つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 122-123.
科学研究者雇用における年齢差別の撤廃を内藤 豊 (元 筑波大学 生物科学系)
はじめに下記の拙文は私のメモである。日頃ボーっと考えていることを断片的に書き留めておいたもので、機会があれば他人に無理矢理読ませて意見を求めたりもしてきた。その多くは友人や昔の弟子(今は皆立派な研究者になって私 が教えられることの方が多い)で、随分と迷惑に思われたであろう。まだ下書きの段階で学類誌に載せて頂くのは失礼の極みで忸怩たるものがあるが、この学類誌は討論の場でもある由伺ったので、あえて載せて頂くことにした。 実はこれをネタに議論して頂くことで自分の考え方のrenovationをしようと謀ってもいるのである。孤独にしんねりむっつり考えることは第一義的に大事であることは言をまたないが、余程偉大な人でもない限りその限界は目に見えている。複数の人とわいわいがやがや討論することは凡人の知的進歩にとても役立つ。たとえそれが99%空論であっても1%の実があれば、もう討論者全員は十分に知的に報われたと言ってよい。この私の聊か幼稚で短絡的 な論議を読まされた友人の一人は「久しぶりの内藤節(ないとうぶし)を楽しんだ」と慰めてくれた。下手な義太夫と同じである。持つべきものは友とつくづく思う。
私は筑波大学定年退職後、全米科学財団(NSF)からささやかな研究費の補助を受け、ハワイ大学マノア校の客員教授として生物学の研究を続けさせてもらっている。30年程前、若気の至りで東大の助手を辞め、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の準教授として研究を続けていたことがある。その時大変印象強かったのは、日本ではとっ くに定年退職しているはずの年齢の多くのアメリカの科学者が、科学の第一線で活躍していることであった。ハワイにいる今も同じ印象を持っている(「ハワイはアメリカですかねぇー」なんて憎々しげに言う、アメリカ本土に住 んでいる元弟子もいるが)。 アメリカの大学では、原則として定年退職はない。退職時期を決めるのは科学者本人である。テキサス州などの富裕な州を除けば、州からの科学研究費の補助は殆どないので、大学・研究機関に属する科学者は、科学財団から研究助成金を貰わない限り研究は続けられない。アメリカの研究助成金申請の審査は厳しく、公平である。研究のアイディアが枯渇すれば忽ち研究費は貰えなくなる。研究費がなければもはや研究は進まない。そこで極自然に退職を考えるようになる。研究のアイディアや意欲が湧かなくなくなる年齢は人によって大きな差がある。したがって60歳台で退職する人もいるし,80歳ながらかくしゃくとして研究を続ける人もいることになる。言い換えると、 アメリカの科学界には年齢差別がないのである。 ひるがえって日本は、科学者に対する年齢差別の激しい国である。日本では定年退職した科学者の殆どは、たと え研究意欲や能力があっても、研究を断念しなければならない。一昨年ノーベル化学賞を受賞された筑波大学名誉教授白川秀樹氏がテレビのインタービューで述べられた言葉「今年定年退職したので、これからは野菜でも作りながら余生を送ろうと思っていたのにそうもいかなくなった云々」は大変ironicalである。もしかしてprovocative なご発言であったのかも知れない。白川氏とノーベル賞を共有された、白川氏よりも年長のアメリカの化学者の一人はインタービューで、立派な研究室を背景に、受賞の喜びとこれからの研究の抱負を語っておられた。とても対照的であった。 日本にも定年退職後再就職する科学者はいる。しかし彼らの多くは、研究者よりはアドミニストレーターとして活躍するか、活躍させられている。実は定年退職科学者を迎える奇特な機関は、彼らの退職前の名声が大事なのであり、彼らに研究を続けてもらう気持も期待も極めて少ないように思われる。白川氏もノーベル賞の甲斐あってか、その後要職につかれたようだが、白川氏のような、能力も研究意欲もある科学者が本当に欲するものは、名誉ある地位ではなく、研究が続けられる環境ではなかろうか。ノーベル賞まで達しなくても、定年で大学・研究機関を去る有能な科学者は日本にも数多くいる。彼らが研究を続けられる環境を提供することこそ日本の科学の将来の発展にとって重要に思われる。年取った、経験豊富な、優秀な科学者は国の宝であり、これを年齢だけで排除するのは、あたら宝を溝に捨てるのと同じで、日本国の大損失と言わねばならない。21世紀における日本の科学技術の発展が、必ずしも楽観視されていない現在、大学・研究機関の科学者に対する年齢差別の撤廃を強く提案したい。 老科学者が大学・研究機関に長として居座ると若い科学者が育たなくなるから定年退職制は必要、という主張もある。しかし若い科学者が育たないのは、その老科学者が若い人と共に研究を発展させる能力がないことを示しており、そのような人が長の地位をしめていることが問題なのである。一方、定年退職制が若い科学者をスポイルしていることも忘れてはならない。あくせく研究していなくても年が来れば、まあ余り研究内容がひどくなければの話だが、プロモーションされるからである。そこで老若男女を問わず、大学・研究機関に所属する科学者が、本当に研究業績を上げているか、また上げる能力があるかを厳しくチェックすることが、年齢差別撤廃の大前提になる。 特に老科学者に対しては、過去はともかく、現在研究を遂行しているか、また遂行能力があるかをチェックしなければいけない。脳の老化は確実に進むものであるからである。アメリカではノーベル賞受賞者でも、研究が進まな くなれば現役研究者の地位には留まれない。言い換えれば、過去の栄光だけでは研究者の看板は掛けられないので ある。年老いてなお研究を続けているアメリカの科学者達は、研究費獲得において、若い科学者と同じ土俵上で競っている。負ければ引退である。ひるがえって日本では、老人の繰り言になるが、老科学者は年齢という評価基準だけで若い人と同じ土俵に上がることを拒否されている。不合理で怒りさえ覚える。そしてとても悲しい。 私はこれまで機会あるごとに、日本の科学者による科学研究成果の評価システムの開発を訴えてきた[1][2][3]。 それは,今回の提案「科学者の年齢差別の撤廃」のための必須条件であるばかりでなく、21世紀の日本の科学の発展は、それ無しには有り得ないと思うからである。私はここに再び声を大にして訴えたい。「今こそ日本人の英知を集めて科学研究成果の評価システムを完成させよう」と。 参考文献
Contributed by Yutaka Naitoh, Received Augast 21, 2002.
©2002 筑波大学生物学類
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