つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 44-45.

「つくば生物ジャーナル」の創刊に寄せて
―新しい生物学の流れの中での本ジャーナルの役割―

高城 忠 (東京学芸大学 教育学部 生物学科)

 今般、「つくば生物ジャーナル」なる電子ジャーナルが刊行されることとなり、林純一生物学類長より、その創刊 号に何か寄稿せよとの“名誉ある”ご指名を仰せつかった。この電子ジャーナルの性格については、私なりには、大 学に籍を置く者は、自らの研究に没頭し、研究成果を挙げているだけでは充分ではなく、学生の教育のみならず、そ れぞれの領域における学問の進展やその応用に関しても、充分な社会的責任を負い、社会に対する説明責任を果た さなければならない、との位置づけの中で刊行されたものと解釈している。これらのことは、一研究者というより は、それぞれの研究者を包含する組織としてより明確にする必要があるものと思われる。その意味において、この 電子ジャーナルの創刊の経緯で林学類長が述べられていることは、まさに的を射たものであり、深く敬意を表する ものである。

 自らの過去を振り返ってみれば、筑波大学の前身である東京教育大学で過ごした9年余の歳月は、既に30年も前 の話であるが、まだまだ、多くのことを考えずに勝手に研究を行うことができた時代であった。趣味の学問として の生物学という風評が残っていた時代でもあり、ビッグサイエンスという大きなうねりの中で新しい生物学の時代 の到来を感じ始めた時代でもあった。今日、現実に「生命科学の時代」とか「バイオサイエンスの時代」とかよば れる時代を迎え、生物学は基礎科学から応用科学までを包括する極めて大きな学問に成長し、いろいろな意味で責 任も求められる時代になってきた。研究手法も大きく変わり、生き物の一つ一つの構成要素を分解しながら生物を 理解して行く時代から、生命の根幹である遺伝子の働きを中心として組み立てながら生物を理解して行く時代となっ てきた。このような傾向は今後ますます強くなり、学問のスピードも影響力も加速度的に進歩して行くものと考え られる。

 現在、自分が置かれている教員養成大学という環境は、進みの早い生物学を研究する環境としては、お世辞にも 恵まれているとはいえず、新しい生物学の流れの中で競争的に成果を上げようとすれば、焦燥感でもがき苦しむか、 自らを無能な研究者として位置づけ諦めるかのいずれかだろうというのが正直な気持ちである。そのような自分の 状況を正当化しようとしているわけではないが、研究者としての内側からの発想だけではなく、新しい生物学の流 れをどのように学校教育の中に取り入れるべきなのか、どのように説明してゆけばよいのだろうかと考えているう ちに、何となくいろいろなことが見えて来たような気がしている。

 新しい生物学の流れが急であり、いわゆるバイオサイエンスの分野における多くの成果が、経済の原理の中でも 位置づけられるようになる一方、個々の研究者に対する評価は厳しさを増し、評価の客観性が求められるようになっ てきた。論文の数と投稿雑誌のインパクトファクターなどといった観点からの評価が普遍性をもつという考え方が 一般的になるにつれ、研究者はそれぞれが置かれている研究環境の違いに関わらず、自らの研究に内向し、研究成果を効果的にまとめ、いかにその研究が有 用であり、応用性のあるものであるかをアピールする方向へと向かいつつある。特に、若手の研究者やこれから研 究者を目指す者は、大学院の数や定員は大幅に増加したにもかかわらず、大学教官の定員やポストは減少する状況 の中で、パーマネントの研究職に就くために、極めて過酷な状況に自らを追い込みながら、量的、質的に客観性の ある成果をあげようと必死に努力している。

 このような学問の流れの中で、大学や大学院の役割も大きく変わり、基礎的な学問を学んだ上での後継者の養成 というよりは、日に日に変わる研究手法をマスターする即戦力としての若手の教育機関という感が否めない。大学 においては、それぞれの学問分野の歴史、思想、哲学などを学んだ上で、実践的研究の道に入るものという考え方 は既に過去の考え方という価値観もあろう。しかし、新しい生物学が、生命の根幹である遺伝子を操作するという、 これまでの生物学の解析な研究手法にはなかった究極的な研究方法を取り、生物学の重要性が日増しに増加する今 日こそ、このようなことがもっとも重要視されるべきではないかという気がしてならない。人間自身が生物である にもかかわらず、遺伝子を扱う研究では、生物の実体を見ずに研究を進めることもあり得ることを考え合わせると、 余計、気になるところである。

 地球環境への人間の関わりがいろいろな観点から論議され、自然保護や希少生物の保護などが叫ばれている今日、 生物学を学んできた人間として、我々も、現代的な意味で「生き物とは何か」を正確に伝えることにも腐心すべきと考える。現代的な意味で生き物を理解するためには、生物の多様性も細胞の中での遺伝子の働きも、時系列的要 素も含めて考えるならば、遺伝子の働きの結果と遺伝子の働きそのものという意味で、同一次元の事象と捉えるこ とができ、遺伝子の働きについての正確な理解が肝要である。これからの生物学の中核をなす遺伝子を扱う研究が 目指す方向は、人類にとっての極めて有効な結果をもたらすことは間違いのないことであろう。しかし人間を含め た生物全体について考えるならば、常に脆弱さや危険性を伴っていることを忘れてはならず、それだけに新しい生 物学に携わる人間は、研究に没頭する部分と、一歩引いて第三者的に自らの研究や学問の流れを眺めることは極め て重要である。

 情報化の現代、それぞれの職業人は、自分がなすべき仕事を適切に理解し、極めて積極的に成果を上げることに 努力している(このことは、個々人が、ガラス張りの中で厳しく評価され始めたことで一層その傾向が強まったの ではないかと思うのだが)。また、それらの“成果”が極めて多岐にわたって同時に進行して行くので、集約される 成果が、どのような速度で社会や世界・地球を変えて行くのかを判断することがむずかしい。先を見通す能力を本 来はあまり持ち合わせていないのではないかと思われる人類にとって、情報化の流れは、さらに将来を予測しにく くしているような気がしてならない。

 これまでの科学技術の発達が、一方では負の遺産を残してきたこと、また、これまでの科学技術の発達の中では 主流ではなかった生物学が、これからの科学技術の中心になろうとしている事を考えると、いわゆる学問的な成果 とは別に、新しい生物学の成果がもたらす効果や影響についても、それらの分野の研究者も含めいろいろな専門の 分野の人間やいろいろな考え方の人間が種々の角度から論議することは極めて重要なことと思われる。しかしなが ら、そのような論議をするメディアがこれまでにあったかというと、現実には存在しなかったのではないかと思われる。

 これまで述べてきたように、地球の生命の歴史の中で、長い時間をかけながら遺伝子を変化させ多様化した生物 と短時間で遺伝子に変化をもたらす技術を獲得した人間を、我々自身がどのように対峙させながら、どこまで先見 性を持って研究を進めて行くかといった問題は、極めて重要な課題であり、これらの論議は、いわゆる研究雑誌の 上では論議することはできない。そのような意味で、この電子ジャーナルが、研究成果の主張だけではなく、研究 そのもの社会的意味の説明の場として、生物学を研究する者の考え方や哲学を論じる場として、また、研究そのも のからは離れた価値観からいろいろな分野や職種の人間が、生物学に対する批判も含めながら論議する場として機 能し得るものと考える。そのような貴重な媒体としてこの電子ジャーナルが発展して行くならば、大学という教育 研究組織が、自らの社会的責任を果たすための重要な手段となり得るものであり、その役割をこのジャーナルが先 駆的に果たすこととなり、極めて高く評価されるべきものと思われる。

 「つくば生物ジャーナル」の刊行に関られる方々のこれからのご苦労は、想像に難くないが、このような重要な役 割を認識され、この電子ジャーナルを幅広く発展させて行かれることを大いに期待するものである。また、現スタッ フの先生方やOBの先生方、卒業生の方々など多くの方々の協力で、この「つくば生物ジャーナル」が、そのような 方向へ発展して行くものと信じている。

Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received August 27, 2002.

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