つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 28-29.

創刊号に寄せて

江原 有信 (元 筑波大学 生物科学系)

 筑波大学の淵源を尋ねると,遠く明治5年(1872)師範学校設立にまで遡る。学校は江戸幕府の官設校、昌平黌の跡地に開校した。翌6年に小学師範の卒業生を出し、同11年に中学師範の卒業生も出している。同35年名称は東京高等師範学校となり、同36年手狭のため大塚窪町に移転。昭和4年に東京文理科大学設置。昭和24年東 京教育大学に統合。昭和48年筑波大学が設立された。以上は筑波大学に至るまでの沿革で、大学設立までの歴史は今更手に入れることが出来ない貴重なものとして、記憶にとどめて置いてほしいと思います。

 筑波大学は当初から、総務部広報調査課発行の学報のほか、速報つくばという情報紙が企画調査室から発行されていました。これに目を通していても、大学内で進行していることごとが全て腑に落ちるわけではありませんでした。それらの結果を生むまでの経緯については、当時内報つくばなる情報紙があれば、理解を助けたであろうと考えたことがありました。そこで筑波大学設立の内輪話を、幾つか抜き書きして置こうと思います。

◎ 筑波に研究学園都市を作る話は、河野一郎建設大臣が閣議で発言し了承されたことから始まったと言います。 その中には核になる大学を置くことが必要と考えられ、予てから移転問題に取り組んでいた東京教育大学が候補に挙がったそうです。そのことから、当時の三輪知雄学長(植物学)が茨城県の現地をヘリコプターで空から視察し た。其処は広い平地で、大学の移転先に相応しいのではないかと考え、各学部に諮問することになった。そうすると文・ 教は反対、農・体は賛成、理は保留とした。早速理学部においては福田信之教授(物理学)が情熱を傾けて移転問題の検討に乗り出し、三輪光雄理学部長(物理学)を中心とした検討委員会で熱心に議論が重ねられた。時にはこの間題が大学紛争の火種の一つになり兼ねないと思われた。更に、小寺明教授(化学)の執筆した、大学移転に伴う心配ごとについて、具体的で詳細な「小寺ノート」が出た。理学部の検討委員会でも取り上げ、本人の解説を聞 きながら討論を始めていた。

◎ 一方理学部では、現地を視察して来る必要があると、検討委員を始め関係者が車を連ねて出かけることになった。桜川のほとりでこの辺一帯が大学用地で、長さ3粁幅1粁程になるだろうという。全くの荒地で所々に若い黒松の林と農家があり、あとは萱の生い茂った変りばえのしない土地である。この広大な荒蕪地を放置してあるのは、 余程酸性が強い土地だからなのだろうと思われた。それから筑波山の中腹まで行って昼食をとり、大学へ戻ることになった。現地の様子を教室で報告し、委員会で検討し、教授会に報告があった。

◎ やがて教育大学評議会は「筑波に土地を希望し、条件が整えば移転する」との方針打ち出した。それから昭和43年6月、次期学長に三輪光雄名誉教授を選出した。文学部教授会は移転反対で和歌森文学部長(日本史)は辞表を出し、文学部はストライキに入った。ついで月末には全学ストに突入してしまった。体育を除く4学部は入学試験を実施出来ず、学長は責任を負って辞任する不幸なことになった。翌年2月正常化を宮島学長代行(物理学)が断行し、学園は新大学へ移行の準備に入った。この前年大学移転の先駆けとなって、下田臨海実験所の全面改築 が、三輪知雄学長の任期切れ直前に学長の内命通り完成し、晴れて落成式の運びとなった。

◎ 昭和48年に通称筑波大学法案が国会を通過し、三輪知雄初代学長のもと新大学が発足した。翌年第一学群などの学生募集を行い、入学試験は東京教育大学で機動隊の援護のもとに行われた。生物学類を含む第二学群などの全学は、翌昭和50年に受験生が多数のため、代々木ゼミを会場として入学試験を行った。幸い事故もなく入学試験は終った。それからも大学の機能は順調に発揮され、卒業生の就職も幅広く伸びた。

◎ 昭和56年12月、元遺伝研究所所長、木原生物学研究所所長、麻布学園名誉理事長、文化勲章受章者の木原均博士を招き、特別講演[私の小麦研究]をお願いした(第1図)。気さくに小麦の原産地を遺伝学から突き止め たことや、種無し西瓜の話にまで及び、丹念に観察、実験して考察を進めて来た研究のまとめであった。

第1図 遺伝学の泰斗、木原均先生の講演
    (筑波大学、2B411教室にて)

 終わって からのお茶の会で博士が、筑波大学は筑波山までキャンパスに組み入れれば良かったのにと申された。  私が生物学類長に選出されたのは、筑波大学附属高等学校長の任期途中であった。その前には教育大学評議員と して、新大学への移行を円滑に進める役割の一端を受け持ち、後戻りを許さない教官人事にまで手をつけていた。そ れからも新大学を組み立てる縁の下の仕事に携わり、生物学類が誕生出来たのも、学類計画等全てが円滑に進行し、幸運も手伝った賜物であったと思っている。

◎ 苦労して出来上がった大学も、足手まといと思われる学部学生が居ることが、研究所と違い大学を生き生きさせる基と言われる。大学は20年か30年毎に大改革が必要とされ、いま筑波大学もその時機に来たと考えられ る。移行当時はやること為すことすべてが活気に満ちていた。私が生物学類長になったとき、我が学類から学則違 反者は一人も出さないと内心決めていた。違反の烙印を捺してお仕置をしても、逆効果になることが多いから、その時は私に本人の扱いを任せて貰い、旨く行かなかったら学類長を辞めさせて貰うつもりでいた。それに 全員が揃って卒業するようにし向け、どの学類よりも一頭地を抜くよう学生に努力を望んだ。四年に亘る任期中、違 反学生は一人も無く、四年目で卒業出来なかった学生の数は極めて少なかった。それに英語のプレイスメントテス トでAを取った人数が、全学で最も多数だった。このTOEFLに類するテストで、学類の定員は最少なのに、A が最多数だったのは誇るべきことで、英語を専攻する学生でもないのにと、学長も驚いたと聞いている。哲学の永 井教授の講義は受講生が多く、特に生物学類の学生の答案に注目し、中で解答の良い答案を基準にして全部の採点 をすると、ぴったり納まると言うのである。私の情報生理学の講義には生物学類学生の答案が要を得ているので、専 門だから当然といえば当然だが、高い点数をつけなければならなかった。そうなると面白いもので、講義も何時に無く力が入る。一回しかない大学の講義にしては珍しいことである。それは明らかに話す方と聴く方との相互作用が齎したものである。

 或る時心易い事務官が、「一体江原さんは何を研究しているのですか」と聞いた。私は「そうね、細胞と細胞の相 互作用を調べているので、言ってみれば友達間のやりとりを興味を持って眺めているといった所ですかね」と答え た。そうするとこの事務官は「ではシナプスですか」と言う。まさか事務官がシナプスという学術語を知っていて、ここで使うとは思ってもみなかった。その経緯を尋ねたら、且て東京医科歯科大学の主計課に居たとき、勝木保次 教授(生理学)の研究を全学で応援することになったので、シナプスを盾に文部省に予算の上積みを願いに行った。 それで知っているのです。シナプスが神経細胞の作用に重要な働きをしていると勝木教授から教わったので、この 重要なことを研究しているからと文部省で強調したのだと言う。教授は聴覚研究の世界的権威で、文化勲章を頂い た科学者である。私は先生の助教授時代からお知り合い頂き、それからもずっと研究上のお世話になって来た。と ころで、私の研究の細胞と細胞との機能関係は、勝木先生が問題にされた一方的な方向をとる化学シナプスとは違 い、牡蠣心臓の筋肉細胞どうしでは両方向牲を持つ相互作用の仲立ちになる電気シナプスで、特に関連して活動リ ズム生成も調べていました。丁度人間どうしのことみたいに、細胞は互いにピリピリ影響し合っているのです。ま るで小説などでもてはやされる恋愛物語を目の前にしているみたいでした。

 個々の心筋細胞が自発活動し、且つ相互に作用し合った結果、同一の活動リズムにまとまる統合機構の存在を見 つけました。それは自発活動リズムの速い細胞は遅いものに遅くさせられ、自発リズムの遅いものは速いものに速 くさせられ(第2図)互いに歩み寄って、全体の活動リズムは速くもなく遅くもない一つのリズムに統合されてい るということです。我々の心臓リズムも洞房結節内でこのようにして生成されていると考えられました。この統合作用は我々人間の営みにおいても、見習うべきであると教えているように思えてなりませんでした。


第2図 牡蠣の心室、繋げた2片からの細胞内活動電位
A:追随片(後発、下の曲線)の活動を薬物AChで 抑制(矢印)したとき、そのままにしておいた先発片(上の曲線)の活動リズムは速くなった。 31.6⇒37.5/分
B:先発片(上の曲線)の活動を薬物AChで抑制(矢 印)したとき、そのままにしておいた追随片(後発、下の曲線)の活動リズムは遅くなった。 39.2⇒26.7/分
それぞれの活動を停止した片には小電位が電気シナプスを通して現れている。(江原原図)

心拍リズム生成に関する参考文献:
  • Ebara,A(1969) The role of small potentials in the regulation of rhythm in an oyster heart. Experientia,suppl.,15: 244-249.
Contributed by Arinobu Ebara, Received August 5, 2002.

©2002 筑波大学生物学類