一、二、三学群と言う分け方に教育上の意味はない.・・・例えば、人 文・社会系学群、自然・生命系学群といった分け方で今後改組再編を実現したい.」と述べている。開学30周年を 機に生物学類と自然学類とのより密接な連携について議論が進むことを期待したい。

 ここで一言、筑波大学生物学専攻第1回生のことについて触れておきたい。前述のように、東京教育大学の理学 部を構成していた生物学科以外の学科、数学、物理学、化学、地学が所属する第一学群は発足が昭和49年(1974) 4月であるのに対し、第二学群のそれは1年遅れの50年4月であった。既に、理学部は昭和49年度の入学試験は 行わないことが決定している。このことから、昭和49年度は、生物学専攻を希望する学生も自然学類生として入学 する変則的な措置がとられることとなった。そして、この年に入学の自然学類のクラスの担任には生物科学系の教 官も参加することとなり、渋谷達明教授(現・名誉教授)と筆者とがこれを務めた。このときの自然学類長は数学 系の茂木 勇教授(後の第一学群長、副学長)であった。こうして、生物学専攻の筑波大学第1回生は自然学類の 卒業生として世に出ることとなった。この辺の経緯については、前述の「筑波大学十年史・回顧篇」の中で、茂木 教授が初代自然学類長の立場で書いておられるので、関心のある方は参照されたい(p.150-151)。

 この「回顧篇」の文中で、茂木教授は、”私にはいまだに気になっている問題が一つ残っている”との書き出しで、 自然学類と生物学類の関係について大要次のように述べている。”生物学分野を欠く自然学類は授業科目の選択履修 など相互乗り入れの形で、ある程度その欠を補う努力がなされているようであるが、自然学類の教育としてこれで よいか。生物学類も理学部体系から独立したような形になっているが果たしてこれでよいか。もちろん、これらの組織を合わせて理学部的な教育組織を構成するような逆向きの発想ではなくて、それぞれの教育体系の目的・特質 を助長し、より豊かな内容をもたせるために、この組織の中にどのような体系を組み込めばよいか。原点に立ち返って、考えてみて頂けたらと願うものである。”

 戦後の6・3・3・4制以来、大学は最大の変革の場に直面しているという。昨今の大学運営のむづかしさは大 変なものであるらしい。教員の皆さんのご努力を多とし、秀でた学徒たちが集(つど)う生物学類のさらなる充実 と、新たな学類誌”Tsukuba Journal of Biology ”の刊行の継続と発展を切に祈りたい。

Contributed by Mitsuo Chihara, Received August 14, 2002.

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